第3話 宿世の縁

 光の君は藤壺女御のもとへ急ぎました。従者たちに後から追いかけるよう言い置いて、光の君は乳母子の惟光と二人、矢のような勢いで馬を走らせます。

 内裏を出たあたりで一天にわかにかき曇り、大粒の雨が降り出しました。都大路を馬で行く間に雨は次第に降りつのり、やがて嵐となりました。顔には痛いほど雨が打ち付け、水が勢いよく顔を伝い落ちて息ができないほどです。光の君を追い立てるように遠雷の音が背後で低く響きます。

 清涼殿で起きた異変は、これから藤壺女御の身の上に降りかかる災厄の前触れに違いありません。どうか間に合うようにと光の君はひたすら神仏に祈ります。


 ずぶ濡れのまま藤壺女御の乳母の屋敷に馬を乗り入れると、あたりはひっくり返るような騒ぎになっていました。

 寝殿の柱間のしとみはすべてぴたりと閉じ、その前の簀子すのこ縁で王命婦や弁の君といった宮の女房たちが蔀戸に取りすがって叫んでいます。

 あわただしく行きかう警護の侍や下郎の間を縫い、寝殿の前で馬を降りると、光の君に気づいた宮の女房たちがわっと押し寄せました。

「あやかしに突然、外に弾き飛ばされて」

「まだ、中に宮様が」

 口々に訴える女房たちを抑えて寝殿のきざはしを駆け上がり、妻戸の前に立つと、扉は音もなくひとりでに開きました。中に一歩足を踏み入れた途端、光の君は何かを強くねじられたような衝撃を受けました。その一瞬の隙に、光の君の後に続く惟光を切り離すように勢いよく扉が閉じました。

 雨の音が遠ざかり、小さくなりました。風圧を受けて一瞬消えかかった高灯台の火がゆらぐ中、光の君は臆さず庇の間を進み、りぃと御簾を掲げて母屋に足を踏み入れます。

 藤壺女御の枕元に膝を突くと、女御は光の君の気配を感じ取ってうっすらと目をお開けになりました。肌を染め上げる呪詛はすでに喉元を越え、顔の縁にまで達しています。

「……どうして来たのです。ここから出て行きなさい」

 苦しい息の下、か細い声で女御は気丈におっしゃいます。

「まさか。義母上を置いて逃げるなど考えられません」

「あなたがいても仕方ないのですよ。ここから先は私ひとりで決着をつけるしかないのですから」

 光の君ははっと気づき、あたりをはばかるように一段声を低めて女御の耳元でたずねました。

「では、ご覧になったのですか? あの後ろ姿の女を」

「……夢で。それで、わかったのですよ。あれは、私が立ち向かうべき相手」

 すっかりお弱りになっていても藤壺女御はあくまで気高く、毅然としてお答えになりました。

「歴代の后が盾となり、この都にかけられた呪詛を防いでこられた。その役目が私に回ってきただけのこと。宮中で華やかにときめくだけが后ではありません。ここで命を落とすというなら、それが私の宿世なのでしょう」

「そんなことをおっしゃらないでください。貴女の御身に何かあったら私も生きていけません、少しでも私を哀れと思われるなら、どうかお気を強く」

「わがままな子。――可哀想な子」

 藤壺女御は憐れむようにおっしゃいました。

「宿世からは逃れようがないというのに」

 女御は涙ぐんでいる光の君にいたわるような眼差しを向けられました。幼い頃から常に向けられていた慈愛の眼差し。ですが、それにうっすらと異なる色が映り込んでいるように光の君には思えました。光の君が女御の手を取ると、女御はもうそれを拒まれませんでした。そのまま光の君が梃子(てこ)でも動きそうにないのをご覧になって、女御はついにあきらめ、お側にいることをお許しになりました。


 明けやすい夏の宵とはいえ、長い夜になりました。光の君も藤壺女御もこれほど長い間、ふたりきりで過ごしたことは今までにありませんでした。この上もなく恐ろしいものが近づいてくる焦燥感を肌で感じながら、お互い思いの丈を語り合います。

「覚えでおいでなさい。ここは仏国土ではなく下界」

 語り合う間にも、女御の声は次第に気怠く、ゆっくりになっていきます。

「定めはままならぬものですわ。ひとたび人の世に生まれたからには――」

「――すべてはままらぬものと心得よ、と?」

「ええ。誰よりも優れているあなたが十善万乗の君になれず臣下の座にいるのも、すべては宿世」

 当代の最も優れた男君である光の君も、最も優れた女君である藤壺女御も宿世からは逃れようがないのです。

「教えてください。愛しい人と巡り会いながら結ばれてはならぬ定めなのは、これも宿世だからですか? 私は――想いを持てあますばかりです」

 目の前で恋い慕う人を失うかもしれない今になって、光の君の心に去来するのは強烈な後悔でした。

「これほど因果がもつれては、おそらく今生で結ばれることはかないますまい、ですが、せめて来世で結ばれるという証がほしい。どうかお心を明かしてください、それだけを後生の頼みに生きていきます」

 光の君の声には抑えきれぬ悲痛な響きがありました。無情な木石でも、この素晴らしい公達の嘆きぶりを目にすれば心動かされるに違いありません。おそらく、藤壺女御の魂はこのとき現世のしがらみから既に解き放たれかかっていたのでしょう。常日頃であれば決して口にしないことを光の君に告げられました。

「……おそらく、私は助かりません。ですから……私が事切れる有様を目にしなければならないあなたに、形見として言い置いていきましょう」

 女御は薄く微笑まれました。

「主上と体を重ねるときも、いつからかあなたのことばかり考えていました」

「義母上――四の宮さま」

 藤壺女御はついに心の端を明かしてくださいました、こんな時でなければどれほど嬉しかったことでしょう。いや、もう後がないとお思いになったからこそ、秘めた想いを明かしてくださったに違いありません。光の君は声を詰まらせます。


 そのとき、高灯台の火が風もないのにゆらゆらと大きく揺れ動き始めました。ずん、と空気が重くなります。光の君はすっと顔色を変え、蝙蝠の扇を置いて結界を作ると、佩いていた太刀を手にして女御を背後にかばいます。

 いつの間にか、この世の理を越えた静かで重いものが庇の間にたたずんでいました。御簾越しに水のような冷気が渦を巻いて流れ込んできます。ぞっとするような純度の高い恐怖をもたらすものが、そこに現れていました。

 これまで何度も後ろ姿を見かけた女が、今では正面を向いていました。その存在を意識するだけで、ひとりでに肌が粟立ってきます。女の顔は影になって見えませんが、その装束などから生前はきわめて高貴な存在だったことがうかがえます。

 息を詰めたまましばらくそのまま対峙していると、やがて音のない声がこだまのように響いてきました。

 ――か、つ、ら、お、と、こ。

 月の桂のように触れてはならぬ存在に触れた男。あるいは月そのものの化身。

 だしぬけに光の君の心の中に切れ切れの光景が浮かんできました。さやかな月の照らす夜、宮居から誘い出された高貴な女人が葦原をさまよい、最後は水に落ちていく――そんな幻が光の君をとらえます。

 するとゆかしい香りとともに温かく柔らかい手が光の君に触れました。藤壺の女御が自分を見上げていることに気づいて、光の君ははっと我に返りました。光の君は請われるまま首にかけていた懸守りを外して、女御の胸元にかけました。女御は懸守りの上で両手を組むと祈るように深い息をつかれました。

 涼しい鈴のような音とともに胸元の懸守が星のような淡い光を放ち始めました。暗夜の航路を行く者を導く三つの星が、守ってくださっているのでしょうか。

 神威を受けて女はわずかながら怯んだようでした。その隙を逃さず、光の君は太刀を抜き払いました。鋼が水面のように淡い光を映して輝きます。気づけば雷雲のとどろきがすぐ近くまで来ています。いかづちとはすなわち威(いか)つ霊(ち)、神霊の大いなる力の現れ。光の君は神霊のご加護に感応するように渾身の力を込めて太刀を振り下ろしました。邪を払うその一閃があたりをなぎ払ったとき。

 つんざくような音と共に天からまばゆい稲妻が駆け下り、女の死霊を撃ちました。一瞬にして炎に包まれた影は、二、三回のたうつと燃やした紙のように消えていきます。落ちた稲妻は地を這い、柱や蔀を伝ってあっという間に消えました。と、同時に格子が音を立てて一斉に開き、新鮮な外の風が流れ込んできました。

 すべては一瞬のできごとでした。恐怖の源が去った代わりに、屋根は焦げて壊れ、落ちてきた木材や調度品があたりに散乱しています。高灯台のひとつが倒れ、油に火が燃え移りかけているのを慌てて消し止めると、光の君は藤壺女御の無事を確かめるために振り向きました。

 そのかみの御霊を退けた藤壺女御は疲れ切り、練り絹のように力なく無防備に横たわっておいででした。光の君は急いで駆け寄ると、庭先の下郎たちの目に触れぬよう女御のお体を衾(ふすま)で覆い隠しました。単衣の上から見た限りでは、呪詛は女御の肌から消えているようです。この美しい人を失ってしまうかもしれなかったのだと思うと光の君は今さらながら身のすくむ思いでした。


 光の君はあらためて周囲を見回しました。雨は止み、強い風が急速に雲を吹き散らしていきます。雲の切れ間から薄明の空がのぞき始めていました。夜明けが近いのです。

 屋敷は半壊状態になり、簀子縁には女房たちが倒れ伏していました。ですが、幸い大きな怪我をしている者はいないようです。その中で弁の君がいち早く起き上がり、庭に下りて女房たちや屋敷に仕える下部に指図していました。蔀戸が開いたことに気づいた女房たちは女御のもとに集まろうとしていましたが、あいにく体が痺れているため機敏には動けません。

「惟光」

 光の君が呼ぶと、惟光がすかさず主の前に控えました。

「宮様をどこかで休ませて差し上げたい。心当たりはあるか?」

「このあたりならば、私の母の屋敷がございます。そちらへ」

 惟光の母は光の君の乳母で今は五条に屋敷を構えています。惟光はすでに手はずを整えていたらしく、寝殿の前に手際よく網代車を回しました。以心伝心とはまさしくこのことです。

 光の君は覆っている衾ごと女御を腕に抱え上げました。まだ肉付きの薄い、少年らしい細身の体格ですが、女御を抱える腕は力強く揺るぎないものでした。

「弁、命婦。突風のために屋敷が壊れたので、宮様は御座所を移られる。騒がしい目にあってお疲れになったので、ひとときお休みいただいてから私が責任を持って三条の宮にお送りさせていただく――そのように心得て動くように」

 そのまま光の君は寝殿の階を走り下りました。王命婦や弁の君が止める間もあらばこそ、光の君は女御を網代車に引き入れて、女房たちを置き去りにしたまま屋敷から連れ出してしまいました。

 馬上の惟光は無言のまま網代車を先導します。藤壺女御は自分の身にこのようなことが起きたことが信じられず、夢でも見ているような心地のまま車に乗せられておいでになります。

「ご心配なく。すべて私に任せてくだされば」

 優しい低い声音で光の君はなだめるように語りかけます。その声には睦言のような甘い響きが混じっていました。女御は、何年も恐れ避け続けていたことがついに現実になってしまったことをお悟りになりました。女御は耐え切れぬように白い面を伏せ、自分を容赦なく運んでいく車輪の立てる音をおののきながら聞いておいでになります。

「あまりお側には寄れませんね。まだ乾いていない直衣から湿気が移ってはいけませんから」

 どこか楽しげとさえ感じられる光の君の言葉に、女御は一言もお答えになりません。世の人がこれを知ったらどのように指弾されることになるかと思うと女御は冷や汗が止まらず気分が悪くなりそうでした。


 光の君を迎え入れた五条の屋敷で、惟光は母に女御の素性を明かさず、ただ光の君がゆかりの女君とともに微行で訪れたとだけ告げました。惟光とその母は促されるまま光の君に寝殿を明け渡し、自分たちは対の屋へと移ります。

 車を寝殿の正面につけると、光の君は女御を腕に抱えて寝殿の階を上がり、母屋に入りました。死霊と対峙した恐ろしい一夜を乗り越えて疲れ切った女御をいたわりながら、大切な宝のように帳台の中に横たえます。

「呪詛は消えたのですよね?」

 光の君は女御に問いかけました。

「……ええ、おそらくは」

「念のため確かめてみなければ。――見せてください」

 光の君は両手で女御の単衣の前を勢いよく開きました。物事がくまなく見える白昼のできごとです。暴かれた肌は白く、呪詛の痕跡はどこにも見当たりません。ただ、外気にさらされたつぶらな胸乳が震えているばかりです。女御は観念したように目をつぶり、顔を背けられました。これが己の宿世かと情けなく思われた女御の目から耐えきれず珠のような涙がこぼれ落ちます。

 その悲しげな面輪を歓びの色に染め替えてしまいたいという焦燥感にも似た何かが光の君の中で膨れ上がりました。滾る想いのまま、光の君は女御に覆い被さります。なだめるようでもあり、説きつけているようでもある光の君の手つきに、女御はどこまでも従順に応えます。父帝によって閨事に慣らされ、熟れた体に光の君はどこか悔しい思いを捨てきれません。光の君が胸に吸い付くと、女御は慈しむようにそっと頭を撫でました。父と子の両方と体を重ねるとはなんとあさましい、その報いが恐ろしい――そう思いながらも、女御は生きていることを確かめるかのような交歓に次第に溺れてゆくのを止められませんでした。

 この世で最も明るい存在である日と月が最も近づき重なれば、天の下を暗く翳らす不吉な蝕が起こるもの。呪詛がこの平安の都を呪うものだったのであれば――すべてが終わった今となって、そのかみの呪いは成就したのでした。

(終)

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光の君、初めての恋をする 鳴海潮音 @shione_narumi

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