その五 ついに本願成就し君主を退く

 もっとも戦をせずとも頭を使うから、自ずと腹はひどく減った。政を行うのは他の諸侯と同じにしても、その質、量とも並以上であったため、前世とは違うこの国の料理ではなかなか舌が満足できなかったのだ。まずパンの代わりとなる主食の米が、フランスでピラフに用いた品種よりずっと水を含み重く粘つくのが困った。

 とはいえこれは何度も食す内に慣れたからまだよい。閉口したのは副食で、魚と根菜ばかりが並び肝心の肉がほとんどなく、それに誰も不満を申さず平気の顔で暮らしておるのが一番参った。余は日の本に暮らす多く者の背が低いのは、専らそのせいであるかと思ったよ。いや正確に言えば肉があるにはあるが鶏肉のみで脂が足りず、牛や豚は薬として売られており健康な者が口にすると何やら白い目で見られる。どうやらこの国では四足獣を食うのは禁忌とされ、武士はおろか民百姓に至るまで大多数がほぼ一年の全てを禁欲日として過ごしておるようなのだ。

 それでも好き放題に暴れていた頃は多少の不足もまだ持て余す若さで乗り切れたが、君主の座にありながら思うように力を出せぬのは不徳であり引いては民のためにならぬ。かといって百獣ももんじ屋から薬と称して肉を買い占め、それがために病の民が命を落としては本末転倒であろう。

 だから余は領内で牛や豚を囲い、家臣に育てさせることにした。日の本で育ったとはいえ家畜の肉はやはり懐かしく思え、さらにミルクも欲しくなり、趣は異なるものの同じく絞らせ届けさせた。もうこうなるとますますリチャードであった頃の食事が恋しくなり、パンは諦めるとしても酒にも自ずと拘りが生まれる。この国の酒は米を発酵させて造るので、魚には合うが肉との相性は今一つ足りぬ。やはり肉に合うのはワインであり、こればかりは造るのが難しいから今は遠くネーデルラント辺りの小国から取り寄せ、何百年か振りの味わいを喉に流し込んだりもした。

 余がここまで美食に拘るのはどうとも説明がつかぬが、生まれ変わってもなお前世の味を求めるからにはよほど魂が頑固に出来ているのであろう。それがどれほど貪欲なものであったかは、かつて終生フランスの領地に執着したことからも窺える。イングランドは土地が痩せているせいで碌な食べ物がないのに対し、大陸フランスは土壌が肥沃なおかげで食材に恵まれているうえ調理にも贅が凝らされていたのだ。余がなかなかイングランドに戻らなかったのは、何を隠そうまずい料理を口に入れたくなかったためでもある。また十字軍にてサラセンの地へ遠征した際も、野営地で当地の料理を楽しんだのをよく覚えている。

 したがって食欲はなお留まるところを知らず、せっかく近くにあるのだからとシーナの料理も愉しみたくなった。ところがこれが一筋縄ではいかず、皆この国の食い物が他のどこよりも上であり、中には我が領土のものが一番じゃと言って憚らぬ者さえ少なからずおる。たしかに日の本の食事はイングランドとは比べ物にならぬほど美味とはいえ、手を伸ばせば届く隣国の料理を舌にも載せて試さぬのは些か奢りも過ぎていよう。当然ながらシーナの料理を作れる者はなく、技を習おうにも師さえ見当たらなかった。ただし当地の者を呼び寄せれば話は違ってくる。

 折しもシーナでは大きな戦が起き、我ばかりは助からんと人々が日の本に逃げ込んでいる最中であり、現に幾人かの諸侯はそうした者を手元に置いたという噂も聞いた。しかしながら美食のために人ひとりを召し抱えるというのは、家臣はもちろん民にもどうにも聞こえが悪かろう。そこで余はかねてから勤勉の誉れが高かったので、儒学を究めたいと嘯いて朱舜水なる一人の学者を招くよう家臣に命じるや皆そろって面白いように騙されてな。思惑通りに連れてきて、本心を明かすと向こうも乗り気で教えにきおった。

 その料理も実に興味深く、前世で遠征途中に立ち寄ったシチリアで口にしたものと形が似ており、シーナ式の汁麺という名のパスタに餃子という名のラビオリがあった。これを余は非常に気に入って後々まで食すべく教えを乞い、物覚えの悪い料理人などに任せてはおけぬから自ら手習いをして身に着けたのだ。代わりに礼とばかりに余が饂飩を打って教えてやったりもしたよ。後すでに高齢であった舜水がそのまま余の領内で没すると、深い感謝の念を示さんがため祠を建てて祀った。家臣やその他の者は儒学の功績を称えたものと思い込んでいたが、自ら招き入れた余だけは真意を忘れておらぬ。舜水とて望郷の念はあったろうが、余に料理を享受する楽しみもあったろう。同時に余も美食を追求し、君主としての務めを果たすにあたって支えにできたのは大変満足している。

 かようにして誠に実りある時を過ごした余ではあったが、程なくして虚無感に襲われた。曖昧模糊としか言い表せないにせよ、どこかが確実に満たされておらず密かに胸の内に溜まるのだ。

 それが何かに気づいたのは齢五十六の頃、ある男に遭ったときのことだ。男の名は佐々介三郎といい、歳は四十過ぎ、色黒で骨格も無骨、顔も身体も見目の華やかさには欠けていながら、情事は理屈ではなく感性によるものらしく余は初めて会うなり一目惚れをしてしまった。いや正しくは内なる心のありようが外に滲み出ていたのを自ずと肌で感じ取ったのであろう、後で話を聞けばかつては僧であったが誤った仏道に疑念を持ち、寺を飛び出して還俗までした気骨溢れる益荒男だという。前にも述べたように余は仏ではなく八百万の神の教徒であったから、一段と気に入りすぐ意を通わせるようになった。

 そのため君主の力を用いて武士の身分を与え、史局に置くなど様々に気を引けば、介三郎も介三郎で段々と意を汲み事につけ近付いてくる。続いて相思相愛である旨を確かめたが、事が他の者に知れた場合、たとえ余が全うに介三郎に接していても後々出世するようなことがあればおそらく依怙贔屓と疑われよう。であるから人目を忍んで、時を選びある夜の褥に招き入れては思う存分にまぐわったのだ。

 介三郎は決して若くなかったものの、鋼のように鍛えられた身体で獣のように求めて来、愛撫も魂を晒け出すかのように荒々しく激しく、汗を飛ばし息にも熱を込めてきよる。さらに介三郎の逸物は飛び抜けて大きく長さは七寸、差し渡しも二寸を優に超え、熱く脈打ち余の腹の底まで硬く深く抉ってきおって、身の奥深くに想いの丈を放たれたときはまさしく幸福の絶頂に達したものだ。その快さたるや陰間茶屋で稚児を抱いたときとは比べものにならず、文に書き表すことなど到底できぬ。ただひとつ惜しむらくは介三郎は菊門の具合が極端に悪く、攻めるばかりで受けはまったく出来ずに少しばかりの物足りなさを感じたくらいである。

 とはいえ情ごと交わったのは生まれ変わってから初めてであり、前世を含めてなお過去の記憶にない無上の悦びが生まれたのは確かだ。介三郎の身分は史局務めに留めつつも、何かにかこつけて傍に呼び寄せて狂ったように交わる日々はまったくもって夢のようであり、余はその嬉しさのあまり名を変えたほどである。すなわちこれまで名を「光国」と記していたが、「国」には男の金玉を指す玉の字が入っており、再び男色に目覚めたとはいえ情態を正しく表しているとは少々言えまい。むろん陰嚢に玉もあるにはあるがそればかりを表に出してはならず、むしろ介三郎の攻めを受ける交合の図式こそを正しく示すべしと考えた。すなわち尻穴を広げ摩羅をぶら下げたような「圀」の字を採り入れ、名を「光圀」と改めたのだ。

 そうして飽きもせず介三郎と交わり続ける内に、政への熱は見る間に冷めてしまった。おそらく君主の責務に打ち込んだのも、本来は男色へ向ける熱情の代わりに過ぎなかったのであろう。きっかけが食欲を満たした後には情欲も満たしたくなるという人の常なる性であり、その動機も元を辿れば政をより確固に執り行わんとする真摯な気概であったとは何とも因果な話ではないか。多分に余は現世に降り立って後、道半ばで何をしようと最後には男色へ行き着くよう定められていたに違いない。

 ちょうど兄の頼重とはそれぞれ実子を家に贈り合い、今では余の跡継ぎとなった養子であり、同時に血縁上は甥である綱條も藩主の座に就くに相応しい歳になった。やや悔やまれるのは余があまりに史局に力を入れたのと、美食を追求しすぎたため前世と同様に財政を傾けてしまったくらいであるが、優れた綱條のこと、きっとうまく立ち回ってくれるであろう。君主として前世で為し得なかった多くを為し得、周りからも名君と認められたらしく、藩主を退いたとき餞別とばかりに権中納言、通称にして黄門侍郎の職も授かった。かくして余はひとまず隠居し、悠々自適の暮らしを始めたのである。

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