第9話 спасибо
ダラスに移動してきて、二週間ほどになります。クリスと二人でホテル暮らしです。
町を歩き、自転車に乗り、乗馬をしました。そこは「本物のカウボーイ」がいるとクリスに言われて楽しみにしていた牧場で、確かに映画の中で見るような訛りのある人たちがいました。レストランで食事し、映画を見たり図書館で本を読んだり、という生活はこれまで通りです。
ですが、父親らしき人に出会うことはありませんでした。
「ぼく、覚えていないから、会ってもわからないんじゃないかな」
「それはない。間違いなくわかる。一度自転車に乗れば、乗り方を忘れることはないだろう? だいたいカーヴィーはいつ自転車を覚えたんだ?」
サンフランシスコの江森さんの教会では、教わることなく自転車で遊んでいました。
「子どもはね、ある時期に自転車を覚えるんだよ。お父さんの手を借りることもある。キャッチボールもそうだね」
まったく記憶がありません。
「その人を見つけたらどうすればいいの?」
「なにもしなくていい。ぼくに教えてくれればいい。指を差すんじゃないよ。目や顎で、さりげなく知らせてくれ」
パレードがはじまるというので、人がどんどん増えていくストリートやアベニュー。大勢の人がいれば、父を見つけられる可能性も高まります。白人ばかりの中に、ぼくに似た東洋人がいれば目立つでしょう。
クリスとぼくは、降り注ぐ十一月の太陽を浴びながら、あてもなく歩きました。
芝生でねそべっている男女たち。
あんな風にしてみたい、とクリスに言おうかと思って彼の方を向くと、その向こうの地味なビルディングの前に停まった車から、その人は降り立ったのです。
「あっ」
思わず声が出ていました。
指差してはいけない。クリスの手をぎゅっと握り、目で知らせます。
「うん」
タクシーから降りた男。東洋人。ぼくの父。スーツを着てビジネス用にしては大きすぎるバッグを手にしています。
見てしまうと、父としか思えないのです。Fedora Hat (ソフト帽)からはみ出た髪は茶色っぽく染めていて、肌も浅黒いので中南米あたりの人に見えなくもないのですが、見間違えることはありません。
クリスとぼくはゆっくりとそちらへ移動していきます。あくまでゆっくりと。
「あのビルは、パレードを見下ろせるね」とクリス。
「ヒューストン」と書かれた道路標識があって、その交差点の向こうに見えている建物は周辺の灰色のビルに比べると目立ちます。明るい茶色のレンガ造りの七階建て。屋上に黄色地に赤い文字で「HRETZ」とレンタカー会社の巨大看板。その隣りには「CHEVROLETS」と自動車会社の看板。電球をぎっしり埋め込んで点滅することで数字を表示します。大きな時計なのです。「12:12」と表示されていました。昼間なので太陽が当たって少し読み取りづらいですが。
その建物から人が出てきます。ひょろっとした首に細面の顔がのっていて、なにかにビクビクしながら歩いています。バラクーダのような(それこそ、ジェームス・ディーンが着ていたような)ジャンパー姿。
父はその男に声をかけます。聞えません。
男はニッコリと笑い、これまでの臆病さは消えて自信に満ちた笑顔になります。
「スパシーバ(спасибо)」とその口元が動いたと思います。あくまでぼくの解釈です。男は父からバッグを受け取ると、建物の中へ入って行きました。
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