覗く世界は雨模様
桜部遥
前編
——恋愛は嵐のようだと、誰かが言った。
好きという感情が一気に押し寄せて、雨が降り始める。
かと思ったら、その感情は一気に冷めていき、やがては雨が止む。
もし、誰かの恋愛が嵐だとするならば俺の恋愛は、別の言葉で表そうと思う。
けれどこれは決して比喩表現でも、例え話でも無く、ただの事実なのだ。
——俺の恋愛は、水溜まりのようだ。
もしも自分に何か超能力が宿るとしたら、君は何を望むだろうか。
幽体離脱? テレパシー? 透視? 透明人間?
色々と思いたる事はあるだろう。
そしてそういう能力を望むのは、君が『特別な人間』になりたいからだ。
非現実を求め、自分が漫画の主人公になりたいと夢を見る。
それは悪い事では無いし、寧ろこの社会を生きる上では良い事だとも言える。
が、俺が言いたいのは、少なからずそんな夢を見るのはおすすめしないという事。
だって俺はそんな事を望んでしまったせいで、自分という人間のちっぽけさを知らされる羽目になったのだから。
さて、ここで最初の質問に戻るけれど、何か超能力が宿るとしたら、俺は少なくとも「『水溜まりの中に住む少女と意思疎通を測れる能力』は欲しくない」と答えるだろう。
『今日は全国的に雨が降るでしょう。』
この力に気付いたのは何気ない帰り道。
朝のテレビでそんな事を言っていたと思い出したのは、学校帰りだった。
その日の昼間は雨が降っていて、帰る時は地面が湿っていた。
コンクリートは雨の染みが出来ていたし、土はぬかるんでいた。
帰り道の途中、俺の前方に水溜まりが出来ているのを見つける。
それはただの気まぐれだった。
いつもは気にすること無く通り過ぎるその水溜まりを、何となく覗き込む。
それが全ての始まりだった。
『こんにちは、初めまして!ところでここはどこ?』
水溜まりに映っていたのは、反射した自分の黒髪ではなくブレザー姿の美少女だった。
栗色のふわふわした髪に、裸眼とは思えない茶色の瞳。
俺は水溜まりに映る彼女の姿に、目を丸くする。
「……は?」
幻聴でも、幻覚でも無い。何度目を擦ってもその水溜まりには少女の姿が映っている。
正直こんな出会い方をする人間はそういないだろう。
水溜まりを覗いたら美少女が映ってたなんて、漫画かアニメの世界だけの話だと思っていた。
けれど、それは紛れもなく現実で。
雨上がりの匂いが充満する中、俺は彼女、『
彼女と話せるのは、雨上がりの水溜まりの中。
なんて限定的なのだろうと、この能力を嘆いていたのはかなり昔だ。
佳乃と出会って半年も経てば、彼女と話をする事がそれほど嫌だとは感じなくなった。
初対面の時はあんなにも不審がっていたはずなのに、今となっては笑いが絶えない仲になっていた。
とは言っても毎日会える訳では無い。一週間連続で会える時もあれば、一ヶ月も会えない時もある。
不完全な力だけれど、俺は割とこの能力を気に入っていた。
そういえばある時、俺が佳乃に尋ねたことがある。
「水溜まりの中はどうなっているんだ?」
その問いに、佳乃は曖昧げに答えた。
「うーん。強いて言うなら、何も無い……かな。悲しみも苦しみも、喜びも。何にも無いの。詰まらない世界よ。」
その時の佳乃は、少しだけ切なげな瞳をしていた。
詰まらない、とそう呟く佳乃を見て、俺は思う。
そんな世界は詰まらないと言うよりも、酷く寂しいのでは無いだろうか、と。
決してそれを口にはしなかったけれど、彼女は俺の考えを読み取っていたのかもしれない。
だって佳乃はその後、何かを悟ったみたいに優しく微笑んでいたのだから。
『今日は関東地方で雨が降るでしょう。』
木々を彩る葉が、鮮やかな色に染まる。
それでもやっぱり雨が降っていて、色とりどりの葉から雫が落ちていた。
それも夜になれば降り止み、雲間からは月が見え始めている。
佳乃と会話を交わす事が日々の当たり前に変わっていく中で、一つ変化があった。
それは、いつの間にか俺が佳乃と話す事に安らぎを覚えていたという事。
彼女と話す時間は、誰にも邪魔されずに本音がぶつけられる。
そして佳乃はそれを受け止めてくれる。
だから今日だって、夜の公園で何気ない雑談を交わす事が楽しくて仕方なかった。
佳乃はいつも決まって、今日は何があったのかを聞いてくる。
どんな事が、どこで遭ったのか。その時誰がいて、何を思ったのか。
まるで、診察でもされているような気分だった。
けれど、彼女は俺の話を聞く時に何度も相槌を打つ。
うんうん、と何回も頷いては、自分の事のように楽しそうな顔をする。
佳乃のそんな顔が好きで、俺は生活を送る中で『次はこんな事を話そう』なんて話題探しをしてしまっていた。
いつも通りの何気ない会話を続けていると、俺はふと疑問に思う事があった。
「なあ、佳乃は学校に行ったことがあるのか?」
佳乃が居る、『何も無い世界』で彼女はどう生きているのだろう。
その『何も無い世界』で、佳乃は独りぼっちなのだろうか。
俺の佳乃に対する疑問は、日に日に膨れ上がっていた。
それはきっと、それだけ佳乃の事を知りたいと思っているから。
そう思う事は決して悪い事では無いはずなのに、口に出すのを躊躇ってしまう。
だから遠回しに、佳乃に気付かれないように質問をしてみる事にしたのだ。
「あるよ。ずっと前の事だけれどね。でも、君の話みたいに、楽しい場所では無かったよ。」
ずっと前の事と、そう口では言うくせに、彼女は未だにブレザーを着続けている。
その服を大切そうに、毎日着ているのには何か理由でもあるのだろうか。
佳乃は多くを語らない。
俺に沢山の秘密を隠している事を、俺は知っている。
何より、こうして少しずつ聞く彼女の世界は、とても冷たくて、孤独なものだった。
そんな世界で生きる佳乃は、一体何を思って生きているのだろう。
きっと、俺がこの能力を手に入れて佳乃に出会ったのは、彼女をその世界から救い出す為なのかもしれない。
そんなヒーロー気取りの馬鹿馬鹿しい考えを、俺は信じていた。
いや、少し違うかもしれない。
——そう信じる事で、彼女との繋がりを守りたかったんだ。
『○○県では雨が降るでしょう』
木々を着飾っていた葉達は、その役目を終えたかのように地面へと落ちていく。
空気は乾燥し、その冷たさに肌がピリついた。
分厚い雲が空を覆い隠し、雨が降り始める。
それはやがて、白い結晶へと姿を変えて街を白銀の世界に導きて行った。
俺は、庭に出来た小さな水溜まりの水面に顔を覗かせる。
凍えそうな寒さの中で、鼻を赤くさせながら佳乃と話をしていた。
「あら、雪が降ってるのね。積もるのかなあ。」
佳乃の言葉に、俺は空を仰ぐ。
真っ白な粒が、そっと俺の肩に触れて溶けていった。
「雪って言っても大した量は降らないらしいからな。そこまで大雪にはならないだろ。」
水面に雪が落ちては、佳乃の顔を純白に染め上げていく。
不思議と、佳乃には白が似合っていた。
その真っ白で透き通るような肌に、雪が触れるだけで、世界が違うように思う。
「ええー。雪が積もったら、いっぱい遊べるのになあ。雪だるまとか、雪合戦とか!」
あれでしょ、これでしょと、指を折りながら楽しそうに想像を膨らませる。
小さな子供のように雪を見てはしゃぐ佳乃に、俺は自然と頬が緩んだ。
彼女が笑う姿を見るのは、とても心地がいい。
可愛らしいとか、愛らしいとか、そんな事を思っては彼女の笑顔に胸が高鳴る。
この小さな水面でしか出会えない佳乃という存在。
だからなのかもしれない。
俺がこんな事を言うのは、後にも先にも彼女だけなのだろう。
「なら、いつか勝負しようぜ。どっちがより大きな雪だるまを作れるか。」
俺がそんな事を言うのが予想外だったのか、佳乃は目を丸くさせたまま口をぽかんと開けていた。
それからすぐに目を細める。
長いまつ毛がその瞳に影を落として、闇を産んだ。
「うん。そうだね。いつか……いつか二人で、ね。」
いつか、と彼女が見ているのは俺では無いような気がした。
俺よりも遠くにある、何かを見つめるその瞳は、すぐにでも泣き出してしまいそうなくらいに弱々しくて。
普段よりも優しく微笑むその口元を見るだけて、胸が酷く苦しめられた。
『○○市では雨が降るでしょう』
正月も終わり、寒波はゆっくりと消え去ろうとしている。
ふと空を見上げて見ると、木の枝に蕾が膨らんでいる事に気付いた。
佳乃にそんな話をしてみると、目をキラキラと輝かせながらいいなあ、とぼやいていた。
胸の前で手を合わせる姿は、王子様に恋焦がれる姫のようで、クスリと笑いが零れる。
「桜が咲いたらお花見とか、したいよね〜! ピクニックみたいに、お弁当とか持ってさ。」
相変わらず、想像を膨らませるのが上手だと関心しながら、俺は佳乃に向かって意地悪をしてみる。
「まあ、佳乃は花より団子だろうけどな。いっつも食い意地張ってるし。」
「な、何よう! これでも私、体型とか気にしてるんだからね!」
ムスッと口を尖らせながら、佳乃はへそを曲げた。
眉を吊り上げる愛らしい姿に、俺はごめんと、平謝りを繰り返す。
けれど実際、佳乃の手足はほっそりとしているし、横顔だって骨格が見えるくらいには痩せている。
彼女の外見のどこに気にする要素があるのかと疑問になってくるくらいだ。
でも、その体型を維持する為に彼女なりの努力をしているのだろう。
俺の知らない佳乃の生活を思い浮かべるだけで、心が満たされていく気分になった。
自分の腹部を擦りながら、むーっと悩んでいる佳乃を見ていたら、無性に腹から何かが吹き出してきた。
「……ぷっ。あはははは! 」
人目も気にせず、住宅地で大笑いをする俺に佳乃は口をぽかんと開ける。
腹を抱えながらじたばたと大爆笑をしていると、目元が潤んできた。
佳乃と居ると、本当に飽きることを知らない。
こんなに表情筋が動くのだと、自分自身でも驚きを隠せなくなる。
彼女と居る時の安らぎ、心地良さ、この感覚。
どこか懐かしいと感じるような、この気持ちの揺れ方。
俺は知っている。この感情を何と呼ぶのかを。
——俺はどうしようもなく、彼女に恋をしているのだ。
自分の中に芽生えたこの感情の意味を知り、彼女を恋しいと思い始めた。
けれど、その感情への亀裂は音もなく唐突にやって来て、俺を砕いていく。
『○○町では雨が降るでしょう。』
桜の季節は静かに消え去り、次の季節へと向かう準備が行われている中、雲が太陽を隠す時間が多くなっていた。
一週間に一度だった雨模様は、三日に一度、二日に一度。そして今となっては毎日のように雨が振る。
もう随分と、太陽を拝んでいないなと思いながらも、彼女と共に居られる時間が長くなる事が嬉しくもあった。
「それで、今日は……」
今となっては日課になっている一日の出来事を佳乃に話す。
とは言っても、なにか特別な事がある訳では無い。
本当にいつも通りの日常を佳乃に伝えていると、耳鳴りが響いた。
ここ最近、雨が降ると体調を崩すようになってしまった。
けれど熱がある訳でもないし、倒れそうな訳でも無い。
急に視界がぼやけたり、指が動かなくなったり、耳鳴りが酷かったりと身体に違和感があるだけだ。
「……どうしたの?体調悪いの?」
耳鳴りに頭を抱える俺を見ながら、佳乃は心配そうに尋ねてくる。
けれどその声すら遠く聞こえて、返事を返すのに少しの間があった。
「大丈夫……。少しすれば治るから……。」
そうは言いつつも、身体の不調は日に日に酷くなっていく。
少し前は、右手の薬指だけだったのに、今は右手首まで動かなくなっている。
自分の身体なのに、自分の物では無いみたいだ。
「……もう、限界かな。」
ボソリと呟いた言葉に、俺は顔を上げる。
「よ、しの?」
彼女の名前を口にした瞬間、頭を殴られるような痛みに襲われる。
ガンガンと、頭の中に響く痛みに俺の顔は歪んだ。
「うっ……!」
息を吸い込んでいるはずなのに、酸素が届かない。
視界がぐにゃりと曲がって、ピントが合わない。
彼女の名前をもう一度呼びたいのに、口が乾いて声が出ない。
段々と薄れていく意識の中で、佳乃は俺をじっと見つめている。
その瞳は、今までのような暖かいものでは無く、冷たい眼光を放っていた。
「大丈夫、次は……次こそは上手くやるからね。」
悲しそうな声で、誰かに言い聞かせるように彼女はその言葉を放つ。
どうしてそんなにも泣きそうな目をするのかと、聞きたかったのに、もうそれも出来なくなっていた。
ばたり、と地面に倒れた俺の服に、水溜まりの雨水が染み込んでいく。
糸がプツンと切れたように、俺の意識はそこで途切れて行った。
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