その六 将軍を相手に喧嘩を売る
さて政から身を退いた余であったが力は衰えを知らず、むしろ再び男色の愉しみを得てより一層の生気が漲るようにさえなった。つまり君主の座にあったときと同様、真っ当な理由抜きに行く手を阻む者へは容赦なく、誰であろうと正論をもって相対してやる流儀に変わりはない。たとえそれが日の本の王たる将軍が相手であってもだ。
このようなことを記すのは、まさにその将軍が余に盾突いてきたからに他ならぬ。こいつは家光の息子であり綱吉という、かつて将軍職を継ぐときに水戸徳川家の名において推挙してやった、言わば互いに知らぬ仲ではないどころか余に借りのある奴であった。ところがあるとき生類憐れみの令なる、人のみならず動物その他の一切の殺生を慎めとの法令を何の相談もなしに下してきおったのだ。
これは言うまでもなく肉を口にするには家畜なり野性の獣なりを殺さねばならず、美食を真っ向から妨げる前代未聞の悪法であって、余が常日頃から牛、豚、羊と様々な肉を食していたことは存分に承知の筈であるから、途轍もない恩知らずの所業と言えよう。そもそも前世では森林法なる強力無比の法があり、これは王や諸侯の領する森林には他のどの者も手出しは出来ず、違反者は厳罰をもって処せる決まりがあった。また日の本でも領国内の治世は口出し無用、狩りも武芸の嗜みの一つに違いなく、余も武人として例に漏れずたびたび鷹狩りに興じていたのをよもや知らぬわけではあるまい。しかしながら生類云々の令は各藩の統治権をも明らかに侵犯しており、甘んじて受け入れられるものでは断じてなかろう。
にも関わらず幾人かの愚昧な諸侯は、この法令に盲従するあまり家臣を不当に罰したばかりか、本来は世の中心にあるべき人を蔑ろにしてどこの馬の骨とも分からぬ犬畜生を後生大事に育てたとも聞くではないか。そして綱吉の奴といえば犬の世話のため莫大な費用を投じ、自らの発した悪法によって家臣や民が苦しむのも省みず、なお法の徹底を強いたときにはむかっ腹が立ってな。
そこで余は相変わらずに肉食を続け、飼い慣らされておらぬ犬は所構わず成敗するなどしてかの愚行を暗に諫めた。それでも一向に改まらぬとなると、物申すべく
というのも綱吉の奴は背丈が余よりも一尺は低いチビ野郎であり、間違って戦に出ようものなら真っ先に捻り潰されそうな貧弱な小僧であったうえ、まだ若いというのにまったく覇気のない面をしておったため、かつて
ところが一度終わったかに見えたこの件は後々まで尾を引き、思わぬ形で別の出来事へ繋がった。
その頃の余は綱吉の奴に気を取られ、また暇を見つけては介三郎と懇ろに過ごす間に藩の政から目を離してしまった。くわえて家臣たちが二つの派閥に分かれて相争う、まずいときに藩主の座を降りてしまい不吉の兆しに勘付けなんだ。跡目の綱條は余が育て上げたとはいえ、平穏の時代に移り変わっていたせいもあり武人よりも文人としての色が濃い。すなわち論をもって家臣を諭すのには長けている一方、力でねじ伏せるのは苦手ときており、そこへ来て藩内に不穏の空気が漂いつつあったから、不届者が幅を利かせて
中でも最もけしからぬ奴が思いも寄らず、この光圀が器量を見いだしたはずの藤井紋太夫であり、当時は従順さゆえに小姓から順々に大番頭にまで引き上げてやったものの、綱條の代になり宰相たる大老職に就くやいつしか役の威光を笠に着るなどひどい専横が目立つようになっておった。はじめはこれ以上は新しい藩主に任せようと様子を見ておったが、年長の紋太夫を相手に強く出られぬ綱條から相談を受け、いち家臣が何故にこうも反抗を続けるのか、また紋太夫の変貌ぶりはこれ面妖至極と思い、かつて余が配下とした密偵の小八兵衛を遣り調べさせたところ驚くべき事実が明らかになったのである。
それによると紋太夫は藩内で中心勢力を得ようとしているのではなく、むしろ幕府の密命に従う走狗に過ぎず、黒幕は将軍綱吉の懐刀にして老中格にある
言うまでもなくこうした場合に綱條が片を付けられれば文句はないのだが、紋太夫を出世させたのには大きな責めがあるうえ、意を通じ合わせた仲間うちで快楽を得るのは当人たちの勝手としても、権力を盾に
とはいえまずは穏やかに事を済ませようと紋太夫を呼びつけ一対一で対面し、陰謀は全てこの手に握っておる、過ちを認めれば赦すから余の許に戻って参れ、あの頃の忠節を取り戻してくれとどうにか口で諫めようとした。ところが紋太夫は隠居した身が何を言うか、老いぼれは山奥に引っ込めと申し、次には綱條など気弱の能無しであり、己に従っておればよいとまで宣った。まあ余は政から退いた身からしていかように
その時の手筈はこうだ。江戸小石川で能を披露する機会があり、藩の一行が舞台作りに専念する中、余はそれとなく混じって紋太夫を始末する算段をつけておった。するとちょうど人を隠すのに都合のよい屏風があったので、なるべく奥が見えぬように位置や立て方を試行錯誤したのち事を起こす場を決めた。
そして紋太夫が腹を満たしたところで必ずその場を通るように呼びつけ、隙だらけの身体を屏風の奥に掻っ攫ってねじ伏せ、右の膝で胴を押さえ左の膝で口を塞ぎ、声を出せぬようにしてから刀を逆手に渾身の力をもって両の胸を左右それぞれ突き刺してやった。紋太夫の奴は余よりも歳が下であったにも関わらず、奸計を巡らせるあまり身体の鍛錬を怠っておったせいで幾らかの足掻きも妨げにすらならなかったと言ってよい。なおかつ流血を抑える仕手で息の根を止めてやったため、ほとんどの者はいつ誰が仕留めたかは分からなかったはずだ。次いで本来であれば黙って場を立ち去り、下手人知れずのまま事を終わらせるところでわざと家臣を呼び、これは余の仕業である、不埒な家臣を成敗仕った、しかし衆目を怖がらせてはならぬから能の舞いは代役を立てよと申しつけて屋敷に戻った。
それから華やかな能が繰り広げられている内に人知れず紋太夫を仕留めた刀とその遺髪を出羽守に送り、二度とかような真似が出来ぬよう脅しつけてついに一件落着となった。なお隠居した身でありながら奸臣を謀戮した見事さ、鮮やかな手口は立ちどころに人口に広まったというから、余の評判は君主であった頃にも増して高まったことであろう。
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