君主転生
新宮義騎
序
余は、森深いアキテーヌの砦で死の床にあった。付き添う者は皆涙し、とりわけ老母アリエノールは懸命に肩を揺すってくるが、傷を負ったのは我が身ゆえ如何ほど致命に達しているか誰よりもよく分かっている。
「陛下、これが陛下を弩で射た者でございます。仰せのとおりに捕らえて参りました。ただお言葉ではありますが、即刻処刑にせず御前に参らせよとは異な仰せ」
家臣は、余がこの敵兵を自ら誅するために呼び寄せたと思っているらしい。しかし余の意図するところは別にあった。
「黙っておれ。とにかくその者をもっと傍まで近寄らせよ」
寝台の上で横たわりながら顎をしゃくると、家臣は命令に従った。敵兵は取り押さえられながらも俯くことなく、詫びる素振りを僅かも見せずに顔を上げている。瞳も泉のように澄んでおり、些かの澱みもなかった。
「何ゆえに余を射たか」
「我が主、ひいてはフランス王フィリップ二世陛下の敵であるからにございます」
余の身体には、戦場で身につけていた外套が掛けられていた。それには赤い盾形に金色で獅子三頭の姿を象った刺繍が施されている。他ならぬイングランド王家の紋章であった。
「余はイングランド王のリチャードなるぞ。よもや敵味方入り乱れ、この三つ
「しかと目に入りましてございます」
「さもあればただで済まぬと知らぬわけではあるまい。そちは後悔しておらぬのか」
「陛下は私の父と兄を殺されました。私めが刑に処されるとしても、悔いはございません」
戦場のしきたりに倣い仇を討ったのでは、咎める由はどこにもない。敵であれ余を傷つけた者であれ、武勲を褒め称えてこそ騎士というものだ。
「放してやれ」
余は家臣たちに静かに、堂々と命じる。はじめ一同は訳が分からぬと見え、残る力で再び喉から声を押し上げた。
「この者の行いは、まことに天晴れである。よって罪を赦し、褒美を取らす。そなたたち、金貨十枚を渡し逃がしてやるがよい」
そう言いおえたところで、身体から否応なしに力が抜けた。いよいよ命が尽きたと見える。敵兵が部屋を出る間にも、頭にこれまでの記憶が走馬燈のように過ぎった。
余の一生は、実に波乱きわまるものであった。イングランド王ヘンリー二世の嫡子としてフランスに生まれ、アンジュー伯として大陸領土を拡大せんと数多の戦を絶え間なく続けた。父が没してからはイングランドの王位に就き、神の教えを曲げて広める異教徒どもを成敗すべく、十字軍の頭に立ち遠くサラセン((アラビア))の地にまで繰り出した。さらに異教徒ながら見事な猛将サラーフ・アッディーンと互いに武勇を認め合い、イングランドでも王位の簒奪を試みた愚弟ジョンの陰謀を阻んだ。その勇猛果敢な戦い振りは
しかし幾ばくかの気がかりは残る。まず一つは家臣の賛同を得て跡目に定めた甥であるアーサーの行く末であった。これは嫡子のない余の世継ぎとして、早くに弟ジェフリの子の中から選び抜いたのであるが、何といってもまだ若く一人の力で王位を守っていけるとは言い難い。即位は問題ないにしても、追放したとはいえ愚弟のジョンが生きているから心配の種は尽きぬ。
もう一つはフランス王のフィリップであり、この者とはかねがね結合したいと願っていた。むろん我らキリスト教徒の間では男同士の交わりは禁じられているため、表向きは妻を娶りつつ密かに意の通ずる者を呼び寄せてはせめてもの慰みとした。それでもあのフィリップだけは余が心まで捧げた一人であり、十字軍での遠征途上に同じ天幕で夜を過ごしながらも想いはついぞ叶わなかったのが悔やまれる。まぐわえばさぞ心地よかろうと思われるだけにのち仲違いをし、こうして互いに戦で刃を交える間柄のまま逝くとなると口惜しさが広がるのだ。
そうこうするうち最期の刻がやってきた。まず目が利かなくなり、次いで鼻のはたらきが消え失せ、余の様子がおかしいと気づいた家臣たちのざわめき声だけが頭に届くようになる。だがその声もやがて遠のき、ついには耳も聞こえなくなり意識さえも暗闇に落ちた。こうして余、ノルマンディー公、アキテーヌ公、メーヌ伯、アンジュー伯にしてイングランド王、獅子心のリチャードは息を引き取ったのである。
それから余は光の中にいた。リチャードとしての記憶は残っており、その生を終えたことも分かっている。死んだ後、魂は臨終直前の姿をとるものらしい。胴は黒い甲冑に覆われ、我が王国の紋章が縫いつけられた外套を羽織り、腰には剣を携えていた。ここが全能なる神のおわす天上への道であろうか。雲がひたすら立ち上り、どこからともなく陽が注ぐ。続いて遠くに門が見え、その前に一つの影が現れた。法衣を纏った男の形から察しはつくものの、念のために訊ねてみる。
「ここはどこか」
「審判の門だ。これからあんたは裁きを受け、死後の扱いが決められる」
「では、早く裁いてくれ。余は間違いなく天国行きであろう」
「ああ、後が
余は思わず耳を疑った。天国に行けぬとは何事か。
「何かの間違いではないのか、それとも他の者と取り違えているのではないか。余は」
「イングランド王、獅子心のリチャード」
この男は知った上で宣っている。稀に見る英傑にして王を、何のために神の傍に置かぬというのか。正しき教えのために戦った、忠実なる
「痴れ者が、そこをどけ。余は数々の武勲を挙げたリチャードなるぞ。騎士の中の騎士と讃えられ、曲がりなりにも十字軍に加わり、神の
辺り大声を響かせたにも関わらず、男はひとつも動じない。それどころかひどく馬鹿にした口振りで、いたぶり蔑み罵ってきた。
「あんたがデウスと崇める主も、あんたの言う異教徒が崇めるアッラーも、どちらも同じ全能なる神なのを知らないわけじゃないだろう。呼び名が違うだけで、どこも一つも違わない。十字軍がやったのは、身内同士の殺し合いだよ。挙げ句そこでも女子供を含めた捕虜三千人を皆殺し。まるっきり騎士道失格じゃないか。そもそも騎士云々の前に、戦を繰り返して抱え込んだ膨大な借金を
「正しき教えを曲げて取る異教徒を厳しく罰したのは、余が神を深く信仰する表れに他ならぬ。借金は領土拡大のため、国の繁栄を思えばこそだ。仮にその二つが過ちだったとしても、戦で領地は勝ち取ったぞ。愚弟のジョンの横暴を防いだ功もある」
「残念ながら、その愚弟のジョンが次の王だ。戦で負けに負け続け、大陸領土のほとんどをフランスに取られて国土喪失王の名まで頂戴する。おまけに全部がジョンのせいじゃない。誰かさんが戦に出向いてばかりで、国の財政を省みないツケを払わされたんだ。これまでジョンの即位を防いだのもあんたじゃなく、家臣たちのお陰だろうが。国の政治は放ったらかしで、生きてる間にイングランドにいたのも全部合わせてたった半年のくせに」
「有能な家臣を用いるのは当然だ。そちにとやかく言われる筋合はない。しかし次の王がジョンとは何ゆえだ。余所では叔父と甥が争いを繰り広げる中、世継ぎのない余は甥のアーサーを跡目にと定めたのに」
「あんたの母、アリエノールが寝返った」
「あのクソババア」
これでは、生涯をかけた幾つもの苦労がまったくの台無しではないか。深く信頼を置いていた実母の裏切りとなれば、なおいっそうの悔しさが広がる。つい先ほどまでの感謝を投げ捨てる間に、容赦ない追い打ちを喰らった。
「さらに言えば、甥を跡目に選んだのだって美談でも何でもない。男子に恵まれなかったんじゃなく、作ろうとさえしなかったじゃないか。あんたは男色だったんだろう」
捕虜の殺害、借金の踏み倒し、全能の主の教えに悖る男色。生前の功績を認められず、こうも過ちばかりを取り上げられたからには天国へ迎えられるとは思えぬ。せっかく聖人たちの列に加わり、神に仕える勇者の仲間入りができると信じて疑わずいたのに。審判の門の番を任されているこの男を前に、もはや隠し立てなど出来ようはずがなかった。虚勢を張って言い繕おうとも無駄であろう。余は半ば諦め、小さく弱く呟いた。
「では、地獄行きか」
「そうと決まった訳じゃない。まあ生前の行いを考えるとあんたを地獄送りにしても構わないんだが、万が一、地上に知れると私の聞こえが悪いんでね。どういう訳か
「だからといって、天国行きは叶わぬのだろう」
「そうだ。だからあんたに選ばせてやろう。自ら進んで地獄へ行くか、全能なる神の世界を去るか。私やあんたがいるこことは違う世界が、実は別のところにあるんだ。何でも死後の魂を裁くのはホトケで、リンネテンショウがどうとか……。ともかくそこでは死後の扱いがすぐには決まらず、多くの者は地上での生を繰り返すんだそうだ。私には信じられないが、魂が永遠の落ち着きを得るまで何度かやり直しが利くらしい」
唯一なる神が定めた地獄はいちど墜とされたら二度と這い上がれない。そこでどんなに恐ろしい目に遭わされるかは、教会の坊主どもから散々聞かされていた。余はこれまで信じてきた神の世界しか知らぬゆえ、かなりの不安はあるにせよ地獄行きから逃れられるのであればと迷いはなかった。
「決めた。余はその方の申す、別の世界へ行く。全能なる神の御許から去る」
「それなら時と場所の希望を言え。まずは地上に戻ってもらうが、あんたの獅子心王リチャードとしての功に照らせば、次にいつ、どこへ行くかくらいは選ばせてやろう」
もっとも、いつどこと訊かれてもすぐに答えるのは難しい。果たしてどうするか。
まずリチャードをやり直そうかと考えたが、またも愚弟のジョンを相手にするのは懲りごりだ。戦と男色の双方が許されるギリシアのスパルタにしても奴隷の生まれであれば自由は与えられず、負け戦に巻き込まれたら目も当てられない。その他に伝え聞く過去の国々の名が思い浮かぶも、どこも強い決め手に欠ける。
そうこう悩むうち、フランス王フィリップの顔がふと頭に浮かんだ。戦こそ騎士道や神の御名の下に存分に味わったものの、これぞと思う男との契りはついぞ果たせなかったのがリチャード一生の不覚ではなかったか。いくら他の者とも交わったとはいえ、教会の監視も厳しく満足できたとは言えぬ。むろんそのような理想郷が、
「余が次に行くのは、リチャードとして生きたより後の時代にも出来るか。それと、余が知らない土地にも出来るか」
「どちらも出来るぞ。あんたも信じているはずだ。唯一なる神のお力はまさしく全知全能。ここ審判の門に遣わされた私もその一部を行使出来る。その程度ならあちらと交渉してどうとでもなるだろう。ただし、どの身分の誰になるかまでは自由にさせてやれん。何しろ、別の世界へ行くのだからな」
是非もない。もう神の御許を離れるのだし、今さら恥も外聞もなかろう。余はリチャードであった頃には公の場で口にしたことのない言葉を発した。
「では人目を憚らず男色を味わえるところがいい」
「分かった。男色を愉しめる国に連れていってやる」
「本当か。いつの、どこだ」
「あんたたちがシーナ((中国))と呼ぶ土地の東に、海を隔てて小さな島国がある。四百年後のそこでなら、あんたは望みを叶えられるかも知れない。いいか」
イングランドやフランスから遠く東のシーナの、さらに東。そこに国があろうなどとは、耳にした覚えもない。それでも自ずと胸が高鳴る。今しがた嘘偽りのない希望を述べただけでも言いようのない喜びを感じたというのに、もし本懐を遂げたとなれば如何ほどの幸福に包まれるのであろうか。もうこんなところでじっとしてはいられぬ。気づいたときには、首を大きく縦に振っていた。
「頼む。すぐにでもそこへ送ってくれ」
「ではもう時間がない。あんたを今から、そこへ飛ばすぞ」
すると男の声が聞こえるが早いか、余の身体は後方へ吸い寄せられる。それまで視界に入っていた審判の門も、辺りの景色も遠のいていき瞬く間に見えなくなった。そして新たに地上での生を得たが、その生涯があまりに得難いものであったため密かに筆をとりここに記す。
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