第2話 去りやらぬ影

 光の君は焦っていました。藤壺女御が呪詛されていることがわかってからひと月あまり経つというのに、一向に手がかりがつかめないからです。賢きあたりの陰の御用を務める、帝からお預かりしている童子たちに命じて平安京の内外を虱潰しらみつぶしに調べさせましたが、呪詛を行っている者を突き止めるどころか、解決の糸口さえいまだに見つかっていません。

 人任せにしてはおれず、光の君はあるいは呪詛で亡くなったと噂される故東宮の御息所に教えを請いに六条に赴き、あるいは大胆にも右大臣の邸に自ら忍び込んで呪詛の証拠を探そうとしましたが、いずれも徒労に終わりました。特に右大臣の邸では危うく家人に見つかりそうになり、たまたま出会った裳着もぎ前の少女に助けられてようやく難を逃れるといった事もありました(少女が右大臣の娘の六の君だと後にわかりました)。


 藤壺女御のご不例が続いていることは内裏の内外にも微妙なさざ波を立てていました。藤壺女御が後宮に不在の日々が続けば、それだけ弘徽殿女御と右大臣一派の宮中での重みが増します。折しも右大臣に近い筋から八の宮が誕生し、その誕生が盛大に祝われました。宮中でも光の君にとってわずらわしく重苦しい日々が続きます。


 杜若かきつばたの花咲く、緑の濃い季節となりました。初夏の薫風が柳の枝をさやさやと渡り、白くまぶしい光が庭の前栽の影を地面に色濃く投げかけています。

 寝殿の母屋の御簾は、横たわる女主人が外の景色を見られるようにわずかに巻き上げられています。藤壺女御はもう起き上がることがおできにならず、光の君がお見舞いに訪れたときも昏々と眠り続けていらっしゃいました。

 力なくぐったりしている女御の様子を光の君は長い間、そばを離れず見守っていました。単衣からのぞく女御の肌は喉元まで呪詛の色が広がってきています。光の君の目は実の母が病に倒れた幼子であるかのように不安に揺れています。

 やがて女御はゆるやかに目を開き、光の君が御簾の外にいることに気づかれたようでした。悄然としている光の君の様子を見て、女御はわずかに口もとをほころばせられます。

「――なんて顔をしているのかしら」

「お気がつかれましたか」

 傍らに控えている王命婦が女御を助け起こし、口を潤す水を差し上げます。

「またお見舞いに? あなたも忙しい身でしょうに」

「お会いしたかったからです。いけませんか?」

「あなたのことを考えればあまり喜んではいけないのでしょうけれど。こういうときに来てくれるのは、やはりあなたなのですね」

 藤壺女御はしみじみと呟かれます。そのお言葉で、たとえ遠ざけられていても決して女御にうとまれているわけではないことが光の君にもわかりました。近年よそよそしかった女御が昔のように優しい言葉をかけてくれるのは光の君にとって嬉しいことですが、それが呪詛で弱っていらっしゃるためならば手放しで喜べることではありません。

「申し訳ありません。お助けすると誓っておきながら、いまだに果たせず。この中将が不甲斐ないばかりに……」

 光の君は膝の上でぎゅっと拳を握ります。

「あなたが八方手を尽くしてくれていること、よくわかっておりますとも」

 藤壺女御は穏やかにおっしゃいました。

「世間では夜な夜な遊び歩いていることになっているのですってね。あなたにとっては不本意なことでしょう」

「些細なことです。実害はありません。それより……」

 光の君はどこかすがるように言いました。

「お元気になられると、どうかこの中将にお約束してください」

「ええ――と答えたいところですけれど。こればかりは定めですから。それより、くれぐれも気をつけて。あなたまで狙われることのないように」

 日と月のように顔立ちのよく似たふたりが打ち解けて語り合っているのを、王命婦はどこかまぶしいものを目にするような気持ちで見ていました。当代の最も優れた男君である光の君と最も優れた女君の藤壺女御はどこから見ても完璧に釣り合いが取れています。そのかみの男神と女神のように一対の存在と言ってもいいでしょう。そんなことを考えている場合でないことは王命婦も百も承知ですが、人の世のしがらみにさえ目をつぶれば、水面に映る己の影に引かれて花が落ち真と影の二つの花が重なって流れるように、光の君が女御に惹かれるのは命婦にはごく自然な成り行きに思えました。

 王命婦は詮ないことと知りつつ考えてしまいます。

(どうしてこのお二人は母と子として出会われたのでしょう…)

 女御のほうが五つお歳上とはいえ、光の君の北の方である葵の上も光の君より四つ年上。ひとつしか違いがありません。お互い最もふさわしい相手だというのに、光の君と藤壺女御が今生では決して結ばれてならぬ定めを負っているのは、どこで因果が狂ったのでしょう――弟の良清からの頼みということもありますが、心の底にそのような思いがあればこそ、王命婦は光の君の訴えについほだされてしまうのでした。


 光の君は呪詛の手がかりを探るため、乳母子で腹心の藤原惟光とともに京の巷の闇深いあたりに紛れ込み、自ら調査に乗り出しました。

 近衛の舎人や雑人に身をやつし、本来ならば決して出会うことのなかったあやしげな者たちの間に入り込み、流れの巫女と行き会い、武者と切り合い、幾度か危ない橋を渡ったおかげで、ひとつだけ判明したことがありました。呪詛の犯人が、怪しいとにらんでいた右大臣とその一派ではないことがわかったのです。右大臣もその娘の弘徽殿女御も藤壺女御の病を思いがけぬ僥倖と喜んでいるだけで、呪詛だと気づいている様子はありません。

 行き詰まりを感じた光の君は、惟光の兄の阿闍梨あじゃりの伝手で強い験力を持った北山の僧都そうずに占いを頼みました。すると、僧都は御室おむろにほど近いとある場所を示しました。


 双ヶ岡は内裏の真西。山腹はクヌギやコナラ、ハゼといった木々に覆われ、梢を渡る風の響きばかりが聞こえる寂しいところ。斜面にはいわれのわからぬ古い塚がいくつも並んでいます。

 その懐に抱かれた双池ならびのいけのほとりに、光の君は惟光や他の従者たちと共に来ていました。右京のこのあたりは都とは名ばかりで一面に田野が広がっています。ここまで来る間にも、刈り草を土にすき込んでいる民草の姿があちこちで見かけられました。輝く池の向こうにも女人の後ろ姿が見えます。

 供として付いてきた者たちに命じてあたりを調べさせている間、狩衣姿の光の君と惟光は輝く水面を眺めていました。土のにおいのする眠るような暖気の中、二匹の蝶が戯れるように飛んでいます。引き延ばされたように日は永く、のろのろと進んでいきます。

「実を言うと、我が君がご自分で先頭に立って探しに行くと言い出されるのではないかと思っておりました」

「もどかしいけれど、やはり大勢の目で探したほうが早いからね。何かが見つかればここに知らせに来るように命じてあるし、それぐらいの判断はつくさ」

(惟光には、よほど私が余裕がないように見えているのだろうな)

 この年上の乳母子ほど光の君のことを知っている者はおりません。惟光が光の君の腹心であることは貴族や官人の間ではよく知られておりました。

「……私が夜な夜な遊び歩いているという噂。広めたのはお前だろう、惟光」

「さようでございます」

「いい働きだった。隠れ蓑としては十分だったよ」

 光の君は蝙蝠かわほりの扇をぱちりと鳴らします。

「私の評判は傷ついたけれど」

「艶めいた話がひとつもないというのもよくありません、我が君。いっそ、噂を真実にされたらいかがでしょう」

 惟光は眉ひとつ動かさず答えました。

「……そんな気になれると思うか。あの方に比べればどんな女も色あせる」

「思いを通わせろとは言いません。ただ、京には沢山の女がいるのだと知っていただくだけで良いのです」

 光の君と常に行動をともにする惟光です。己の主が藤壺女御にただならぬ思いを抱いていることを早くから察していました。

 身分の上下を問わず、光の君に想いを寄せられてなびかぬ女はいないでしょう。その光の君がかなわぬ恋に身をやつしているという評判が立てば、その思い人は誰かと勘ぐる向きも出かねません。

無謬むびゅうの玉に傷を求める輩は多いのです。僭越ですが、身辺にはくれぐれもお気をつけください。余人に足下をすくわれる材料を与えぬように」

「問題ないさ。悪意には慣れているから」

 光の君はさらりと答えました。

 実際、周囲に敵が多いことは光の君も昔からいやというほど自覚させられていました。唐土の書物には、天意を受けて帝に選ばれるのは誰よりも優れた人物だと書かれています。もしもそれが本当なら、今上帝の二の宮である光の君こそ、次の帝に最もふさわしい親王のはずでした。

 ですが、光の君はその母方の一族と共に生まれながらに悲運を背負っていました。母方の祖父である故大納言が政争に敗れて失脚し、本来ならば某院の猶子ゆうしとして女御として入内できたはずの母君は更衣として出仕しなければなりませんでした。故人である大納言に代わって更衣を後見すべき彼の甥も、近衛中将から播磨の受領として都落ちし、母方に連なる一族は今ではことごとく逼塞しています。

 もしも、光の君が帝の御位に就けば一気に都の勢力図が塗り替わるでしょう。政変の引き金を引くことにもなりかねません。その危険性があればこそ、父帝はあえて光の君を臣下に降し、皇位継承の可能性をひと思いに絶ったのでした。

 涙を流しながら自分に謝る父帝に、光の君も異を唱えることなどできませんでした。幼い光の君が生き延びられたのは、ひとえに父帝の庇護のたまものです。決して口にすることはできない悲哀と鬱屈を抱えながら、光の君はこれまで生きてきたのでした。

 光の君は惟光に語るともなく言いました。

「私にとってかけがえのないものは本当はとても少ないんだよ、惟光。あの方の御身に何かあれば、私の生きている甲斐もない。今は、左大臣家の姫君のもとへ通うことさえ煩わしい――」

 そこへザクザクと草をかき分ける足音がして、あたりを調べにやった従者たちがあわただしく戻ってきました。

「ありました、中将様」


 光の君と惟光がその場に駆けつけると、良清が興奮しながら大きく手を振ってふたりを出迎えました。

「ここです。崩れた塚がありましたよ、あの僧都が言ったとおりです」

 良清の背後には異様な光景が広がっていました。木立の間に半ば隠れるように、ところどころ表土が剥がれ落ちて石組みの露出した古い塚がありました。その入り口を塞いでいた石壁がまるで内側から大きな力で突き崩されたように、あたり一面に石が散乱しています。塚の中は空で奥にはただひんやりした透明な濃い闇だけが広がり、音が吸い取られたようにしんと静まりかえっています。厳粛な死の気配に圧倒されたように、従者たちはみな押し黙っていました。いささか軽薄なところのある良清でさえ、そのまま口をつぐんでしまいました。


『世人はとうに忘れておりますが。いにしえからの根深い恨みが京には巣くっておりましてな』

 呪詛について語る僧都の低く呟くようなしわがれ声が光の君の耳に蘇ります。

『話は、この平安の都ができた頃に遡りますが。大和より山城に都が遷ってしばらくは世情も落ちつかず。厭魅えんみだ呪詛だといった事件も度々起きたものでございます』

 それは、あまり語られない平安京の影の歴史でした。

『あおによし奈良の都で世をしろしめしし歴代の帝は、今の皇統とは別の流れに連なる方々でございました。都がこの地に移ると共に、古い皇統に連なる方々は声も上げられぬまま消えてゆかれ。その恨みは絶えることなくこの都に祟り続けておるのでございます』

 光の君が今上帝の皇子であることにいささかも臆さず、僧都は言葉を続けます。

『都に不審な火が上がり、はやり病が広がり、貴い方々が不意に命を落とすのも、去りやらぬこの恨みあればこそ』

 名声を求めず簡素な庵でひたすら修行に明け暮れた有徳の僧の言葉には鉛のような重みがありました。

『では、なぜあの方ばかりが狙われる?』

『そのかみの后の宮は霊威が高く、時に神がかりして託宣を述べ。宮処の霊的な護りの要でございました。さればこそ、標的にもなりやすいもの。当代の后たるべき方が狙われておいでになるのもむべなるかなと申せましょうぞ』

『お助けするためにぜひ修法を行ってもらいたい』

『……正直、気乗りはしませぬが』

 僧都の顔は影でよく見えませんでしたが、静かな声は深い諦念に満ちていました。

『あなた様が拙僧の庵にまいられたのも我が宿世。御仏の力におすがりしたいという願いを仏弟子として断るわけにはいかぬでしょう』

 急に薄ら寒さを感じたように僧都が腕をさすったのは、光の君の気のせいだったでしょうか。


 光の君は呪詛について僧都の語った内容が真実であったことを今こそ確信しました。

「僧都のもとに使いをやってくれ。言われた通りのものが見つかったと」

 呪詛を解く手がかりをようやく見つけた光の君は、逸る気持ちを抑えるようにきびきびと命じました。


 光の君が僧都の訃報を聞いたのは宿直とのいのために宮中にちょうど参内した時でした。宮中での御座所である淑景舎しげいしゃにいた光の君のもとに、使いにやった従者があわただしく戻ってきて、僧都が護摩壇ごまだんの前に座ったまま事切れていたことを知らせたのです。僧都がまるで恐ろしいものを見たかのように大きく目を見開いたまま息絶えていたことを知って、光の君は全身に冷や水を浴びせかけられたようにぞっとしました。

 藤壺女御の御身にはいよいよ危険がせまっておいでのようでした。光の君はふと亡き母君、桐壺更衣の遺品である住吉明神の懸守かけまもり御曹司みぞうし唐櫃からびつにあったことを思い出しました。住吉の神はそのかみの后をお守りしお導きになった霊験あらたかな神です。その加護をいただければこの上なく心強いでしょう。光の君は懸守を急いで出させると首にかけ、天から降ってきた星を鍛えた太刀をくとその足で清涼殿へ向かいました。

 清涼殿の滝口の陣には清涼殿警護の任にあたる武者たちが控えております。光の君は邪気を祓うため、彼らに鳴弦の儀を命じるよう父帝にお願いするつもりでした。

 ですが清涼殿に足を踏み入れた途端、光の君は異変に気づきました。あたりが薄暗くなったように一瞬めまいを感じてよろめき、ふと顔を上げると、帝にお仕えする上の女房や蔵人が大勢詰めているはずの清涼殿からまったく人の気配が消えていたのです。あたりを見回せば清涼殿はもぬけの殻でした。室礼しつらいは普段と何も変わっていないのに、ただ無人だというだけで、よく見知ったはずの清涼殿がこの上なく不気味な場所に変貌を遂げていました。

 光の君は父帝の安否を気遣い、不安にかられて清涼殿の中を走りました。次々に障子を開けていくと。藤壺の上の御局に女人の影がありました。

 女人は光の君に背を向けてたたずんでいました。肩に領巾ひれをかけた唐風の古風な装束を身にまとい、命無きものらしく沈黙したまま、ひたと動きません。光の君はこれまでにこの女を何度も見かけたことに気がつきました。藤壺女御の乳母の屋敷の東対の孫庇で見かけたのも、双ヶ岡の麓で見かけたのもこの女です。厳粛な死の気配があたりを支配していました。

 光の君が意を決して女に近づくと、女はきと影になって消えてしまいました。光の君ははっと気づきました。女は藤壺女御のもとに向かったに違いありません。

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