ブライト・ライツ・セレナーデ(あるいは8分の1の夕暮れ)
天野橋立
8分の1の夕暮れ(一話完結)
そのビルの名は、ド・マクマラン・タワー。
各地を走る鉄道路線を運営する、「鉄軌機構」の本社でもあるこの摩天楼が彼女、クレア・クリスの職場だった。
その一階から四百九十七階まで、全てのフロアからの眺めを、彼女は知り尽くしている。ビルの外壁に取り付けられた
街に出てきて数年間、地上から最上階まで、ガラス張りのゴンドラにお客を乗せて毎日何度も往復していれば、景色など見慣れてしまうのが当たり前だった。
しかしそれでも、夕暮れが夜へと変わるほんの
濃い青へと変わりつつある天頂と、そこから紫、オレンジ色へと層をなす空のグラデーション。その下に林立するビル群の窓が放つ、数えきれない灯り。
それは、まだ彼女が
ゴンドラは全部で八基、そのうちのどれか一基の操作を、クレアたちオペレータが日替わりで受け持つことになっている。
このビルの威容が示す通り、「鉄軌機構」自体が世界有数の巨大企業体だ。ただのゴンドラのオペレータとはいえ、その給金は決して悪いものではない。
しかしそれ以上に彼女が誇りに感じていたのは、この本社へとやってくる様々なお客を出迎え、目的のフロアに送り届ける役目を、自分が勤めているという事実だった。
それらのお客の中には、この
しかし、彼女もまたプロである。公私の混同はしない。ライトグリーンの制服、その胸の中に個人的な感情を押し込めて、冷静に仕事をこなすのだ。
「ようこそ。いらっしゃいませ、ド・マクマラン・タワーへ。どちらのフロアにご用でしょうか?」
と、自負と誇りを込めて。
ちょうどそんな夕暮れ時。ビルの中で働く大勢の社員が下界へと帰って行く時間に、一人の青年が一階から乗り込んで来た。他に乗客はおらず、クレアは彼だけを乗せてゴンドラを上昇させた。
この時間帯に時折見かけるその青年は、鉄軌機構の関係者ではなさそうだった。いつも彼が降りる七十七階には、「スカイウェイ」と呼ばれる空中プールの受付がある。きっと、その利用者なのだろう。
「スカイウェイ」はプールとは言っても、いくつかの高層ビルの間をループ状に空中でつなぐ、透明なチューブの中を泳ぐという構造の施設だ。チューブの中を循環する水は、夜間には青くライトアップされ、光る円環が街の上空に姿を現すことになる。
七十七階の高さ、ということは「スカイウェイ」からの見晴らしの良さは相当なものだ。大都会の灯りを見下ろしながら泳ぐことのできる夜間帯は、特に人気があった。
クレアも一度だけ、招待券をもらって行ってみたことがある。夜空を横切る水路を泳ぐ、それは素晴らしい体験だったが、その料金は彼女にとってはあまりに高価だった。自分で費用を負担して利用するのは、不可能に近い。
ごく普通の白いコットンシャツに、テーパード・スラックスという服装のその青年は、特別に裕福そうには見えなかった。優し気な眼差しも、いつも見かける成功者たちの、野心に満ちた瞳の輝きとはまるで違う。
しかし、あのプールを普通に利用できるということなら、やはりそれなりの立場がある人なのだろう。
そんなことを思いながら、主幹制御ハンドルを操作していた彼女の後ろで、青年が独り言のようにつぶやいた。
「いつ見ても、見事な眺めだなあ……」
その時間はちょうど、夜の闇へと移り変わりゆく空の色と、ビル群のブライト・ライツが共演する、あの一瞬だった。しかも、今朝からの冷え込みのおかげか、空気は見事に澄み切っていた。
「ええ、今日は特に空が美しいですわ」
自分が話しかけられたのかどうかは分からなかったが、クレアはそう返事を返した。
「あなたは、毎日のようにこんな美しい風景を眺めることが出来るわけですね。素晴らしい仕事だなあ……」
青年の言葉に、彼女は思わず振り返りそうになった。そうです、そうなんです、と。
「はい。このようなお仕事に就くことができて、幸運に思っておりますわ」
しかし、彼女は操作盤のほうを向いたまま、それでも精一杯の微笑みを浮かべて、そう答えた。
いつも通りに、青年は七十七階で降りて行った。
彼女はゴンドラを四百九十七階まで一旦上昇させて、混雑したフロアから帰宅する社員たちを拾いながら地上へと戻る。その間に、空はたちまちに濃紺へと染められ、星空となった。あの美しい夕暮れが見られる時間は、短かい。
その日以降も、クレアは何度もあの青年と出会った。二人きりになることもしばしばで、その度に彼女は彼と、ごく短い会話を交わすことになった。
青年はクレアと同じく、
もう一つ判って来たのは、青年が実はほとんど毎日のように、ここの「スカイウェイ」へと泳ぎに来ているということだった。
「この街で、一番気が晴れる場所なんです。地上も、ビルの中も、僕にはどうも窮屈に思えて」
青年はそう言った。
しかし、全部で八基あるゴンドラのうち、クレアが操作するものに彼がたまたま乗ることになる確率は限られている。
いつの間にか彼女は、その八分の一の「当たり」が出ることを、待ち望むようになっていた。この街に出てきて以来、そんな気持ちになったことは初めてだった。
その日も、八分の一の確率を突破して、青年はクレアの乗務する
しかし、そんな最高のシチュエーションにも関わらず、彼女の心は沈みがちだった。
「この風景こそ、僕らの
いつもにも増して優し気な眼差しで、青年が話しかけているのは、クレアではなかった。
彼と一緒に乗り込んで来た、若い女性。一見質素な紺のワンピース姿だが、それが最高の仕立てによるものだということは、地位のある人々を見慣れたクレアには、すぐに分かった。そして、その落ち着いた服装は、女性の美しさをむしろ引き立てていた。
「本当ですわ。何て素敵なんでしょう」
女性はそう言って、青年をじっと見つめた。幸福の色に染められたその瞳には、クレアと同じような想いが込められているようだった。
高速で上昇するゴンドラが七十七階までたどり着くには、さほどの時間は要しない。しかし、見つめ合う二人と共に過ごすその道程は、クレアにとっては永遠に思えるほど長く、残酷なものだった。
「ありがとう、オペレータさん」
ようやくたどり着いた、目的のフロア。青年はいつものように優しくお礼を言って降りて行った。そして、隣の女性も。その柔らかな微笑みは、人柄の暖かさを感じさせるものだった。
彼女一人きりになったゴンドラを、クレアはいつもと変わらず上昇させた。
目の前に建ち並ぶ高層ビル群が放つブライト・ライツ、その輝きは何も変わらない、色褪せたりもしない。あの二人が過ごしているのだろう「スカイウェイ」が、眼下で青い光の環を描いている様子も、いつも通りに美しい。
けれども、彼女の特別な時間、あの八分の一の夕暮れが訪れることは、もう二度とないだろう。淡く短い物語は、幻のように消え失せてしまった。
大都会の輝きは、何も変わらない。しかし、クレアの瞳に写るその無数の光点は、どれもわずかに滲んで、雨粒のようであった。
(了)
ブライト・ライツ・セレナーデ(あるいは8分の1の夕暮れ) 天野橋立 @hashidateamano
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