瞳の中の地球

深水えいな

第1話

 一人娘のソラが、踊るような足取りでこちらへ駆けてくる。


「ママ、お花の絵、描いたよ」


 スケッチブックに描かれていたのは、黄色い小さなお花の絵だった。


「まあ、すごい、上手ね」


 私は素直に褒めた。


 ソラの描く絵は、いつも他の子とは違う独特の色使いをしている。


 きっとこの子は色彩感覚が他の人よりも豊かなのだろう。


 まだ幼稚園の年中だけど、きっとこの子には芸術の才能があるに違いない。


 私は無邪気に娘の才能を喜んだ。


 ――まさかこれが障害だなんて、この頃は思いもせずに。


 小学校に上がり、黒板の文字が見えにくいとソラが訴えた時も、私はただの近視だろうとのんびり構えていた。


 だけど眼科での検査で判明したのは、近視ではなく色覚異常だった。


「お絵描きをする時に、娘さんはこういう感じで色を塗りませんか?」


 医師が見せてくれた本を見て、私は頭を殴られたかのような衝撃をうけた。


 娘と同じような色彩で描かれた絵たちがずらりと並んでいたからだ。


 なんのことはない、私が色彩感覚が豊かで芸術の才能があると信じこんでいた娘の色使いは、実は障害によるものだったのだ。


「そう落ち込むことはありませんよ」


 医師は話す。


「色覚異常の患者は、程度の差はありますが、二十人に一人と言われています。そう珍しいものでもないんですよ」


「そうなんですか」


 世の中にそんなに多くの色覚異常の人がいるだなんて、考えたこともなかった。


「将来、いくつかの職業にはつけないですが、困るのはそれぐらいです。学校の先生にも話して、なるべく配慮してもらいましょう。今は障害にも理解がある学校が増えましたから、大丈夫ですよ」


「はい」


 医者の励ましに、虚ろな返事をして病院を出る。


 大したことはないのだと思いこみたかった。


 だけれど、我が子に障害があるというのに、大丈夫なわけがあるだろうか。


 深いため息が心の奥から漏れる。


 これから学校の先生に話して色々と配慮してもらわなきゃいけない。


 娘が学校で馬鹿にされたり、虐められたりしたらどうしよう。


「やっぱり色覚異常だったのか」


 帰宅したばかりの夫が、ネクタイをゆるめながら脳天気に言う。


「やっぱりって、気づいてたの?」


「そりゃあ、あんな絵を見せられちゃね」


 夫が指さしたのは、ソラが描いた花の絵だ。


「色の選び方も変だし、明暗もちぐはぐだろ」


 夫の言葉に言葉を失う。そんなに早くから気づいていたのなら、もっと早く言ってくれれば良かったのに。


 せめて小学校に入学する前に分かっていたら、入学する時に色々説明できたし、配慮して貰えたのに。


 そこまで考えて頭を振る。


 いや、気づくべきだったのは私だ。

 娘を誰よりも近くから見ていた私が、もっと早く気づくべきだったのに。


 後悔と悔しさが、胸をゆっくりと押し潰していく。


「ところでさっきから何書いてるの?」


 夫が無遠慮に手元をのぞきこみ、私はハッと我に返った。


「ああ、これは学校に配慮してもらわなきゃいけない事をリストアップして書いてるの。お医者さんがそうしたほうがいいって」


「あのなあ」


 夫は呆れたように肩をすくめる。


「社会に出たら、配慮なんてしてもらえないことのほうが多いんだぜ。そんな風にに甘やかすとよけいに苦労するんじゃないか?」


 甘やかすって、何?


 ソラには、色覚異常のせいでつけない職業も多い。


 だからせめて、ストレスの無いように勉強をさせてあげたい。少しでも支障なく勉強してもらって、将来の選択肢を増やしてあげたい。それが甘やかしなのだろうか。


 そう思ったけど、私は「そうね」とだけ言って紙をしまった。


 私の精神はすでに疲れ切っていて、もはや反論する気力すら無かった。



「色覚異常ねえ。なにせ我が校では初めてのケースで」


 あくる日の放課後、私が事情を説明しに学校に行くと、担任は困ったように眉間に皺を寄せた。


「まあ、障害ということであれば、文字の色なんかは考慮しますが、他の子と違うソフトを使うなんていうのはちょっと。他の児童が不公平だと感じることもあるでしょうし」


「そう、ですか」


 ギシギシと軋む古いパイプ椅子は妙に居心地が悪い。


 私はとりあえず注意事項をまとめた紙を手渡し、教室を出た。


 担任のあの困惑した顔。


 まるでこちらがやっかいなクレーマーだとでも言わんばかりだった。


「ママ、どうしたの」


 ソラがこちらを心配そうに見上げる。


「ううん、何でもない。帰ろっか」


 私は精一杯の笑顔を作ると、ソラの手を握った。


「帰りはスーパーに寄っていい? お土産にソラの好きなシュークリームでも買って帰りましょう」


「うん」


 二人で近くのスーパーへと向かう。


 買い物を終え、スーパーの出口のところにさしかかった時、ふと私は、いつもスポ少のメンバー募集や迷い猫のポスターが貼られている掲示板に、奇妙な絵のポスターが貼られていることに気づいた。


「地球の子どもたち展?」


 心臓が小さく音を立てる。


 近所の小さな美術館で展示されているというその絵は、ソラの描く絵にそっくりだった。


「ママ」


 ソラが私の手を強く引っ張る。


「私、これが見たい」



 美術館は平日ということもあり、中はガランとしていて人はあまりいなかった。


 私もソラも絵は好きだけど、普段あまりこういう所には来たことがない。


 落ち着かない気持ちで辺りを見回していると、「神木」というネームプレートをぶら下げた男性が、奇妙な眼鏡を私に手渡してきた。


「これをどうぞ」


「これは?」


「紫外線をカットする眼鏡ですよ。今回の展示では、見ていただく方に地球の人類を体験してもらうべく、これをかけてもらうことになっているんです」


「ああ、そうなの」


 私は眼鏡を一つだけ受け取った。


「でも、この子には必要ありません。この子は――」


 私が言う前に、受付の男性――神木さんは「ああ」と声を上げ、ソラの前にしゃがみ込んだ。


「君も地球の子どもなんだね?」


「地球の子ども?」


 ソラは困惑した表情をうかべた。


 神木さんはその問いには答えず、私とソラを、地球の絵が描かれた巨大なパネルの前に案内してくれた。


「はるか昔、人類が地球を捨て、数億光年離れたこの星に移住してきた当初は、人類はまだ紫外線を見ることができませんでした」


「紫外線?」


 ソラが首をかしげる。


「光の四原色のうちの一つだよ」


 神木さんがパネルを指さし説明してくれる。


 神木さんによると、元々地球に住んでいた人類は、色を識別する目の錐体細胞が私たちより少なく、紫外線を見ることができなかったのだという。


「当事、紫外線は鳥や虫といった限られた生物しか見ることができず、人間をふくむ哺乳類は紫外線を見ることができないのが普通だったんです」


「そうなんですか。じゃあどうしてこの星で生まれた人たちは紫外線が見えるようになったんですか?」


 私の問いに、神木さんが優しく答えてくれる。


「その理由には諸説あるみたいですが――」


 神木さんの説明によると、ある時、突然変異で紫外線が見える人類がたまたま生まれたのだろうという。


 紫外線は有害だから、紫外線が見えるほうが生存競争には有利。


 だから紫外線の見える人類はより多く生き残り、今では多数派になったのかもしれない、ということだった。


「そうなんですね。人体って不思議」


「ええ。でもまれに、先祖返りを起こして紫外線を感知できない人間も産まれるんです」


 神木さんは地球の絵に手をそっとかざすと、ソラのほうへ微笑みかけた。


「――僕やお嬢ちゃんのようにね。我々はそういう人たちを『地球の子どもたち』と呼んでいます。地球の色彩を受け継ぐ人類だからです」


 私たちは、神木さんに案内されるがまま、次々と展示を見ていった。


「見てください」


 透明なケースの中には、モンシロチョウの標本が展示されていた。


 理科の授業で、モンシロチョウのオスの羽はメスよりも多くの紫外線を吸収するため、より濃く暗い色をしていると教えられた。


「でも、地球の子どもたちにはモンシロチョウはこう見えているんです」


 神木さんに言われるがまま、紫外線カットの眼鏡をかける。モンシロチョウはオスもメスも区別なく真っ白だった。


 次に展示されたタンポポを見る。


 私たちの目には、タンポポの花びらの中心部は、紫外線を吸収し赤や紫色っぽく見える。これは花粉を運ぶ虫に蜜のありかを教えるためだ。


 だけど眼鏡をかけると、全体が淡い黄色に見えた。


「こんな風に見えていたの」


 ソラが描いた花の絵を思い出す。


 現実とは違う、おかしな色使いだと思っていたけど――。


 ソラには、花が、世界が、本当にこんな風に見えていたんだ。


「ソラは、こんなに綺麗な世界に生きていたのね」


 ソラは小さくうなずいた。


 地球の色彩は、私が想像したよりもずっと美しかった。



 展覧会を見終えると、私たちは手を繋ぎ、並んで帰った。


「展覧会、楽しかったね」


「うん」


 ソラは嬉しそうにうなずく。


「ソラには、世界があんな風に見えていたんだね。あんな風に綺麗にお花が見えていたんだね」


 幼いころから絵に没頭していたソラの姿を思い出す。


「だから、ソラは絵を描くのが好きだったんだね」


 だけど私の言葉に、ソラは首を横に振った。


「ううん」


「違うの?」


「違うよ」


 ソラは拗ねたように口をとがらせる。


「お母さん、小さい時に褒めてくれたでしょ。私が描いたお花の絵を綺麗ねって、才能があるのねって。だから私、絵が好きになったの」


 その瞬間、私はなぜだか胸が締め付けられて、大人なのに、子供みたいに泣きそうになってしまった。


「……そうなの」


 私はぎゅっとソラの手を握りしめる。小さいけれど、確かな温もりがそこにはあった。


 大きな夕日が、光を放ちながらゆっくりと惑星の端へと沈んでいく。


 大丈夫。私の子供は、こんなにも美しく、光り輝く世界に生きている。


 この美しい色彩の世界で、私とソラは生きていく。


[完]

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