Traumerai

 フルフェイスさんに再び出会ったとき、私たちは故郷から少し離れた町にいた。相変わらずピアノの幽霊を探して歩き回ってはいたけれど、半分は「歩き回る理由がほしいからそうしてる」みたいな感じになっていた。

「あー、よかった。君たちを探してたんだよ」

 フルフェイスさんにそう言われて、私とかなちゃんは驚いた顔を見合わせた。どうしてフルフェイスさんは、私たちを探していたんだろう? ちょっと想像がつかなかった。

「私たちに何か用事ですか?」

「うん。その前に、ピアノの幽霊見つかった? まだ見つけてないか」

 フルフェイスさんは私たちを見て、ひとりで勝手にうなずいた。実際そのとおりなので、私もかなちゃんも黙ってうなずき返した。

「実は一週間くらい前なんだけど、君たちが通ってた中学校が燃えちゃったんだよ。知ってた?」

 知らないと答えると、フルフェイスさんは心なしか嬉しそうな声になった。

「実はその焼け跡で、ピアノを見かけたんだ」

「燃え残ったんじゃないんですか?」

「いやいや、全部まっ黒焦げだもん」

 全部言われるまでもなかった。私とかなちゃんは顔を見合わせた。そのピアノは燃え残ったわけじゃなくて、もしかして、もしかすると。

「ありがとうございます!」

 私たちがおじぎをすると、フルフェイスさんは「いやぁ、よかったよかった」と手を振って、またバイクに跨ってどこかに走っていってしまった。

 かなちゃんが私の手をぎゅっと握る。ふたりの口から同じ言葉が、ほとんど同時に飛び出す。

「行こう!」

 私たちの足はひさしぶりに地面を離れ、重力を無視して空へと舞い上がった。風を切って私たちは飛んでいく。私たちが住んでいた町へと、速く、速く、もっと速く。

 中学校はまるで爆弾でも爆発したのかと思うくらいめちゃくちゃになっていて、半壊したコンクリートの壁のあちこちから鉄骨がはみ出している。一体何があったのかわからないけど、ひどい有様だ。白かった外壁は真っ黒く煤けて、窓ガラスは無事なものが一枚もない。校舎の周囲は黄色と黒のテープで囲まれていたけれど、幽霊にとってそんなことはどうでもいいので、私たちは三階の一番西側に、まっすぐに飛んで向かった。

 天井が吹き飛び、真っ黒焦げになった音楽室の跡地。そこにピアノはあった。あの、音楽室のグランドピアノだ。

 焼け残ったものには見えなかった。つやつやしていて、傷どころか埃ひとつついていない。きちんと演奏用の椅子も添えて、まるで正装して誰かを待っていたみたいにそこにあった。

 かなちゃんがピアノに駆け寄る。蓋に手をかけて持ち上げようとする。

 持ち上がった。

 信じられないという顔をして、かなちゃんが私を見た。私も今きっと、信じられないという顔をしている。ピアノだ。私たちがずっと探していた、かなちゃんのためのピアノの幽霊。きっとこのピアノもかなちゃんのことがずっとずっと心残りだった。だから幽霊になったのだ。

 かなちゃんの右手の人差し指が鍵盤の上に落ちる。ポーンと明るい音が青空に吸い込まれていく。

 かなちゃんがピアノの左端に移動し、一番低い鍵盤に指を乗せる。親指と人差し指と中指を使って、すべての白鍵と黒鍵をものすごい速さで弾きながら、一番低い音から一番高い音まで駆け上がる。

「うわあ」

 かなちゃんの唇からため息のような声が漏れる。

 ピアノの椅子の高さは、あらかじめ調整しておいたみたいに、かなちゃんにぴったりだった。かなちゃんは椅子に浅く腰かけ、右足でペダルを軽く踏んで、両手をすっと鍵盤の上に置く。曲が始まる……とそのとき、かなちゃんがきらきらした顔で私の方を振り向いた。

「ゆかちゃん! 何の曲がいい!?」

 私はびっくりして、でもすごく嬉しくて、ちょっとの間呼吸を忘れてしまって(もっとももう息をする必要はないんだけどとにかくそんな気持ちで)、かなちゃんの申し出にすぐ応えることができない。かなちゃんはにこっと笑って、もう一度同じ質問をした。

「ええと……かなちゃん、何なら弾ける?」

「今までに弾いたことあるやつなら、たぶん何でも弾けるよ」

 私は、私たちがまだ生きていた頃に、音楽室でかなちゃんが奏でていた曲を、なるべくたくさん思い出そうとした。でも頭に浮かんできたのはなぜかその一曲だけで、だから私は彼女に、

「トロイメライがいいな」

 とリクエストをした。

「いいよ」

 かなちゃんがピアノに向き直る。両手が湖面に着水する白鳥のように鍵盤に降りたち、そしてピアノが、シューマンのトロイメライを奏で始める。黒焦げの廃墟に、幽霊にしか聞こえない旋律が響く。

 私はピアノに寄り添うように体育座りをし、膝に頬を載せて目を閉じる。全身にかなちゃんのピアノが満ちていく。かなちゃんはいつまでもいつまでもピアノを弾き続け、私はいつまでもいつまでもピアノの下で体育座りをして、それを聞いていた。校舎の取り壊しが始まって音楽室がなくなってしまっても、幽霊である私とかなちゃんとピアノには関係なかった。

 だから今もかなちゃんのピアノは鳴っていて、この町の幽霊はきっと、みんなそれを聞いている。

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幽霊のピアノ 尾八原ジュージ @zi-yon

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