その一 シーナの東の国に転生する

 初めて目に入ったのは、頭上に広がる天上の木目であった。以前であれば建物は石で出来ているのが当たり前であったから、それだけでかつて見知らぬ土地に身を置いていることが分かる。だが思うように身体が動かせないのだ。

 それというのも生まれ落ちて間もなくの身であり、産着に包まれたまま横に寝かされていたせいである。では並の者であればすぐに消え失せてしまう赤子の頃に見た光景を何故かようにも詳細に書き残せるかというと、おそらく特別に転生したためであろう、奇妙千万にも余の魂にかつての記憶がはっきりと刻まれていたからに他ならない。そう、余はこのとき身体こそ一人では何も為し得ぬ乳児でありながら、同時に己が過去にはリチャードであったという意識を留めていたのである。言うなれば前世の記憶を引き継いでいたのであり、したがって視界に入るもの全てが生まれて初めて目にするゆえに新鮮なのではなく、かつて目にした何もかもとあまりにもかけ離れているために奇妙に映った。

 たとえば余の顔を覗き込むなどして機嫌を取り、色々と世話をする者たちはおそらく大人であろうがどう見積もっても三、四インチは前世よりみな背が低い。肌も色は見慣れた白ではなく、かといってサラセン人のような褐色や異教徒が所有していた奴隷のような黒ともかけ離れた、うまく言い表せぬものの黄と白の中間のようであり、それでいて質感は男も女もおおむね滑らかで幾人かは絹のようにきめ細かい。しかし一方で髪の色はイングランド内外では茶に赤、金とあったのがここでは黒一色と華やかさに欠け、顔の造作も瞳を含め一つひとつの大きさが控え目で隆起が小さいのだ。

 これだけでもイングランドやフランスから遠く東方に離れた、見知らぬ土地に身を置いていることを自然に感じられるのは誰でも容易に想像できよう。だが戸惑ったのは人の姿だけではない。同様に衣服もまったく見慣れぬものばかりであった。前世は身分ごとに生地や装飾の違いこそあれおよそ身体の形にぴったりと合わせたチュニックにブルフが平服であったのに対し、ここではガウンやローブのようにやたらと前が開く布きれを帯で腹のあたりに巻き重ねて締めて着る。

 さらに家は屋根こそ瓦が葺かれこそすれ、柱や床は木で出来ており戸には紙も使われておるのだ。服も住まいもはじめは慣れず、なぜこんなにも不便なものを使っているのかと不思議がりつつ半年ばかり過ごすと合点がいった。イングランドやフランスでは年間を通じてそこそこ天候が安定していたのに対し、ここでは目まぐるしくしく気候が変わる。つまり夏は蒸し暑いかと思えば冬にはドイツのように寒く雪も降り、雨が降らない季節もあれば陸でありながらにして暴風雨もやってくるのだ。このような気候では石の家では暮らしづらく、年がら年中ぴったりとした服を着ていては動くのも億劫で仕方がなかろう。これらはなるほどうまい知恵だと、まだ赤子ながらに感心したものだ。

 ところが、そう幾つか驚きの声をあげようとしたところですぐ紛らわしい事態に気付いた。まだ歯が生えておらず思うように発音できぬゆえ即座の心配はないとはいえ、赤子などまともに口を利けぬのが普通であるから、以前のように喋り出したら不審を抱かれはせぬかと。しかも前世の記憶などないのが当たり前であって、余が用いていたノルマン・フランス語など口にしようものなら一大事になりかねず、だいいち誰も意を介せぬであろう。現に余の方でも耳に入る大人たちの喋る言葉は意が汲めなんだ。またこの国の言葉で転生した事情を説明したところで理解はされぬどころか、不審がられ放逐されるかも知れず、下手をすると見世物にされる恐れすらあった。したがって余は他の者と同じように何も知らぬ振りをして、言葉をはじめ一からこの国の諸々を学ぶことに決めた。

 かように余は一人の男児として、同時に密かに前世の記憶を保ちつつ育った。周りが小さい者だらけであったせいもあり、身の丈、身幅、膂力をリチャードであった頃に近づけるよう思いきり鍛錬に励んだ。また何食わぬ顔をして新たに生を受けた地上、言うなれば現世に馴染もうと努めたおかげで見慣れぬ文字も早く憶え、大人たちから気味悪がられるほど一目置かれるようになった。しかし何の偶然かここ東の果てにもおよそイングランド等で騎士に相当する武士なる身分があり、余が育てられたのはそうした家であったが、はじめ親だと思っていたその武士がどうやら余に傅いているようであるのだ。

 それを薄々感じながら日を過ごしていると六歳の時か、案の定、ものものしいいでたちの輩がやってきて、近くの城まで連れ出された。さらに武士の中でもとりわけ偉そうな奴が徳川頼房と名乗り、余は儂の息子であり世継ぎじゃ、これからは千代松と名乗れと言い出したのだ。そいつは水戸藩という領地を治める諸侯、この国でいう大名の一人だというから余は後々この地を治める君主の座に就くことになる。審判の門ではどの身分に生まれ変わるか分からぬと聞かされておったので、余は遠い東の地でもやはり君主の器であったかと再びまみえた巡り合わせに深い感慨を隠せなかった。

 しかも城から辺りを眺めると地勢は前世の都ロンドンとやや似ており、川と湿地に覆われた盆地でほど近くに海へ繰り出す港もある。いや水気がより多く城は人工の堀だけでなく天然の沼にも囲まれ、余がリチャードであったときイタリアのロンバルディアに築かれたと聞くマントヴァなる水城はこれに近いものであったかと頭に思い浮かべた。もっとも特徴ばかり近くともかなりの田舎で、領民や人の出入りはかなり少なく随分と寂しかったから、たとえ時代が異なろうと国王ではない地方のいち諸侯とは所詮この程度かと一度は軽く失望した。

 しかししばらくして水戸から離れ、この国、すなわち日の本の実質的な都に赴いたとき余はその考えを改めた。下々の者こそ木の家に住んでいたものの、そこが江戸という全国の大名が集う都の中の都であり、立派な商家や大名の屋敷は土塗りの壁で丈夫に造られ、色合いは地味ながらそこかしこに贅の凝らされた素晴らしい街であったからだ。しかも中心には白塗りの巨大な構えで太く高い櫓が何本も聳え立つ壮麗な城が築かれ、市中にはかつて古代ローマに存在し、前世においてはフランスのニームに残骸のみが残る水道まで巡らされておった。

 人口もロンドンは言うに及ばずパリなどよりも比べものにならぬほど多く、いかに四百年が経ったとはいえ、これほどまでに繁栄を極め見事に整えられた都は地上のどこを探しても他にないであろうといたく感心もした。同時に地方領主たる父の頼房はこの江戸から滅多に離れず、やがては余も同じように暮らすようになると聞いたときはどれほど楽しい暮らしができるのかと心躍ったよ。

 ただ、日を置かずして複雑な気分も味わった。父である頼房によってその江戸の中心にある城に連れられ、国内の諸侯を束ねる、将軍なるいわば日本国の王に水戸藩の世継ぎとなった挨拶を玉座で大仰にさせられた後のことだ。余はかねてから話を聞きたく思っていた、ある者を傍に呼び寄せた。その者は世の森羅万象に通じた林羅山という学者で、かつてあるキリスト教徒と地面の形について論争し、とはいってもそいつは訳の分からぬ異端者であったのであろうが、地面の形は球であるという妄言を見事に論破したという噂を耳にしておったのだ。

 そこで何気なく羅山にこの国の外はどうなっておるのか問うと一枚の地図を取り出したのだが、それを見た余は目を疑った。たしかに余の生まれ変わったこの国はシーナを越え、前世で生きた土地から遠い東の果てというのは間違いないにしても、かつての祖国イングランドの名はブリテン島にしか記されていなかったのである。さらに仔細を訊ねてみると、昔このリチャードが生涯をかけて拡大に努めた大陸領土はジョンの代に減った分を取り返すどころか今やすっかり失われてしまい、代わりに事実上ブリテン島全土を支配しているという答えが返ってきたではないか。父も祖父も欲しかったのは肥沃なフランスの土地であって、碌に麦も育たぬウェールズやスコットランドの蛮土ではなかったから嬉しさなどまったく湧いて来ぬ。とはいえ今さらどうにも出来ず、余はもはや狭い島国のいち諸侯の子息に過ぎぬから、人の賑わう江戸の楽しさを慰めとしつつ、せめて今度ばかりは内輪で揉め祖国を小国に貶めた愚は繰り返さぬよう肝に銘じて城を出た。

 ちなみにこのとき謁見した将軍は家光といい、後に余はそこから一字を取り名を改めた。その名は光国、姓は徳川、合わせて徳川光国という。

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