• 現代ドラマ
  • 現代ファンタジー

リンス in シャンプー

シャワーで体を流して髪を濡らす。シャンプーボトルに手を伸ばして思い出す。そうだ、リンスが切れていた。これはもう二三日前から切れている。一人暮らしであれば、手間を感じながらも、濡れた体で表に出て、洗面台の上の吊り戸棚からストックを取り出し詰め替えるのだろう。しかし、これが一人身でないとなると、妙な嫌な気が面倒な心持ちに上から被さってくる。どうしてあれが替えないのにこっちがやってやらなければならないのだと、若干虫が好かないのだ。それでここ二三日はポンプのついたキャップを回して中に指を突っ込み、指の腹でリンスを絡め取って額の辺りに塗りたくるのだ。あいつもそうしているらしい。そもそもこれを思い付いたのはあいつの方で、ボトルを逆さにしてキャップの縁にリンスの僅かな残りが溜まるように工夫がされてあった。

冬場であるから割りに汚れてもいないだろう。外国の者が言うには毎日髪を洗えば却って傷めることになるから、二日三日は平気でそのままに済ましていると聞いたこともある。よし、と洗わずにいてやろうかとも思うが、習慣というのは中々固いものらしく、よしと思った矢先から気分が優れない。濡れた髪に触れるとやはり脂で汚れているのか、手触りにぬめりを感じている気がする。致しかなく扉を開けると、さっと冷気が浴室に入り込んでくる。温まっていない体には、濡れている分だけ、ぞっと冷たい空気の流れであり、足先手先からみるみる熱が奪われてゆく。吊り戸棚を開け、プラの容器を引っ掴んで風呂場にそそくさと帰る。そうして詰め替えながら思うのだ。

リンス in シャンプーならよかったのに

リンスとシャンプーが二つに分かれているのだから、一つに合わさっているものより二倍詰め替えの手間がある。当然のことであるが、こんなことに気が付くのはこうして寒々と詰め替えている時ばかりなのだろう。でなければ、わざわざ分かれたものを買うものか。買い求めに薬局の棚を見ているときは、シャンプーとリンス、それぞれが独立している物の方が、より機能的で上質なものに見えている。それぞれにはそれぞれの目的があり、その目的に対する機能が、リンス in シャンプーには叶えられないような所があるのだろう。そう感じるから分かれたものを買う訳で、分かれたものを買うからこうして詰め替えの機会が倍になって億劫な気になる訳だ。

ふっとここであることを発見する。リンスを詰め替えている時というのは、粘り強い粘液がボトルの縁をはみ出してこぼれてしまわないようにと注意している一方で、手先と視線を拘束されている他は自由なものだ。だからこそ退屈だ。すると、平生では考えないようなことを考え出す。あれは本当にリンス in シャンプーだったかな。あるいはシャンプー in リンスだっただろうか、と。シャンプー in リンスは聞き馴染みがない。リンス in シャンプーとした方が釈然とする。だから、答えはリンス in シャンプーだと判断がつく。では、シャンプー in リンスでなくリンス in シャンプーなのはなぜだろうか。

シャンプーとリンスが一体となった商品を、私は「リンスを含んだシャンプー」と認識している。リンスの機能を持ったシャンプーとしても同じことだ。しかし、リンス in シャンプーだと、少し具合が異なっているように感じる。私の習った英語では、「in」の意味するところは「A in B」としたとき、「Bの中のA」であった。つまり、リンス in シャンプーだと、「シャンプーの中のリンス」だ。これは「リンスを含んだシャンプー」とは意味が異なるはずだ。差は焦点だ。主従と言ってもいいのかもしれない。

「リンスを含んだシャンプー」の焦点はシャンプー(主はシャンプー)である。一方で、「シャンプーの中のリンス」はリンスに焦点がある。このように、私は感じている。リンスとシャンプーが近い対象であることで、この差が理解され辛いのかもしれない。そこでこんな例を用意してみた。「I in Tokyo」。直訳すれば「東京の中の私」、少し意訳すると「東京に住む私」。では、今度はこれを馴染みのある「リンス in シャンプー」の形で訳してみると、「私を含む東京」となる。これを手触りよく意訳すると、「私の住む東京」となる。焦点の違い、主従の逆転は明らかだろう。「私の住む東京」をさらにその焦点を強調すれば、「私の住む街、東京」となる。

こうしてみると「リンス in シャンプー」は誤った表記であるように思われる。すると、次の問いはなぜこの表記を使っているのか、ということになる。仮説は三つだ。

1. 和製英語だから。和製英語に誤りは往々にして付き物である。日本の文化に親しんでいる者は、英語としては誤りであっても和製英語が表す意味を了解できる。

2. 誤りではない。英語には焦点を分けて考える概念がない、あるいはあまりない。英語は客観的事実を表す。焦点というのは主観によるものだ。つまり、「リンス in シャンプー」としたとき、「シャンプーの中にリンスが入っている」という客観的事実は、「リンスを含んだシャンプー」や「シャンプーの中のリンス」と焦点を設定して物語ったとしても変わらない。英語が客観的事実のみを表すのだとすれば、「リンス in シャンプー」は何も誤りではない。

3. 誤りではない Part 2。私は「リンス in シャンプー」という商品の焦点を、つまり主をシャンプーだと認識しているために、「リンス in シャンプー」は誤った表記ではないか、と考えている。しかし、事実は全くの逆で、「リンス in シャンプー」という商品の焦点、主はリンスにある。従って、商品の持つ目的と表記は一体的で連帯的であり、何も誤りではない。

さあ、この三つの仮説、どれが最もらしいだろうか。私は1こそ正しいのではないか、と考えている。理由は単純。この短い生の中でも、幾度となく純正英語のふりをした和製英語に欺かれきたからだ。

3はどうだろうか。そもそものシャンプーとリンスの目的に立ち返って考えれば、仮説3の正当性が見えて来る。シャンプーは言わずもがな、頭皮や髪の汚れを洗い落とす洗剤だ。しかし、この洗剤は髪にダメージも与える。そこで登場するのがリンスであり、リンスの目的はシャンプーの持つ毒性を相反する毒性で以て中和するところにある。このとき、シャンプーとリンスの主従は、明らかにシャンプーが主だ。但し、リンスの目的は転じて、髪を美しく保つところへと変化した。仮に、仮説3が正しいとしよう。これが意味するところは、髪を洗うことよりも髪を美しく保つことの方が、より大きな意味と意義を持ち、主となっている、ということになる。おや、こう考えると、シャンプーとリンスの主従は曖昧になってくる。CMで、髪の汚れを落とそう、と聞いたことはないが、髪の美しさを謳う言葉は広告に溢れている。それはもはや、リンスだけに掛けられる宣伝文句ではなく、シャンプーにまで髪の美しさに効果を与えると飾られている。しかし、だからと言ってシャンプーから洗浄の目的が喪失した訳ではなく、洗浄については言わずもがなの域にあることを示していると考える。そうなると、……。あまりに長々と書き過ぎたな。退屈だろうから話を変えよう。

仮説2は興味深い。私はろくに英語を勉強していないから、全く詳しくない。もし本当に英語が客観的事実に重点を置き、主観による焦点の操作に関心を持たない言語であるのなら。英語は詩には不向きに思える。少なくとも日本の詩を英訳するのはとても難しいように思える。一方で、科学にはすこぶる向いている言語ということになる。但し、これはもしもという仮定の上での妄想であるから、これ以上詳説するのは止そう。

さてさて。そんなこんなを考えていると、ようやくリンスの詰め替えが終わる。足の指先がしっかり冷えて、じわじわと痛みを抱えているころだ。しみじみと思うのだ。

ああ、リンスを含んだシャンプーがあればなあ。




せっかく久しぶりに近況ノートを書くのだから、ここらの近況を書き記しておこう。

近頃、ぱったりと小説を書いていない。理由はとくになく、書く気が起きなかったからだ。いくつかの自主企画に対して書き下ろしてみようともしたが、中途で投げ捨てている。おもしろくなかった。

理由はなく小説を書いていなかったとしたが、反面なにもしていない訳でもない。ここのところはずっと論文を書いていた。それが愈々書き上がった。

時期を同じくして美術館に行った。あまりおもしろくなかった。そこに掛かっていた作品はどう見てもアートだとは思う。しかし、こんなことも思ってしまった。美術館にあって初めて人に見向きされる物はアートではないだろ、と。私がそう感じたのに訳はない。シンプルにそれらの作品を見て感動しなかったからだった。但し、それでもお金を払って見に行ったのだから、壁に掛かった説明文も丁寧に拾って読んだ。

すると、作品への感じ方が変わった。相変わらず見て感動はしない。しかし、これらの作品のアートの面は、結果としての作品ではなく、その制作過程がアートなのだと思った。各地を放浪し、様々な素材に触れ……という制作過程に興味を惹かれた。それがどのような過程で、なぜ興味を惹かれたのかを書き残そうと思うと骨が折れる。から、申し訳ないがやめておこう。その美術展は大竹伸朗のものだった。詳しく知りたい方は彼について調べて見てほしい。感動はできなかったが、心には残った。もっと知りたくなった。彼を知って再びその美術展に足を運びたいという気にさせられた。

その美術展で壁に掛けられた説明文の中に、次のようなものがあった。「~は30分という制限時間をあらかじめ設けて制作された。そこには不確定な偶然が現れている」のようなものだった。このとき、一つの気付きがあった。私は小説について考えるとき、長いときを賭けた小説の方が、短時間で書かれたものよりずっと良いものだと強く信じていた。これに誤りはないと思っている。しかし、その一方で、勢いで書かれたものにも、勢いにしか表せない偶然が表現されることもあるのか、と思わされたのだ。いつか、こんな風に勢いを以て偶然性を信じて一つ書いてみたい、そんな風に思っている。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する