3-34 月読命

 思い返せば、飛龍フェイロン根城ねじろの周辺は、建物の荒廃が酷かった。それゆえに足を運ぶ住人たちが限定されて、隠れ家として成り立っていたのだろう。『雹華ヒョウカ』よりも奥まった区域の廃ビルは、もっと崩落が進んでいた。あの瓦礫の海を攻略するのは、至難のわざに違いない。無謀にも踏み込んだ者だけが、本来の神域にたどり着けるのだ。

 欠けを知らない満月が、見上げた夜空の闇色を、深い藍色に染めている。今も『雹華ヒョウカ』の存在を知らないさかきとヒロがいる手前、飛龍フェイロンの名前は出せないので、代わりに「梯子はしごがあれば、ここから地上に行けるんじゃないですか?」と零一が思いつきで提案すると、「やめとけ」とエイジに渋面で釘を刺された。

「地下にこれだけの空洞があるんだ。モンスターの被害で地盤もやられてるだろうから、探索中に足場が崩れても不思議じゃない。そのときは、この水晶で串刺しだ。怪我のリスクを負ってまで、この真上を目指す価値があるとは思えんな」

「そうでしょうか。私は、とても気になりますけど」

 さかきが、この話題に乗ってきた。さっきのヒロのように弾んだ声音から、知的好奇心を刺激されたのだとすぐに分かった。

「〝神様〟のお墓参りが終わったら、この真上に上がれないか、皆さんで知恵を絞ってみませんか? 何か新しい発見があるかもしれませんよ。――例えば、誰かが隠れ住んでいるとか。〝常夜〟には、二年前に蒸発した方もいらっしゃいますから」

 ――〝神様〟の『草壁衛くさかべまもる』が、生きて〝常夜〟に潜伏している? 人知れず廃墟に身を隠す男の姿が脳裏に浮かび、超常の存在に対する畏怖いふとは異なる不気味さが、零一の背筋を冷たくした。だが、ミキが「はいはい」とはすな口調で続けた言葉が、榊の推測によって齎された悪寒を蹴散らしてくれた。

「〝常夜〟滞在歴が七年の私は、この真上のエリアを覚えているわよ。神社跡地の周辺は、枯れかけた鎮守の森と、その森を囲む雑居ビルがあったけれど、管理していた住人たちは、すでに〝常夜〟から消えた人たちよ。食料を始めとした仕入れの機能は使い物にならないし、電気と水道も同じよ。『草壁衛くさかべまもる』が生きていたとしても、このエリアを潜伏場所に選ぶのは、あまり現実的じゃないわね」

「それなら、なおさら絶好の隠れ場所では? でも、食料を外部から調達する必要があるのなら、定期的に市街地まで出てこなくてはなりませんね。人目に触れるリスクが生じますから、ミキさんの主張も納得できます」

「あんたねえ、いくら失踪して〝常夜〟が荒廃する原因になったかもしれない男が相手でも、〝神様〟の座を引き継いでしまった住人のことを、空腹で人里を荒らす熊やたぬきみたいに語るのはどうなのよ?」

「そんなつもりでは……この真上には何もないと、どうして言い切れるんですか? ミキさんには、何か確証がおありなんですか?」

 熊や狸と批評されたことがショックなのか、榊が少し恥ずかしそうな早口で言い返した。「まあね」と答えたミキは、にやりと笑った。

「エイジさんが、一度だけ梯子はしごを使って上に行って、誰もいないことを確かめてくれたのよ。さっき自分でも言った通り、かなり危険な場所なのにねえ。それでも他の住人に害をなす存在が隠れ住んでいないか、ちゃんと調べてくれたのよ。まあ、他にも目的があったみたいだけど?」

「ミキ。余計なことをバラすな」

 エイジが、憮然ぶぜんとした口調で言った。榊は眉を顰めて「他の目的とは?」と訊ねたが、エイジは「個人的な野暮用だ」と吐き捨てるだけで取り合わない。普段よりもぶっきらぼうな声を受けた榊は、珍しく素直な困惑を顔に出している。ミキは苦笑すると、榊と同じく戸惑っていた零一に顔を向けた。

「余計なことついでに補足の説明をすると、この先にある〝神様〟のお墓の場所は、神社の拝殿はいでん跡地よ。その場所は、ちょうど〝常夜〟の中心に位置するわね」

「えっ? そうなんですか?」

「ぴったり計測したわけじゃないから、大体だけどね。お墓がど真ん中にある世界ってどうなのよって、なんだか呆れちゃうわよねえ」

 言葉通りの呆れ笑いを浮かべるミキに、榊がすかさず「その符号には、何か意味があるのでしょうか」と問いかけた。〝神様〟の特権についてはまだ訊けなくとも、可能な限り情報を集めようとしているのだろう。零一としても、一つでも多くのことを知りたい気持ちは同じだ。――六〇二号室で、たった一人で待つエリカのために。

「さあね」と答えたミキは、質問を予期していたのだろう。この件については隠し立てする気はないようで、榊の質問に応じていた。

「〝常夜〟には〝神様〟の役割を担う住人がいることは、〝常夜会議〟で説明した通りよ。そんな〝常夜〟の歴史については、一つ興味深い言い伝えがあるわ。ここに存在する神社跡地は、〝常夜〟の初代〝神様〟が、この世界に与えた最初の影響だそうよ」

「初代の……〝神様〟?」

 零一は、驚いて復唱した。榊にとっても予想外な打ち明け話だったのか、切れ長の目を瞠っている。ミキは試すような口調で「これも全て口伝くでんで知ったことだから、信じるか信じないかは任せるわよ?」と前置きして、〝常夜〟の歴史をひもといていった。

「〝常夜〟の住人たちは、あなたたちも知っての通り、〝現実〟に所縁ゆかりがあるものを連れてくるわ。エイジさんは純喫茶跡地『最果てにて』を、ユアちゃんとアユちゃんはラジオ局を、そして榊さん、あんたは輸入食品メインの店を、というふうにね」

 例を挙げていったミキは、零一が〝常夜〟に与えた影響については触れなかった。零一が呼び寄せた隕石が、〝常夜〟を毎晩傷つけていることに対して、ミキなりに気遣ってくれたのだろうか。榊はもの言いたげな目をしたが、静かに話を聴いていた。

「〝常夜〟に影響を与えるのは、住人だけでなく〝神様〟も同じよ。〝常夜〟を治めた原初の〝神様〟――この世界を存続させるための炎を生み出した存在であり、神々の聖火のトップランナーは、ここに神社を生み出したの。それが〝常夜〟という世界の成り立ちよ。御祭神ごさいじんは、月読命つくよみのみことだと聞いているわ」

「つくよみのみこと?」

 榊と零一は、ほとんど同時に訊き返した。ミキが「ええ。一般的には『つくよみ』と読むけど、神社では『つきよみ』と呼ぶみたいね」と打てば響くように答えると、沈黙を守っていたヒロが、ミキの足にじゃれついた。

「ミキねえさん。『ごさいじん』って、なあに?」

「ああ、神社に祀られている神様のことよ」

「んー……? じゃあ〝常夜〟には、神様が二人いるの?」

「確かに、そういうことになるわねえ。でもね、神様が二人いたとしても、それは不思議なことじゃないのよ。私たちが暮らしていた〝現実〟の日本でも、岩に、森に、山に、自然に、八百万やおよろずの神様がいるって考えられてきたんだから」

「やおよろず?」

「数がとっても多い、という意味よ。今回の場合は、まつられているほうが〝現実〟の神様で、そんな神様にとって居心地のいい神社を用意したのが〝常夜〟の〝神様〟というところね。ちなみに、神様は、一人、二人とは数えなくて、一はしら、二柱、と数えるけど、〝常夜〟の〝神様〟は元住人だし、一人、二人の数え方でいいと思うわ」

「ふうん? 難しいねえ」

「難しいわよねえ。分かることを、ゆっくり増やしていけばいいのよ」

 ミキとヒロが長閑な問答を続けていると、榊が「待ってください」と言って割り込んだ。緊張の面持ちで、ミキに一歩詰め寄っている。

「ミキさんは、この神社跡地の名前をご存知ですか? 宮司ぐうじを務めた方のお名前も。この際、口伝くでんでも構いません。この神社跡地の出現が、初代〝神様〟の影響によるものなら、名前から〝現実〟に繋がるヒントを得られるかもしれません」

「神社の名前はともかく、神主さんの名字なら伝わっているわ。日下部くさかべさんという方らしいわよ」

「くさかべ……『くさかべ』ですって?」

「びっくりしたでしょ? でも、これはただの偶然よ。漢字も、日差しの日に、上下の下、部活の部で、日下部くさかべだもの。蒸発した『草壁衛くさかべまもる』とは関係ないわ」

「ミキ。そろそろ進むぞ。このペースだと、帰りが遅くなる」

 エイジが、おもむろに口を挟んだ。腰袋に工具をぶら下げた後ろ姿は、すでに神域に足を踏み入れている。榊は口を開きかけたが、ひとまず新しい情報を得られて満足したのか、水晶と鳥居が雑多に入り乱れる道を進み始めた。

 ヒロが「僕も!」と言って月明かりの下へ飛び出したので、零一も「走るな、危ないだろ」と制止して追いかけようとしたが、隣でミキが静々と一揖いちゆうした姿を見て、神社の参拝作法を思い出した。零一も呼吸を整えてから一礼して、斜めに傾いた鳥居をくぐる。尖った水晶が衣服を掠めないよう気をつけながら、横倒しになって砕けた丹色にいろのハードルをまたいだ。曲がりなりにも神域の参道を、こんなふうにしか歩けないことが、神社跡地に祀られている神様に対して申し訳なかった。

 それに――二人の『くさかべ』という〝神様〟のことも、気になった。

 名字の一致は、きっとミキが言うように偶然だろう。ありふれた名字を持つ他人同士は、〝現実〟にも数多く存在する。だが、そんな偶然を墓参りの道中で知ったことに、運命を感じずにはいられなかった。

「零一君、考え事をしてたら転ぶわよー」

「は、はい。……ミキさん。この辺りって、水晶とか鳥居の瓦礫とかで、荒れてますけど……見た目よりは歩きやすいっていうか、誰かが手入れしてくれた感じがします。もしかして、また宇佐美うさみさんが……?」

「あら、気づいたのね。そうよ、先に来た宇佐美さんが、通行の邪魔になる落石を片付けてくれたみたいね。散らかったままでも、私たちでどうにかしたのにね。でも、とても助かるわ」

「はい。最近お会いできてませんし……墓地で会ったら、お礼を伝えたいです」

「ええ。……そうね。宇佐美さんも、零一君たちに会いたがってるわよ」

 台詞せりふに、既視感を覚えた。確かエイジも、以前に似たようなことを言っていた気がする。ミキが明るく笑って「ほら、また考え事してる」とからかってきたので、零一も曖昧な苦笑を返したときだった。トンネル同士を繋ぐ道の半ばで、ヒロが「零一にいちゃーん」と声を張って、両手を元気よく振ってきた。

「ミキねえさん、榊さん、エイジおじちゃんも、こっちに来て!」

 零一とミキは顔を見合わせると、ヒロの元へ急いだ。先に進んでいた榊も、焦った様子で戻ってきて、「ひー君、どうしたの? 怪我?」と訊ねている。

「ううん。これ、見て!」

 けろっと答えたヒロは、満面の笑みで足元を指さした。

「この足跡、猫だよね?」

 黒い岩場の道には、確かに――掠れて消えかけていたが、小さな肉球のスタンプが押されていた。周辺の岩場は乾いているので、地上の泥で足が汚れた状態で、地下に紛れ込んだのだろうか。小型のけものの足跡を見つめた榊は、毒気を抜かれた顔をしている。零一も呆けたが、次第に昨日の出来事を思い出して、はっとした。

「あの……〝常夜会議〟で集まった純喫茶跡地『最果てにて』の前に、エサ皿が置いてありましたよね? 〝常夜〟には、猫がいるんですか?」

 零一は一同を見渡して、再び呆けた。ヒロの呼びかけで集まった面々の中に、エイジの姿だけが見当たらない。振り向くと、エイジは零一たちから少し離れた鳥居と水晶の陰にいて、露骨にそっぽを向いている。ミキが、楽しげな笑い声を立てた。

「見つかっちゃったわねえ。隠し通したかったみたいだけど、話してあげたら? エイジさんが、今もすっごく心配で仕方がない、可愛いあの子のことを」

「別に、俺は心配してるわけじゃない。身体の丈夫さが人間とは違うから、面倒を見てやってただけだ」

「そういうのを、心配してるっていうのよ。面倒臭い性格をしてるわねー」

「やかましい」

 エイジは悪態をくと、説明を待つ新人たち三名の眼差しに気圧されたのか、うんざりした顔になった。そして、渋々という形容がぴったりな口調で告げたのだった。

「〝常夜〟には、猫が一匹だけいる。その足跡の主は、一年と二か月前に、俺と一緒に〝現実〟から〝常夜〟に流れ着いた相棒さ」

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星架ランナー 一初ゆずこ @yuzuko

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