朝に道を聞かば

杜松の実

朝に道を聞かば


あしたに道を聞かば――



「私、堀田さんに嫌われているものだと思っていました」

 暗い中でとう色のあかり陰翳いんえいと分けられ、たおやかに濡れたまなこを向けた女が言った。ゆうさりの序奏ほどに、遠く澄んだ黄金こがねに染めた髪が静かに襟まで触れ、微動だにしない。男は僅かの一瞬ひとまたたき女の目を認める事に堪え兼ね、ふしの無い真白き指につままれた水割りを注視した。

「馬鹿だな。そんな訳ないだろ」

「でも、他の子は誘っても、私には一回も声を掛けて呉れないじゃないですか」

 嫌われる筈も無いのを知った上で、困らせようと試している様に男には思えた。男はこの女と対峙するのを避けていた。ひとえに女は美しかった。何時いつでもあなどられている気がしてならなかった。男はそれを自覚しなかった。男は己こそ、この女に気に入られていないと定め、誘えばさきまれのかさに断られる事は無いと見越すも、それは女に悪いと誘わなかった。無自覚の根には、女からうとまれたくなかったのだ。

「こうして誘ったでしょう」

「そうですよ。どうして今日は誘ってれたのです?」

「はは、可笑おかしな事を言う。ただ、一緒に来たかっただけだよ。それとも、貴女あなたと会うには、何か特別な理由でも用意しなくちゃいけないのかな?」

「そうですよ。さあ、どうして今日は誘って呉れたのですか?」

 男はあれから一度も女の顔を見ていない。合わせる積もりで居ても、あご先迄しか見てれなかった。

 舞台ステージからピアノの旋律が始まる。そこで男は此処ここがジャズ酒場であることを思い出した。――気が付いた。しめやかにマイルス・デイビスのトランペットが加わる。男は音楽の好事家こうずかを自称して来た為、話を切って舞台を観るは都合が良かった。名盤『枯葉』である。

 女は返答を待たず、振り向いて舞台を見た。男はここで女の襟足に対象を変える。女の読み通りである。黒地に銀の唐草刺繍の入れられた小紋友禅から真白いうなじがすっくと際立つ。帯には流れが現れており、黄褐色と変じた秋の薄原すすきわらことごとなびいている様だ。先が明るい舞台なだけあって、此処等は一層陰と成る。陰の中で黒の着物はその輪郭を失い溶け出す。唐草模様迄もあふれて闇を絡み這う。とう色のあかりめた首筋が納まる。黄金こがねの髪は強き舞台照明と向き合っても、その態度を変えなかった。

 女が居直り、男が舞台に目を戻す。女の手の白さは芸術を目的とこしらえられた白磁程であり、和紙の如く光を浸み入らせおのずから輝く。その手がグラスに触れるのを楽しむかの様に、一向持ち上げあおぐ素振りが無い。男は舞台を見ている様で女のまことに滑らかそうな、細い長い指ばかりを気にしていた。指は今、グラスの縁をもてあそんでいる。すると急に喉を潤したくなった。思ったからか、頼んだ覚えの無いグラスが卓に在る。

「飲んじゃ駄目ですよ」

「どうして?」

 女は困った様に笑ってから言った。

「酔わないで下さい」

 女の顔に二つの人情が浮かぶ。一つは嘘をついている。それも優しい嘘である。無論優しさは男に向けられている。もう一つが怒りである。こちらも男に対してだ。女は怒りが正当を欠いているのを知っている。表出させれば先の嘘に反する。女は怒りを慈しむ笑みの眉を開いた。男はその笑みを親好者へ向けられた他愛も無いものと受け取った。

「じゃあ煙草はいい?」

「そうですね。それは堀田さんが持って来た物ですか?」

「ああ」

「なら良いと思います」

 可笑しな事を言うなと又男は思ったが、今度は笑わなかった。笑って誤魔化す要は無かった。男は然迄さまで吸いたいとも思わなかったが、出したからには吸わねば仕舞えないと、仕方なしに火を点けた。

「それで? どうして誘って呉れたのですか?」

 三度目だ。いよいよ答えねば義理を欠く。男は答えにきゅうした。間を繋ぐ為に煙草にすがる。女は飽く迄待つ積もりだ。一意専心に男を見る。とうへ導く積もりも、責付せつく思いも無い。ただ待っている。その間男は二つ吸い、灰を落とした。

『枯葉』に歌が入り、男は反射で以て舞台を見た。本来この曲に歌など入っていない。歌い手は忌野清志郎であった。ジャズと邦ロック。全体この二つは取り合わせが悪い。彼は日本語で歌っている。黒人のソウルミュージックと、大和魂を貫いた声。この調和は偶然に起こったものか、或いは精緻な計算くか。米国アメリカはヨセミテの公園にそばだつネイティブ・アメリカンの思いが湛えられた、乾坤けんこん叙する牢乎ろうこたる一枚岩エル・キャピタン、その中腹の岩壁から一本の老桜が根を食い込ませ、満開に踊る。

 しかし、清志郎とデイビスが共奏きょうそうした事など無かった筈だ、と男は思い至った。此処に二人が居る事など有り得なかった。彼等はうに――。男は己と座面の接地が汗でじわりと湿るを、肌に感じた。女は一層優しく男を哀れんで問うた。

「どうして誘って呉れたのですか?」

 男の中に、一も二も無く、ぽつねんと答えが見付かった。言葉に直す事を躊躇った。声に出す事を恐れた。女と目を合わせる。そこに逡巡も恐惶きょうこうも羞恥も無い。何故なぜ見たのかは男にも分からない。結果として、女の揺らぐ事の無い双眸そうぼうが男の背を押した。

「僕は、ずっと春子のことが好きだったよ」

 男はそんな夢を見た。最後の女の表情だけが茫然ぼうぜんと思い出せない。最後に「満足しましたか?」と聴いたのが、あの女の声かも明瞭めいりょうとしない。

 隣には何の愁いも無く寝息を立てる妻が居た。男はその額に手を乗せる。あの女が癌に死んだのは十年ぜんだ。








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