光の君、初めての恋をする

鳴海潮音

第一話 輝く日の宮

 平安京を春の冷たい雨が静かに覆っていました。ほの青い煙雨の奥から滑らかな音を立てて大勢の供ぞろえに囲まれた雨皮車あまがわのくるまが現れ、小さな屋敷の前で停まりました。牛車から下りてくる貴人のためにわらわらと従者が集まり、しじ持ちが踏み台の榻を置き、くつ持ちが深沓ふかぐつを捧げ、傘持ちが傘をさしかけます。

 りぃと簾をかきあげて現れたのは年の頃十六、七の桜襲の直衣に身を包んだ目の覚めるような美少年でした。雲間から月が出たようにきらきらしいその姿は、天人と見まごうばかりです。実際、少年は宮中に自由に出入りできる雲上人うんじょうびとで、月の光を集めたようなその美しさから光の君とあだ名されています。

「……義母上ははうえへのご対面はかなうかな」

「大丈夫ですって、中将様。姉の命婦に俺からよく頼んでおきましたから」

 桜の直衣の少年貴族に、随身ずいじんの良清が軽い口調で答えます。

 少年――光の君は唐渡りの高貴薬の入った薬箱を小脇に抱え、屋敷の中へと入っていきました。


 ここは今をときめく藤壺女御の乳母の屋敷。藤壺女御は数多いるお妃の中でも帝のご寵愛の特に深い、輝く日の宮と讃えられる方で、その乳母ともなれば位は低くても勢威はたいしたもの。屋敷も小さいながら凝った造りをしています。

 病を得て里下りした藤壺女御は初め兄君の兵部卿宮の屋敷である三条宮で静養されていらっしゃいました。ですがなかなか回復しないため、今は方角の良い乳母の屋敷にお移りになっています。さすがに手狭なものですから、普段は女御の御前に詰めているたくさんの宮の女房たちもたいの屋に控えたり、里に戻ったりしております。わずかな腹心の女房だけが女御の仮住まいされている寝殿しんでんを守っておりました。


 藤壺女御に仕える女房の王命婦は、寝殿の母屋もやで臥せっている女主人につと寄って、遠慮がちに声をかけました。

「あの、宮様。光の君がお見舞いにいらしたのですが」

 ひと呼吸おいて、女御の少しかすれた声が響きます。

「気分がすぐれないためお見舞いはご遠慮いたしますと申し上げてちょうだい」

「でも、その……主上からも宮様のご様子をうかがってまいるよう申しつけられたと仰せになっておいででして」

 王命婦は遠慮がちに、しかし綿々と訴えます。

「それに足元のお悪い中お見えになって、雨に少し濡れておいでのようで。このままお帰りいただくのはさすがにお気の毒かと存じまして……」

(そういえば、命婦の弟の良清はあの子に仕えていたのだったわね)

 女御は内心、ため息をつかれます。たとえ腹心の女房であってもそれぞれに係累がいて、女主人のためにばかり働くとは限らないのが世の常です。もうひとりの腹心である乳母子の弁の君は家人を指図して光の君の一行に応対するため、この場にはおりません。女御は仕方なく光の君を通すことにしました。


 短い訪問であることを示すため光の君は形だけ門外で車を降りましたが、車はそのまま屋敷の車宿りへと向かいます。供ぞろえを中門廊ちゅうもんろうのあたりに残して、光の君は藤壺女御のいる寝殿へと急ぎました。久しぶりに女御と対面できるのだと思うと胸も自ずと高鳴るというものです。

 寝殿へ向かう途中、東対ひがしのたい孫庇まごびさしに差しかかったところで、唐風の装束の女人が去って行く後ろ姿がふと光の君の目にとまりました。海商のもたらす舶来の品々も女御の乳母ともなれば手に入るのでしょう。


 光の君は真っ直ぐに寝殿の南のひさしへと通されました。南東の隅にある妻戸をくぐると、すぐに暖気が光の君を包みました。湿気がしみ通って少し重くなった唐織物の衣を乾かすために火桶に火がおこされています。赫いきの色や火桶にくべられた香のかおり。客人への心遣いが、外の肌寒さを忘れさせます。

 雨で薄暗いまま時刻はすでに夕暮れどきを迎え、高灯台には火をともしてありました。庇の間と女御のいる母屋の間は御簾で隔てられています。先帝の内親王で今上帝の妃というこの上もなく貴い方がおいでになるにはいささか手狭ですが、それでも今風に趣味良くしつらえてあります。

 藤壺女御は体の不調をおして起き上がり、なよやかに脇息にもたれかかりながら光の君に対面されます。透き通る玉のような美しさは病でもいささかも損なわれていません。


「お加減はどうですか、無理して起きていらっしゃるのでは。どうぞお楽になさってください」

 御簾の前に敷かれたしとねの上に腰を下ろした光の君は、ご無理をさせては本末転倒ですからと女御の体調を気遣う言葉を口にします。

「義母上が里下りされてから宮中は火が消えたように寂しくなりました。一日も早いご本復をお祈りしております。……主上もそう願っておいでです」

 御簾の向こうにいる藤壺女御の気配に光の君は目をこらします。

 女御は傍らに控えていた王命婦に耳打ちしました。命婦は御簾の端近にいざり寄り、お見舞いのお礼を女主人に代わって言上します。

「お見舞いかたじけのう存じます。幸いここ数日は――」

 が、光の君はそれをぴしりとさえぎりました。

「――あなたが答えても意味がないよ、命婦」

 光の君は焦れたように言います。

「義母上がどうなさっているのか御簾ごしじゃ全然わからないもの。せめてお声だけでもお聞ききしなければ」

 女御と王命婦は顔を見合わせました。光の君は女御に向かって訴えます。

「このまま宮中に戻ってもお具合について主上に何もお伝えできません。なんのためにお見舞いに伺ったのかと問われることにもなるでしょう。どうか一言だけでも、お声を聞かせていただけませんか」

 光の君は父帝のことを持ち出して訴えます。光の君のわがままや横紙破りに慣れている藤壺の女御は、ゆらゆらと重い髪をうっとうしげにかきあげました。

(相変わらずだこと。子どもの頃はそうやってねだるところも可愛かったけれど、元服後もそれが通じると思っているなんて本当に仕方のない子だわ)

 煩わしいやら可笑しいやらで、藤壺の女御は内心苦笑されました。一方の王命婦は、傍目にも分かるほど困惑しています。

(こうなることはわかっていたのに今さら何をうろたえているのかしらね)

 女御は衣擦れの音を立て、御簾の手前までおいでになりました。大きな声を出せないため、直に話すにはこうするしかないのです。

「声がかすれて聞き苦しいでしょうが、ご容赦くださいね」

「ああ――ようやくお声を聞けた」

 光の君はうっとりとした口調でつぶやきました。その眼差しのひたむきさ、熱さに女御にそこはかとない息苦しさを感じます。

「典薬寮の丹波・和気の両家の医官に命じ、本朝や高麗、唐土の薬石を集めて持ってまいりました」

「あなたのように孝養を尽くしてくれる息子がいて頼もしい限りです。義母ははとして嬉しいですよ」

 女御は滑らかにお応えになりました。脇に控えている王命婦は、光の君と女御のやりとりを少し離れたところから見守っています。

「これほど近くにおいでになるのですから人を介する必要はありますまい。この箱は直接、お渡ししましょう」

 光の君は脇に置いていた薬の箱を手に取り、御簾をわずかにからげました。藤壺女御も両手をのばして受け取ろうとされます。が――。


「その指は、どうなさったのです!」

 光の君は声をあげました。一瞬のことでしたが、決して見間違いなどではありません。袖からわずかにのぞいた藤壺女御の指先は、奇怪などす黒い色に染まっていました。

 女御はとっさに手を引っ込めると

「なんのことでしょう」

 とことさら平静を装ってお答えになりました。

 光の君は険しい顔つきになると御簾をはねのけました。そのまま女御の両手首をつかみ、逃れようとする女御を強引に高灯台のそばに引きずり寄せます。灯火に照らされた女御の手が指先から手の甲にかけて墨にひたしたような怪しい色に染まっているのが、はっきりとわかりました。見るからに禍々しいこの徴が、ただの病であるはずがありません。

「何をなさるのです、おやめくださいませ!」

 王命婦は声を上げましたが、光の君は聞く耳を持ちません。物の怪の仕業とも違う、それよりはるかに悪質なこれは……。

「――呪詛だったとは」

 光の君は吐き出すように言いました。女御は手を取られたままの姿勢で、光の君をきっと睨み、叱りつけます。

「離しなさい!」

「いやです」

 きっと歯を食いしばり、光の君は手に力を込めました。

「誰が貴女を苦しめているのですか。許せない」

「だからと言ってこんなことをしてもいいと? 落ち着きなさい」

「これが落ち着いていられますか」

「誰か、誰か……!」

 王命婦は半泣きで声を上げます。

 妻戸が勢いよく開き、この屋敷の主人の娘・女御の乳母子の弁の君が飛び込んできました。

「ああ、もう! 何しているのよ、命婦。光の中将様がお見えになったら、こうなることくらいわかっていたでしょう!」

 弁の君は袴を蹴立てて光の君に近づきました。

「宮様が手首を痛めたらどうされますの? お聞きになりたいことがあれば私からご説明いたします、宮様から手をお離しあそばせ、今すぐに」

 子どもの頃から女御のもとに出入りしていた光の君は、王命婦や弁の君といった女御に仕える古参の女房たちとは、もともと親しい間柄。年かさの弁の君が幼い光の君を叱ることもままありました。そういった関係は今でもどこか続いています。

 たとえ身分の上下はあっても、弁の君はこの屋敷の主人の娘。弁の君には屋敷の内を取り仕切る筋合いというものがあります。光の君は渋々藤壺女御から手を離しました。

「だけど、こればかりは義母上にお訊ねしなければ」

「……少しならいいでしょう。でも、宮さまのお加減が悪いことはご考慮くださいよ」

 女御は御簾の後ろに下がられ、王命婦が女御の座を手早く整えます。光の君は改めて弁の君のほうに向き直りました。

「――それで、いつからなんだ、弁?」

「宮中においでの頃はただご不快なばかりだったのですが」

 弁の君は声を一段低くしました。

「里下がりされてからでした。御指に奇妙な文字のようなものがあらわれたんです」

 日が経つにつれ、指には筆で重ね書きしたように黒い部分が増え、それとともに女御を蝕む呪詛は次第に指から手の甲まで広がっていきました。なんとか呪いの進行を止めようとひそかに寺で加持をさせ、加持僧を邸に招いて修法を行わせましたが一向に埒があかないのだと弁の君は深刻な表情で告げました。

「では、やはり……」

「決まっているじゃありませんか。右府かその周辺の仕業ですよ」

 弁の君も声をひそめます。右大臣やその娘である弘徽殿の女御は藤壺女御や光の君の政敵であり、事ある毎に火花を散らしています。この頃までには、右大臣一派との対立は既に洛中を二分する争いに発展していました。

「おやめなさい、証拠もないのに」

 藤壺女御が光の君と弁の君をたしなめます。

「呪詛は殺人に準じる大罪。証拠も揃わぬのに疑いをかければ、逆にこちらが誣告ぶこくをしたかどで処罰されかねないのですよ」

「だからといって、このままでは」

 光の君は悔しい気持ちを隠そうともせず、歯がみします。

「――主上にこのことは?」

「申し上げておりませんわ」

 確かに、女御が呪詛されていることが何らかの拍子に明るみに出ればたいへんな騒ぎになるでしょう。危うい均衡を保っている右大臣一派との勢力争いにもどんな波紋を投げかけるかわかりません。

「兵部卿の宮は? このことはご存じなのですか?」

「兄上に? あの人に話したところでどうにかなると思いまして?」

 女御の兵部卿の宮に対する評価は辛辣でした。実際、兵部卿の宮は面倒ごとの嫌いな事なかれ主義者で、妹である女御の後見にも今ひとつ身が入っていません。先帝の后腹で本来は帝位に近いはずの親王でありながら、日々を安逸に過ごすことしか考えず、誰からも帝に推されなかった兵部卿の宮のことです。女御のために手を尽くしてくれるとはとても思えません。

「――わかりました。証拠はこの中将が見つけます。必ず犯人を突き止め、呪詛を解いて義母上をお助けすると誓います、どうぞご安心ください」

 光の君は力強く請け合いました。ほっとした空気が女房たちの間に流れます。光の君は勢いよく立ち上がりました。藤壺女御は、ともすれば先走りそうな勢いの光の君をいましめます。

「無理はなりませんよ。おわかりですわね」

「義母上のための無理ならいくらでも、喜んで。頼ってくださっていいのです。ですが危ない橋は渡らないとお約束しましょう」

 光の君は微笑します。

(……童形の頃はあんなにふくふくして愛らしかったのに、すっかり公達然としてしまって)

 藤壺女御の思いは複雑でした。宮中の花とうたわれる光の君ですが、だからこそ女御にしてみれば元服前のように無条件に打ち解けた気持ちにはなれません。ですが、どうしてそう思うのか突きつめて考えるには女御は少し体が弱っておいででした。


「この時期の雨は花を養う雨と言いますが、冷えが忍び寄れば本調子でないお体にもさわるでしょう。このこととは別にくれぐれもお大事になさってください」

 そう言い置いて光の君は戻っていきました。りゅうとしたその姿を女房たちは期待を込めた眼差しで見送りました。光の君が女御に働いた狼藉はもちろん許されることではありませんが、女御の呪詛を解くと光の君が約束したことで、それまで塞いでいた女房たちの心はかなり軽くなっていました。

「光の中将様が動いてくださるならもう安心ですよ。本当に頼もしくなられて」

 弁の君は明るく言いました。女御は曖昧にうなずきます。光の君はかつては目に入れても痛くないほど可愛がっていた相手。このまま突き放してしまうのを惜しく思うぐらいには愛着も残っています。さらに、今のこの状況では光の君に頼らざるを得ないこともわかっています。それでも女御はなぜか胸騒ぎがしてならないのでした。

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