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葛湯の美味しい季節

散歩をしていますと、ちらほらと枯木が見えるようになりました。
お昼間は陽気にぽかぽかしていますけど、日が暮れ始めるとうっと冷たい風が吹く時節です。
上衣の前をきゅっと閉めて家路を急いでおりますと、民家の塀から葉を落とし切った黒い枝が伸び出ていまして、ずいぶん目につくものでした。

「枯木も山の賑わい」

なんて慣用句をきっと思い出す私です。
ないよりはまし、なんて凄い言い草。
でも、私この言葉をお気に入りにしています。
言葉の意味よりも、言葉から得られるイメージに惹かれているのです。
だからでしょうね。

「枯木が山の賑わい」
「山の賑わい、それ枯木」
「枯木賑わう山」
「賑わいの山 ~~枯木~~」

なんて、言葉遊びを浮かべて、これなら素敵な小説の題にならないかしら、と思ったりもするのです。最後のは、ちょっと温泉宿みたくもありますけれど。

時候の挨拶はこれまでにさして頂いて、そろそろ本題に入らせて頂きます。
夏目漱石の「草枕」の一節に、詩を作ることを葛湯で例えたものがあるのをご存知でしょうか。
「夏目漱石 葛湯」と検索すれば直ぐにお調べになることができますから、そちらをご覧になってください。
私は詩は書けませんが、小説を書いているとこの気持ちがどこかしら分かる気がするのです。
到底、この域までは書けないのですけど、目指していきたいと常々思っております。

これまでの私の執筆作に当てはめれば、葛湯はまだ粘りが出始めた所であって、固まり切っていなければ、況やおやです。
但し、全く粘りもない小説は書いていないとは自負しております。

こんなお話をしている目的の第一義は漱石の葛湯の例えをお伝えしたいことでした。
二の次として、お伝えさせて頂きたいのが、私の近況です。
やはり今も小説を書いておりますが、それはどうも私の過渡期の作に当たるのではないか、という予感めいたものがある、というと大袈裟なのですが、そういう使命を負わせた小説を書いております。
上手く書けるかどうかの保証はなく、今手詰まりに当たっている所から見ると、どうも上手く行かない雰囲気が強いです。
渡り損ねて河を流されるか、あるいは河そのものが幻影であったというオチになる可能性が甚だ大きいか。

自虐ではなく、ハードルを下げて保険を打って置きたいのでもなく――そんなことであれば公表する必要もない訳で――、自分を客観視すると頓挫する未来に疑いがない、という判断に冷静に至るだけです。
同時にずいぶんな期待もしているのです。それほど無理だろうと思えることをもしも出来たならば。

誤解のないようにその作の題だけはここで明かしておこうと思います。
というのも、今後その作よりも先に別なる作を書き上げ公開するかも分かりません。
そのときに、これがそれか、と思われないように予防しておこうというものです。
題は「思考のエントロピー」です。

いやいや。
本当に。
話したかったことは第一の漱石の葛湯だけだったのですけれど、予定外に二の話までしてしまいました。
これが欲というやつでしょう。
どんな種類の欲かは分かりませんが、欲がなければ脱線はしませんよ。

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