• 現代ドラマ
  • 現代ファンタジー

第五回ジュニパーベリー文学祭専用対話掲示板

対話掲示板は、どなた様でも感想もお待ちしております。
また、どなた様でも書かれた感想に返信していただいても構わないとします。
さらに、どなた様でも感想の返信に返信いただくことができます。

様々な方の様々な作品への様々な感想や意見が、一所に集まる。
そこでどのような対話が見られるのか興味深く期待しております。
共感頂ける方は是非足を運んで下さい。

掲示板にコメントされる方は、コメント頭に通し番号を付けて下さい。
返信を為される際には、どちらのコメントへの返信であるのか、分かるように明記して下さい。
ご協力をお願いいたします。

企画URL
https://kakuyomu.jp/user_events/16818093086910331501

3件のコメント

  • 1
    コメント例
  • 2
    >>1
    返信例です。これはコメント1への返信を意味しています。

    以下、通し番号は3からとします。
  • 3
    『誰が私を⚫︎したの?』への感想

    自己否定をテーマとした詩でしょうか。

    すうっと文章や込められた思いが入ってくるようでした。
    それは易しい文だからなのでしょう。引き算された簡素な文だからでしょう。調べの良さからでしょう。助詞への細やかな気配りからでしょう。漢字仮名の使い分けからでしょう。

    こちらの作品を評価しようとすれば、難しいです。良い作品だとは思います。ささやかな感動はありましたし、心地よさもありました。
    でも、「自己否定」をテーマとした詩は、新しさと言いましょうかオリジナリティと言うべきか、どこかで見たことのある既視感とすればよいのか、そんなものがある気がするのです。

    なぜ、こちらの作品を「未来のわたしが読む作品」としたのでしょうか。

    それは、「未来のわたし」にどのような展望を持って創られたのかにも依るでしょう。自己否定から回復あるいは克服した私が読み返す。反対に、そうではない私が読み返す。それは分かりません。

    でも、一つだけこうではないかな、と言及できるとしたら。こちらの作品は、「あくまでも今のわたしの現在地の記録」ではありませんか?
    だから、作品の中に、自己否定からの回復・克服を明示しなかったように思うのです。

    「現在地の記録」を、多くを語れる小説などではなく、あえて詩歌を選んで創作されたところはなぜだったのでしょうか。

    抽象的に描くことで却って先鋭化させたのではないかなと考えています。あるいは普遍化かもしれません。
コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する