朝に道を聞かば
杜松の実
朝に道を聞かば
「私、堀田さんに嫌われているものだと思っていました」
暗い中で
「馬鹿だな。そんな訳ないだろ」
「でも、他の子は誘っても、私には一回も声を掛けて呉れないじゃないですか」
嫌われる筈も無いのを知った上で、困らせようと試している様に男には思えた。男はこの女と対峙するのを避けていた。
「こうして誘ったでしょう」
「そうですよ。どうして今日は誘って
「はは、
「そうですよ。さあ、どうして今日は誘って呉れたのですか?」
男はあれから一度も女の顔を見ていない。合わせる積もりで居ても、
女は返答を待たず、振り向いて舞台を見た。男はここで女の襟足に対象を変える。女の読み通りである。黒地に銀の唐草刺繍の入れられた小紋友禅から真白い
女が居直り、男が舞台に目を戻す。女の手の白さは芸術を目的と
「飲んじゃ駄目ですよ」
「どうして?」
女は困った様に笑ってから言った。
「酔わないで下さい」
女の顔に二つの人情が浮かぶ。一つは嘘をついている。それも優しい嘘である。無論優しさは男に向けられている。もう一つが怒りである。こちらも男に対してだ。女は怒りが正当を欠いているのを知っている。表出させれば先の嘘に反する。女は怒りを慈しむ笑みの眉を開いた。男はその笑みを親好者へ向けられた他愛も無いものと受け取った。
「じゃあ煙草はいい?」
「そうですね。それは堀田さんが持って来た物ですか?」
「ああ」
「なら良いと思います」
可笑しな事を言うなと又男は思ったが、今度は笑わなかった。笑って誤魔化す要は無かった。男は
「それで? どうして誘って呉れたのですか?」
三度目だ。
『枯葉』に歌が入り、男は反射で以て舞台を見た。本来この曲に歌など入っていない。歌い手は忌野清志郎であった。ジャズと邦ロック。全体この二つは取り合わせが悪い。彼は日本語で歌っている。黒人のソウルミュージックと、大和魂を貫いた声。この調和は偶然に起こったものか、或いは精緻な計算
しかし、清志郎とデイビスが
「どうして誘って呉れたのですか?」
男の中に、一も二も無く、ぽつねんと答えが見付かった。言葉に直す事を躊躇った。声に出す事を恐れた。女と目を合わせる。そこに逡巡も
「僕は、ずっと春子のことが好きだったよ」
男はそんな夢を見た。最後の女の表情だけが
隣には何の愁いも無く寝息を立てる妻が居た。男はその額に手を乗せる。あの女が癌に死んだのは十年
朝に道を聞かば 杜松の実 @s-m-sakana
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