中編(壱)

◾︎


——また、失敗してしまった。


今までの実験よりはいい結果を残せたけれど、だからと言って成功では無い。

真っ白で何も無いこの空間の中で、私の希望は一つだけ。

私は自分の視線の先にあるその箱にそっと触れた。

「大丈夫。次は上手くやるからね。」

その言葉に、答えてくれる人は誰もいない。

……でも、それでいい。

私は制服のスカートをくるりと宙に浮かせながら、その扉をゆっくりと開けた。

ギーッと軋む音と共に、私は足を踏み入れる。


——そうして私は今日も、自分の望むの為に尽力を尽くすのだ。



◾︎


『今日は全国的に雨が降るでしょう。』


この力に気付いたのは何気ない帰り道。

朝のテレビでそんな事を言っていたと思い出したのは、学校帰りだった。

その日の昼間は雨が降っていて、帰る時は地面が湿っていた。

コンクリートは雨の染みが出来ていたし、土はぬかるんでいた。

帰り道の途中、俺の前方に水溜まりが出来ているのを見つける。

それはただの気まぐれだった。

いつもは気にすること無く通り過ぎるその水溜まりを、何となく覗き込む。

それが全ての始まりだった。


『こんにちは、初めまして!ところでここはどこ?』


水溜まりに映っていたのは、反射した自分の黒髪ではなくブレザー姿の美少女だった。

栗色のふわふわした髪に、裸眼とは思えない茶色の瞳。

俺は水溜まりに映る彼女の姿に、目を丸くする。

「……は?」

幻聴でも、幻覚でも無い。何度目を擦ってもその水溜まりには少女の姿が映っている。


初対面のはずの彼女を見た時、どうしてか胸が締め付けられた。

それに、知らないはずのその人を一目見ただけでその言葉が頭に浮かんだ。


「君は、吉舎佳乃?」


なんの躊躇いも無く、そして確信を持って彼女に聞いてみる。

当の本人は、戸惑いと困惑の瞳を俺に向けていた。

「どう、して……。」

唖然としている彼女を見て、俺も確かに不思議に思う。

俺は彼女を知らない。話した事も無ければ、顔を合わせたことも無い。

それなのにどこか懐かしくて、その名前を呼ぶ口の動きは、慣れていた。

——デジャブというやつか?

いや、それにしてはもっと鮮明に……。

自分の中にある違和感に頭を悩ませていると、彼女は一度俯いてからパッと顔を上げた。

「そう、私は佳乃! よろしくね!」

さっきまでの動揺が嘘だったかのように明るげな顔で笑う。

けれどその爽やかな笑顔に、何故か彼女に不似合いだと感じたのは、俺の気のせいなのかもしれない。

兎にも角にも、俺と佳乃は雨上がりの水溜まりで出会ったのだった。



『関東地方では雨、が降るでしょう』



『○○県で……ハ雨が降るでしょう』



『○○市では雨が降——でショウ』



『○○町デは……ア——』


佳乃と出会ってかれこれ一年が過ぎようとしていた。

雨上がりの水溜まりを除くことが癖になって、それを楽しみにしている自分がいる。

それにしても、最近俺を悩ませている事があった。それは、身体の不調。頭が重い。瞼が開かない。足の感覚が麻痺していて、言う事を聞かない。

目の前に霧がかったみたいに、視界がぼやけてピントが合わない。

俺の身体は、いつからこんなにも不自由になったのだろう。

佳乃の出会えた喜びも、心が満たされていく幸福感も。

佳乃に恋をしたと実感した時の胸の高鳴りも。

全部全部、遠く感じるのはどうしてだろう。

今、目の前の水溜まりの先に彼女がいる。

あんなに色々な話をして、季節を共に感じていたのに、何故だか彼女の声が遠い。

さっきから頭の中に響く耳鳴りが五月蝿くて、思考がまとまらない。

佳乃。佳乃は今どこにいるのだろう。

公園のベンチに腰を下ろしながら、足元に出来た水溜まりを見詰める。

けれど、何度目を擦っても見えるのは暗い闇。どうしてだか、佳乃の姿が見えない。

おかしいなあ、今、佳乃と話をしている筈なのに。

「……どうしたの?調子悪いの……?」

薄ぼんやりと聞こえてくる佳乃の心配そうな声。

早く答えてあげなくちゃ。安心させてあげなくちゃ。

そんな使命感のようなものがどこからとも無く押し寄せてくる。

「大丈夫……。少しすれば治るから……。」

頭を抱えながら震える声で答えると、佳乃はその瞳に影をつくる。

前髪が彼女の表情を隠して、闇を孕んだ。

「——もう、限界かな。」

何度も聞いたような気がする、その言葉。

全てを終わりへと導いてしまう、悪魔の呪文。

駄目だ。そう誰かが俺の中で叫ぶ。

口は乾いて、喉も痛い。

でも、どうしても今、その言葉を言わなくてはいけない。

そうしないと、俺はまた何かを失ってしまう。


——『また』?


なんだ。全身が重くて動かなくて、口を開くことすらままならないはずなのに。

それなのに、一瞬だけ目の前に広がった情景……。

あれは、道路……?いや、横断歩道だ。

でも地面の色が違っていた。あれは、あの色は……。


ああ。全てを思い出した。


そうか。俺は……。佳乃、君は……。


「——大丈夫。次は上手くやるからね。」


彼女の冷たく凍った声が俺の糸を切る。

プツンという音が聞こえたと同時に、俺の記憶はそこで途絶えた。


◾︎


——まただ。また失敗した。


これで何度目だろうか。いつしか、その印を付ける事すら諦めてからもずっと。私は実験を続けた。

何度も何度も。最後には同じ結末を辿る。

それが、この実験の答えだというのなら、私はそれを否定しよう。

科学者が自分の情に絆されて、その結果を認めないだなんて、随分と、恥知らずだと思われるかもしれない。


この世界の事象は、全てに意味があり理屈があり、その果てに終着がある。

なら、今私の前にある『これ』に関する事象にも、終着点があるはずだ。

けれど、私は自分が望む終着点を見つけ出すまで、この実験を諦めたりしない。

この真っ白な空間は私そのものだ。

私という人間が如何なる存在なのかという答えを、この場所は知っている。

でも。真っ白で何も無い私に光を与えてくれたものもある。

そして、その光に触れたくて、焦がれた私が何を起こすのかは、誰も知らない。


「大丈夫。次は上手くやるからね。」


私は静かに、目の前にある透明な箱に手を置いた。

その中で、眠るように息をする『それ』を見つめる私の頭には、一人の人物が思い浮かぶ。


「——。」


そうして、私はまた今日も実験を繰り返すのだ。


◾︎


『今日は全国的に雨が降るでしょう。』


この力に気付いたのは何気ない帰り道。

朝のテレビでそんな事を言っていたと思い出したのは、学校帰りだった。

その日の昼間は雨が降っていて、帰る時は地面が湿っていた。

コンクリートは雨の染みが出来ていたし、土はぬかるんでいた。

帰り道の途中、俺の前方に水溜まりが出来ているのを見つける。

それはただの気まぐれだった。

いつもは気にすること無く通り過ぎるその水溜まりを、何となく覗き込む。

それが全ての始まりだった。


『こんにちは、初めまして!ところでここはどこ?』


水溜まりに映っていたのは、反射した自分の黒髪ではなくブレザー姿の美少女だった。

栗色のふわふわした髪に、裸眼とは思えない茶色の瞳。

俺は水溜まりに映る彼女の姿に、目を丸くする。

「……は?」

幻聴でも、幻覚でも無い。何度目を擦ってもその水溜まりには少女の姿が映っている。


その透き通る美しい瞳を、俺は知っていた。

知らないはずなのに、頭のどこかで彼女を覚えていたんだ。

「君は吉舎佳乃だね。」

それだけじゃない。

朧気だけれど、俺の中には彼女と出会った記憶がある。

何を話したのが、どこで出会ったのか。それは覚えていないけれど、俺は確かに、この少女を知っている。

いつも、瞳の奥に何かを隠しながら、それを俺に気付かないようにと、笑顔を貼り付ける。

その笑顔は酷く痛々しくて、けれど無力な俺には何も出来なくて。

そんな日々がこれから幕を開けるような気がした。



『関東地方では雨、が降るでしょう』




『○○県で……ハ雨が降るでしょう』




『○○市では雨が降——でショウ』




『○○チョう、デは……ア——』



俺は、約一年という時を彼女と共に過ごした。

今日は何をしたのか。誰といたのか。どんな事を感じて、何を思ったのか。

俺はその全てを佳乃に話していた。

佳乃は興味深そうに、うんうん、と相槌を打つ。

佳乃は俺に安らぎを与えてくれた。

だから、俺が佳乃を好きになるのにそこまで時間はかからなかった。


彼女と一緒に話をするようになって、変わった事がある。

それは、彼女と共に居る時間が長くなれば成程に身体に違和感が生まれていく事。

最初は右手の小指が動かない位だったけれど、今となっては全身を動かすこともままならない。

こうして、公園のベンチに座って水溜まりに映る佳乃を見るだけでも精一杯だった。

いつから俺の身体はこんなにも使い物にならなくなってしまったのだろうか。

佳乃と出会ってから……?

いや、違う。もっと、ずっと前から……。


そうだ。佳乃に出会ってからもう一つおかしな点がある。

夢の中で俺の知らない記憶が流れているのだ。

体感した事も、見た事もないはずの景色。

放課後の誰も残っていない教室に、俺ともう一人の影がカーテンに映し出されている。

俺はその人と楽しそうに話を交わしていて、いつもニコニコと笑っていた。

暖かな空気に包まれたその空間は、とても居心地が良くて幸せだと感じていた。

その影を、俺はずっと前から知っている。いや、知っていたはずだった。

ふとした時に、目の前を横切るのは俺の知らない俺の記憶。

その一つ一つがとても輝いていた。美しいと、思ってしまった。


——そして、やっと思い出す。



——そうだ。俺は……。そして佳乃は……。

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