中編(荷)

◾︎


それは、いつも通りの帰り道だった。

その日は雨が降っていて、路面は雫を弾いていく。

空が奏でる音楽を聴きながら、私の隣には一人の人物が歩いていた。

歩幅を私に合わせてくれて、見上げればいつもあの人の肩がある。

二人で差すには、少し狭い傘の中で肩を密着させ合いながら横断歩道の手前まで歩いていた。

今日の雲は、いつもよりも分厚く真っ黒な雨雲で、少し心がザワザワしていた。

別に予感があった訳じゃない。理由もあった訳じゃない。

ただ、私よりも早く一歩を踏み出したその人の背中がやけに遠く感じてその手を伸ばした。


「待って、——!」


トラックのライトが、雨をキラリと輝かせる。

ブーッというトラックの大きなクラクションと、雨が落ちていく音は今でも耳に残っている。

私の目の前で、雨に紛れるように赤い雨が輝いて、そのまま地面に落ちていく。

雨の下、傘もささずに寝そべっていると風邪を引くよ。

ねえ。ねえ、ねえ。

揺すっても動かない。

ただ、深紅の液体が雨と混ざりあって、異臭を放つ。

鼻を覆いたくなる匂いが充満する中で、私は再びその人の名前を呼んだ。


「——アクタ。」


そうだ、これは悪い夢だ。

最悪な夢。

でも大丈夫。だって私は必ず成功させてみせるから。

次こそは上手くやるから。だから、待ってて、アクタ。


——私が君の世界を造ってみせる。



◾︎


俺は、全てを思い出した。

それは、身体が動かなくなって、耳鳴りもして、視界もぼやけている最悪な状況の中だった。


不審に思っていた事はある。不快に思った事は……あるの、かもしれない。

でも、今の俺にはっきりと言えることがあるとすれば、俺は『死んでいるかもしれない』という事だ。

ああ、現実味が無さすぎる。こんな話をすんなりと受け入れている自分が恐ろしい。

なら、それを証明するための言葉を言わなければ。


「——俺の名前は世楽春樹せらはるきだ。」


自分の名前を口にした瞬間、俺は今までの記憶を取り戻す。

それは、世楽春樹が生まれてから……死ぬまでの記憶。

俺は、俺が世楽春樹だと思い出した事により、複数の疑問が生まれた。


その一。此処は何処なのか。

俺の記憶の中で、この光景は見た事も無い。

自動販売機に記載されていた住所を見てみたけれど、どうやら隣市らしい。

どうして隣市に俺がいる?


その二。俺は俺が世楽春樹だと思い出す以前の記憶が無い。

此処の俺は何者だ?


その三。これが最も重要な話になる。

——何故死んだはずの俺がこの場所に居るのか。


その全てを解決へと導く答えを、俺はずっと前から知っている。

——ここは、天国なのか?

それにしては随分と、現実味のある世界だ。

わざわざご丁寧に住所まで用意されているみたいだし。

天国というには、あまりにピンと来ない。

なら、此処は……。

自分の事なのに、どうしてか他人事のような感じがする。

地に足が着いていないというか、なんというか。

ふわふわした感覚の中、どうにも五月蝿い耳鳴りのせいで現実に引き戻される。


けれど、俺は自分の名前を口に出した事によって、身体は随分と楽になった。

耳鳴りはするけれど、指の感覚はあるし、身体も動かせる。

俺は今までずっと気にしないようにしてきた一つの疑問を、水溜まりの中で俯いている彼女に尋ねた。


「——吉舎佳乃。君は誰だ?」


その刹那、水面に映る彼女の姿は静かに揺れた。

俺は確かに彼女を大切に思っている。

いつでも本音をぶつけられるし、信頼している。

……けれど、この感情だけは俺のものでは無い。

大切だ。大事だ。けれど。でも!

この感情だけは俺が彼女に出会う前から存在していた。

今までは、それを俺の感情だと信じてきたけれど、もう誤魔化す事は出来ない。


——吉舎佳乃に恋をしているのは俺では無い。


なら、これは誰の感情で思いで、気持ちで、心なのか。

佳乃はその全てを知っている。だから、俺は今ここで問わなければならない。

大切な彼女だからこそ、俺は……。

「——佳乃。君は何をした?」

その問いは、彼女が生み出す闇の中に溶けて行った。

真っ黒な影の中で、佳乃はポツンと立ち尽くす。

問いの答えを待つ俺の額からは冷や汗が滲んだ。

ゴクリと固唾を呑んだ瞬間、佳乃はゆっくりと口を開く。


「——私は、私は貴方を作り替えようとしたの。世楽春樹では無く、……美山アクタに。」


これはまた、随分と突飛な話だ。

いや早、自分が死んでいるのかもしれないとは思っていたけれど、まさかその予想を遥かに超えてくるとは。

なんて、佳乃に関心しながら、俺は再度彼女に尋ねた。

「と、いうか……。もう少しだけ詳しい話をしてもらってもいいかな?」

理解は出来ていないし、納得もしていない。

それなのに、心のどこかで受け入れている自分もいる。

ただ水溜まりの中で俺の顔をじっと見つめている彼女の瞳が曇っている事は察した。

佳乃はしばらく口を瞑った後、静かに語り始める。

とはいえ、そのほとんどは俺に関係の無い事柄だったけれど。


◾︎


私とアクタは小学校からの付き合いで、いわば腐れ縁というやつだった。

幼なじみと言うには距離が近いと、周りから何度も指摘されたが今となっては特に気にしていない。

私の中で、アクタは特別だった。

友達、家族、恋人。何を差し置いてでも守りたいと思う存在。

それがアクタ。

私よりも背が高くて、明るくて面倒見が良くて、スポーツも出来て。

私よりも数倍出来のいいアクタは、いつも私の隣に居てくれた。

そんなアクタでも勉強嫌いという弱点はあった。

その点、私は地頭が良い。唯一の取り柄だ。

テスト前には、私がアクタの尻を叩いている。

私達はいつも行動を共にしていた。

それが当たり前だったし、日常でもある、

だから、この先、高校を卒業してもずっと一緒に居られると、根拠の無い自信があった。


——アクタが交通事故に遭うまでは。


相手は居眠り運転だった。たまたまアクタに直撃し、運転手に大きな怪我は無かったらしい。

ただ、アクタは瀕死の重症。脳にまでダメージがあるらしく、今後目が覚めたとしても今までどおりの生活は不可能だと言われた。

無機質な電子音が響く空間に、アクタは呼吸器を付けたまま目を覚まさない。

ああ、どうしよう。アクタが死ぬかもしれない。一生目を覚まさないかもしれない。

……一生?

死ぬまでアクタに会えなくなる?

この先ずっとアクタのいない生活を送らなくちゃ行けないの?


——嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。


なら、どうするべきか。

私の中で誰かが静かに尋ねる。

私はアクタを死なせたりはしない。

自分の命よりも大切なアクタを殺したりはしない。何もしないままでいるよりも、私が出来ることをしなくちゃ。


——私が、アクタを救ってみせる為に。


私は人よりも地頭が良い。

不思議な話だけれど、学校の授業は寝ていても覚えられるレベルに。

そんな私が勉強よりも興味を持った事は、人の脳から新たな人格を生み出す、という事。


そして私は知った。

アクタが事故に遭った時、隣町でも同じように交通事故が遭ったらしい。

しかもその被害者は全身に大怪我を負っているのにも関わらず、脳だけは無傷だったとか。

その被害者の名前は『世楽春樹』。

これは好都合だ。私が今まで作ってきた装置を利用すれば、或いは『それ』が可能かもしれない。


——世楽春樹の脳から新しいアクタの人格を生成する。



世楽春樹の脳を持ち出すのには苦労した。

大学病院は警備も厳しいし、侵入するだけでも一苦労だったけれど、私は人の目を掻い潜り何とか世楽春樹の脳を手に入れることに成功した。

彼の脳を手にした時、私は世楽春樹に対して申し訳無いとか、後ろめたいなんて思う気持ちは無かった。

寧ろ不思議なくらいに何も感じない。

私は今、本当に人の。死人の脳を手にしているのだろうか。

そんなことすら感じてしまうほどに。

程なくして、私は気付く。私はとっくの昔に誰かを傷付ける事に慣れてしまっているのだと。


そして私は着々と実験の準備を進めて行く。

世楽春樹の脳が腐らない様に、専用の液体で満たされた箱の中で保管し、実験に必要ないものは全て棄てた。

そうして作り上げた部屋は、実験部屋と言うにはあまりに何も無い空間だった。

ただ、彼の脳だけがぽつんと置いてあるだけのこの空間が、どうしてか私の心を落ち着かせる。


そっと触れた箱に体温は無く、無慈悲なくらいに冷たかった。

それでも良い。今はそれでも。いずれは私が取り戻してみせる。

私のアクタを。だから、それまで何があろうとも私は諦めない。


——待っていて、アクタ。私が君を造り上げてみせる。

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