後編

◾︎


水溜まりの中に映る佳乃は俺に全てを語った。

怖いくらいに落ち着いた声色で、淡々と話を続ける。

「ああ、それと。私がこうして貴方と話をしているのは、アクタの人格を造り上げるのに必要な事だから。アクタという人格を確立させる為には、吉舎佳乃という人間との接触による、記憶の改変が不可欠だった。水溜まりは昔から、異世界と現実を繋げる物だと信じられているの。私が水溜まりに映し出されているのは、きっとそのせいね。」

恐らく佳乃は今、俺という人間に屈辱を味あわせたという話をしているのだろう。

頭ではそれを理解しているのにも関わらず、驚く程に怒りが湧いてこない。

寧ろ、血の気が引いたみたいに自分が冷たく感じる。

そして何より、こんな時でさえも彼女が愛おしい。

一人で悩んで塞ぎ込んで、その挙句に世楽春樹という人間を身勝手に利用すると言う、人間としては最悪な行動を平気で行った者だというのに。

それでも彼女を許したいと思ってしまった。

今の俺は、俺であって俺では無い。

魔女の毒牙に架かり、哀れにもその呪いに絆されている。

けれど、俺はその呪いに犯されるのが嫌では無い。

怒りや憎しみ、嫉妬。自分自身でも嫌だと感じる負の感情を感じないで済んでいる。

自分自身を嫌わずに済むのなら、これ以上に喜ばしい事は無いだろう。

それが例え、俺自身の感情ではないとしても。


もし、俺の中に溢れている佳乃を愛おしく思うこの心が話に出てきた、アクタという人間のものなら、彼は今この状況に何を思うのだろう。

彼女を悲しませたく無いという、傲慢な願いがアクタという少年のものなら、彼はこの先にどんな行動を起こすのだろう。

それはきっと、頭で考えるよりも先に答えは導かれているはずだ。

だって、今の俺が感じるこの心こそが、アクタそのものなのだから。


——アクタは、俺はこれ以上の実験を望まない。


彼女はこの実験を繰り返す度に何かを失ってきた。

心が擦り切れそうになるまでこの世界を造り返し、それでも尚諦めることをしなかった。

彼女の苦悩を分かち合う事は不可能だろう。

佳乃が俺を言葉を交わす度、どれほど辛い思いをしていたのか、考える事すらおこがましいと思う。

彼女は悩んだ。苦しんだ。沢山の絶望の中でたった一つの光を探し求めてきた。

けれど、それをアクタは決して望まない。

耳を澄ませば、聞こえてくるのは彼の感情。


『——頼む。吉舎佳乃を救ってくれ。』


何度も何度も絞り出すような声で、必死に訴えかけてくる。

なら、答えてあげなくては。俺の中に芽生えたアクタという人格の願いを叶えよう。


俺はベンチから腰をあげて、ゆっくりと水溜まりに触れる。

水面が静かに揺れて、波紋を呼んだ。

「……佳乃。」

彼女の名前を呼ぶ声に、伝えきれない感情が重なる。

この行動に、きっと意味なんて無いのかもしれない。

もしかしたら彼女はもっと苦しむのかもしれない。

それでも俺は選択をする。俺自身の為に。佳乃の為に。


「——俺の、世楽春樹の脳を破壊しろ。」


俺の言葉に、佳乃は目を見開いた。

あまりにも唐突で予測不能の発言だったとは、自分でも理解している。

それでも佳乃を解放するには、これしかない。

「なん、で……。」

盛れ出した声は、佳乃にしてはかなり腑抜けていて少しだけ頬が緩む。

「待っているんだよ。佳乃の大切な人が。……だからもう、俺は必要ない。」

佳乃の顔は混乱と困惑が入り交じったような表情で俺を見ている。どうやら俺の言葉を理解出来ていない様子だった。

確かに、彼女に俺の話を分かって貰えるとは思っていない。

それでも、俺にだけは分かるんだ。


——佳乃の求めたアクタは、もうすぐで目を覚ます。


それが俺の中に生まれたアクタという人格が言っているのか。

それとも本物のアクタが教えてくれたのか。

それは分からないけれど、確信を持って言える。

——俺はもう必要無くなった。

「大丈夫。アクタなら、目を覚ますさ。何より幼なじみで大切な人なんだろ? なら、佳乃が一番分かるはずだ。」

まさか、こんな後押しをする事になるなんて。

仮初だったとは言え、俺は一応佳乃に恋をしていたんだ。

それなのに、自分の恋愛に自ら幕引きをするとは思ってもみなかった。

けれど、惚れた人には幸せになって欲しいと願うのは当たり前だ。

だから俺は、世楽春樹を棄ててでも、彼女に幸福を与える。

「で、でもそしたら貴方は……。」

混乱した様子で、眉間にシワを寄せる。

嗚呼、糞。こんな時でも可愛いなんて反則だろ。

俺は、アクタにはなれなかった。それでも言葉を伝えるくらいなら、出来るはずだから。


「佳乃。俺を……アクタを信じろ。」


我ながらカッコよすぎるセリフだ。

ニコッと笑う俺を見つめる佳乃は、未だに困惑を拭いきれていない。

俺ははあ、と軽くため息を漏らした。

「つーか俺、もう死んでるし。死者であるはずの俺を、この世界に連れてきてくれて、こんなに楽しい時間を与えてくれたんだ。寧ろ感謝してもし足りないくらいだよ。」

ははっと声を上げながら笑う俺は、そのまま彼女に再び告げた。


「——佳乃。俺を壊せ。もう俺には何も無い。」


空っぽになってしまった俺に、潤いを与えてくれた。

大切な思いに、気付かされた。

——そして、恋をした。

全部、全部、佳乃が居たから。佳乃が教えてくれたから、世楽春樹という人間は幸福の中でその幕を引くことが出来る。

もし、この人生を一冊の本にするなら、結末は間違えなくハッピーエンドだろう。


佳乃の頬を伝う、一筋の涙がきらりと光った。

まさか実験の対象者である俺の為に泣いてくれるなんて。

そういえば、俺が死んだ時は誰か泣いてくれたのだろうか。

もう確認する事は出来ないけれど、今ここで泣いてくれている人が一人はいる。

しかもその人は凄く大切で大事で、好きだった人。

最後の記憶が佳乃の泣き顔ってとこは腑に落ちないけれど、まあ、少しくらいは心残りがあった方がいいのかもしれない。

そして、その涙を拭い取れなかった後悔は、彼に託そう。


徐々に薄れていく意識の中、俺は佳乃の顔を思い出していた。

彼女は今、笑っているだろうか。

もう声も聞こえないくらいに俺は弱くなってしまったけれど、彼女のゆく道に幸あれ、なんて。

少しだけキザな願いを込めて、最後の力を振り絞った。

「——あい、し……て」

俺の声は届いたかな。届いているといいな。

水溜まりを覗いた事が出会いだなんて、本当に不思議な話だったけれど、今となってはこんなに、こんなにも。


——嗚呼、佳乃に出会えて幸せだった。


こうして、世楽春樹の人生は本当に幕を閉じた。


◾︎


自分が最低な人間だと、ずっと前から知っている。

一人の人間を弄び、自分の願い、その成就の為だけに利用した。

けれど、彼はそんな私を咎める事は無く、寧ろ私の幸せを願ってくれた。

自分がどれだけ傲慢で浅はかな人間なのか、それを突きつけられたような気分。

世楽春樹という人間が、どうして私を恨んでいないのかが理解不明だ。

私が彼の言った通りに世界を壊した時、何故か世楽春樹は笑っていた。

幸福に満ち満ちた顔で、私を見ていた。

その時の顔が頭から離れなくて、私を苦しめていく。

「……本当にごめんなさい……。」

今の私には、もう届かない声で謝罪をするしか出来ない。

何度も何度も謝り続ける事しか。

世楽春樹はあまりに優しすぎた。一言で言えば良い人なのだろう。

けれど、彼を魅力を知ってしまった私には、世楽春樹という人間の本質を言葉では言い表せない。

私はこの先の未来永劫、彼を利用したその罪を、足枷に変えて生きていかなくてはならない。


『ピピピ……』


真っ白な部屋に、無機質な電子音が鳴り響いた。

それがすぐに電話だと気付き、すぐに受話器を取る。

「はい、吉舎です。」

電話越しに聞こえたのは、初めて聞く女性の声。

そして、その女性が語った内容に、私の目元からは自然の涙が零れ落ちた。


それは私がずっと待ちわびていた瞬間。

電話に声が入らないようにと息を殺すように声を漏らす。

嬉しい。こんなに気持ちが満たされるのはいつぶりだろう。

そう思うのと同時に、私の中には一人の人物が思い浮かんだ。

私の幸せを心から願ってくれた人。

もう、その人に感謝を伝える事は出来ないけれど、それでも心の中で何度も感謝の言葉を唱え続けた。

貴方が願ってくれたから、私の望みは成就したのかもしれない。


私は貴方の人生も、感情も、全てを捻じ曲げた。

恨まれても、憎まれても仕方ないはずの私を許して、笑ってくれた。

私は貴方の事を絶対に忘れないだろう。

その名前と共に貴方が生きていたという記憶を胸に刻み付けて、私は貴方への贖罪と共に。

吉舎佳乃は、罪の十字架を背負って生きていこう。


貴方が望んだ、私の幸福の中で。

私は、貴方への償いを忘れずに。

そうして、吉舎佳乃の一生を終える為に。

この真っ白な空間を、貴方がくれた全ての色で染め上げていこう。


最初の色は……そうだな。貴方との出会いを忘れない為にも。


——雨模様なんて、どうだろう。

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覗く世界は雨模様 桜部遥 @ksnami

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