after

 気がつくと私は学校の音楽室にいて、かなちゃんが驚いたような顔でこっちを見ていた。

「ゆかちゃん?」

 ひさしぶりに私の名前を呼ぶかなちゃんの声を聞いて、私はいきなりぼろぼろ泣いてしまう。かなちゃんはそれを見て慌てているけど、とりあえずいつもみたいに悲しそうではなくて、私にはそれがとても嬉しい。

 こっちに近づいてきたかなちゃんの手を握ると、冷たいけれど手ごたえがある。かなちゃん、と声をかけると、かなちゃんはうん、とうなずく。今までみたいに私を無視したりしない。

 どうやら私は踏切で死んで、幽霊になってしまったらしい。鉄道会社のひとたちや電車の乗客や、これから電車に乗ろうとしていたひとたちには悪かったなと思うけれど、地獄みたいな部屋の片付けも、夕食の支度もしなくてよくなったのでひとまずほっとした。

 時計を見ると夕方の四時四十四分。この時間、音楽室は合唱部が使っているはずなのに、今は私とかなちゃんのふたりだけしかいない。それどころか、校舎の中は静まり返っていて、人の声がまったくしない。

 きっと私たちは、生きているひとを認識できなくなってしまったのだと思う。そう解釈するなら、かなちゃんが生きていた頃の私を無視し続けたことにも納得がいく。

「えっと、どう? 調子」

 何から話したらいいのかわからなくなって、ついバカみたいな声をかけてしまう。かなちゃんはにまっと笑って、「ちょう暇」と答えた。

「やることなくて、マジでめちゃくちゃ暇」

 ははは、と私たちは一緒に笑った。ひさしぶりに声を上げて笑った気がする。そうか、幽霊って暇なんだな、と私はすとんと腑に落ちたような気持ちになる。

「私、ずっとかなちゃんのピアノが聞きたかったの」

 嬉しくなってそう言うと、かなちゃんは急にシュンとなってしまった。

「ごめんね。全然弾けなくなっちゃったの」

 肩を落としてそう答える。

 そうか、かなちゃん幽霊だもんね。いつもピアノの鍵盤押せなくて困ってたもんね。悪いことを言ってしまったかもしれない。

「じゃあ、ピアノの幽霊を探したらいいんじゃない?」

 かなちゃんに元気を出してもらいたくて、私はそんな提案をしてみる。私は幽霊になった途端、かなちゃんと話せるようになったり、触ったりできるようになった。きっとピアノも同じことで、幽霊のピアノなら触ったり、弾いたりすることができるんじゃないかな。そう思ったのだ。

 かなちゃんは今度はびっくりしたような顔になって、それからその顔に満面の笑みが広がった。

「そうか。そうだね。それなら私にも弾けるかも」

 私はとてもいいアイディアを出したような気分になって、浮かれてしまう。でもピアノの幽霊ってどこにいるんだろう? そもそも、ピアノって幽霊になるんだろうか?

「とにかくピアノ、探しに行こ。どうせ幽霊だから暇だし」

 急に元気になったかなちゃんは私の手を握り、私も握り返す。私たちは窓ガラスをすり抜けて三階のベランダへ、そしてそこからふわふわと外に漂い出した。


 さて、外に出てはみたけれどこれからどうすればいいのか、私だけでなくたぶんかなちゃんもちっともわかっていない。

 だけど校舎くらいの高さの空を漂うのは結構楽しい。足元に私たちの住む町が見える。でもひとの姿はほとんど見えない。きっと今ぽつりぽつりと見えているひとたちは、みんな幽霊なんだろう。

 とにかく、かなちゃんと手をつないでふわふわ飛んでいくのは楽しい。ずっとこのままでもいいかな、とちょっと思ってしまうけれど、きっとかなちゃんはピアノを弾いているときが一番幸せなんだろうし、私もかなちゃんが幸せだと嬉しい。だからやっぱりピアノを探しにいかないとならない。それもただのピアノじゃなく、幽霊のピアノを。

 上空十メートルくらいを漂いながら「でも、そんなものある?」と思わず私は口に出す。かなちゃんが言う。

「きっとどこかにあると思う。ピアノって、ちょっと人間に似てるし」

 そうなの? と思うけれど、かなちゃんが言うならきっとそうなんだろうな、ということにして、私たちはとにかくピアノのありそうな場所に向かった。

 一口にピアノがありそうな場所といってもたくさんある。まず楽器屋にあるし、ピアノを作っている工場(ちょっと遠いけど)にだっていっぱいありそうだ。学校にも大抵置いてあるし、なんなら公民館にも。ピアノ教室とか、コンサートホールとか、個人の家にだってある。でもやっぱり手近かつたくさんありそうなところといったら楽器屋なので、私たちは賑やかな駅前へと飛んでいく。幽霊になると移動が楽だ。

 駅前には大きな楽器屋がある。何しろビルの一階から四階まで、全部楽器を売っているから相当でかい。ピアノのフロアは一階にあって、黒くてツヤツヤしたアップライトピアノがずらりと並んでいる。弾けないピアノばかりだろうに、かなちゃんの目は輝き始める。

 当然ながら売り場には誰もいない。私たちは売り場を歩き回ったけど、どれも普通のピアノばかりだ。ひとつだけ蓋が開けてあるものがあって、かなちゃんはそれに駆け寄った。でも鍵盤の上で指をポンポン動かした後、すぐに「だめだぁ」と戻ってきた。

「やっぱり弾けなかった」

「音楽室のと同じだね」

「店員さんもいないや。店員さんに聞いたら何かわかるかなと思ったのに」

「案外幽霊って少ないんだね」

 人間って何だかんだでいっぱい死んでるはずだから、その辺幽霊だらけかもと思っていたら全然そんなことはなくって、案外少ない。幽霊になるにも運とか、素質とかが必要なのかもしれない。誰だってプロのピアニストになれるわけじゃないように、誰だって幽霊になれるわけじゃないのだ、きっと。

 私たちは楽器屋を出た。かなちゃんは目に見えてしょんぼりしている。次はどうしよう……と途方に暮れていると、私たちの前を突然大型バイクが通過した。走ってる車なんて全然見なかったのに……と驚いていると、かなちゃんが突然「追いかけよう!」と叫んだ。

「なんで?」

「あれ、きっとバイクの幽霊だよ! だって人が乗ってたもん!」

 そう言うが早いか、かなちゃんはふわっと空中に浮き上がってロケット弾みたいに飛んでいく。慌てて私もそれに続いた。かなちゃんの説明は十分とは言い難かったけど、私にはわかる。幽霊は物体を動かすことができないはずなのに、今の人はバイクに乗っていた。きっと、あのバイクも幽霊なんだ。無生物の幽霊がどうやって生まれるかがわかれば、ピアノの幽霊を探す手がかりになるかもしれない!

 私たちは一所懸命バイクを追いかけた。体をピンと流線型にして、頭で風を切って進む私たちは、海中を泳ぐマグロの形に似ていた。バイクは速いけれど、幽霊になった私たちも速い。追われていることを知らないバイクに、見る見るうちに追いついた。

「すみません! ちょっといいですか!?」

 ライダーのフルフェイスのヘルメットをコンコンと叩いた。ひゃあぁっと声がして、バイクが減速して、止まった。

「何!?」

 フルフェイスは若い男の人の声でしゃべった。ヘルメットはとらなかった。

「突然すみません! ちょっと聞きたいことがあります」

 かなちゃんは知らない男性にぐいぐいと詰め寄る。「このバイクは幽霊ですか? どうやって幽霊にしたんですか?」

「どうやってって言われても、気づいたらこうだったからなぁ……」

 フルフェイスさんは困って頭をかくのと同じ仕草で、ヘルメットの側面をカリカリとひっかいた。

「強いて言うならオレ、バイクで事故って死んだから、一緒に幽霊になっちゃったのかも」

「そうなんですか……ご愁傷様です」

「ありがとう。君たちも何で死んだか知らないけど、ご愁傷様です」

 私たちは道端で頭をペコペコと下げあった。フルフェイスさんは親切なひとだったけど、バイクを幽霊にするための方法は知らないみたいだった。このひとみたいに、誰かと一緒に死ななきゃ駄目ってことだろうか?

「私、トラックに轢かれたとき、ピアノ運んでたらよかったのかな……?」

 かなちゃんが首を傾げた。そういう理屈になるのだろうか。もしもかなちゃんが事故に遭ったとき、横断歩道をピアノと一緒に渡っていたとしたら、そのピアノは彼女と一緒に幽霊になったかもしれない。

 かもしれないが、たぶんそうなるシチュエーションは極めて限られている。むしろほぼありえないと言ってよさそうだ。そんな風にピアノを持ち運ぶひとが、果たしてこの世にいるだろうか? 普通はトラックやなんかに乗せて運ぶだろうに。

「君たち、ピアノ探してるの? 大変だね」

 労ってはくれたけど、フルフェイスさんもピアノの幽霊は見たことがないそうだ。そもそも彼自身が、いつから幽霊をやってるのかどうかも定かでないらしい。ただ私たちが着ている制服には見覚えがあるそうで、「オレ、実はOBなんだよね」と懐かしそうに笑っていたから、そんなに古い幽霊ではなさそうだった。夏服が今のデザインになったのは、確か十年くらい前のはずだ。

 私たちは手を振って別れた。フルフェイスさんはバイクに跨って、あっという間に遠くへと見えなくなる。かなちゃんはその後ろ姿を羨ましそうに眺めていた。

「うーん、ピアノの幽霊……難しいね」

 私たちはまた途方に暮れてしまって、日が落ちかけた無人の道路をとぼとぼと歩いた。ふわふわ飛ぶような気分にはなれなかった。

 そもそも私たちはどうして幽霊になったんだろう。幽霊になるには一体何が必要だったんだろう。

 かなちゃんと並んで歩きながら、私は考える。フルフェイスさんと一緒に死んだバイクは、フルフェイスさんがいなくてもバイクの幽霊としてひとりで走ったりできるのだろうか。わからない。情報が足りない。幽霊になる条件って一体何なんだろう。

 いつの間にか私たちは海岸線を歩いていた。夕日が海を照らして水面がきらきらと輝く。胸が苦しくなるくらいきれいで、私は思わず手を伸ばしてかなちゃんの手をそっと握る。そうすることがこの場合は正解なんだと決まっていたみたいに。かなちゃんは私の手をそっと握り返す。

 そういえば私、かなちゃんとふたりでこうやって出かけたことが一度もなかった。私は自由に使えるお金をほとんど持っていなかったし、そもそも休みの日はほとんど一日中家事とアルバイト(それも年齢を誤魔化してやっていた)で潰れていたし、かなちゃんに会えるのは学校だけだった。

 放課後、音楽室でピアノを弾いているかなちゃん。その足元に座ってピアノを聴く私。世界で一番心地良い音が私の体を満たしていく。それで私は、さしていやな顔もせず地獄みたいな家に帰っていくことができる。かなちゃんのピアノが体の中に残っている限り、何があっても本当に辛いとは思わなかった。ピアノ。やっぱりピアノが必要だ。私とかなちゃんのためのピアノ。でもそれはいったいどこにあるのか、全然いい考えが思いつかない。幽霊になってから、なんだかいつもより頭がふわふわしている気がする。

 私とかなちゃんは歩いた。まるであてもなく、道に沿ってどこまでもどこまでも歩いた。太陽が沈んで辺りが真っ暗になっても、私たちは幽霊だから全然怖くなかった。お腹も空かないし休む必要もないから、左手に海を見ながらずっと歩き続けた。やがて東の空から朝日が昇ってきた。かなちゃんがきれいだね、と言った。私もそうだね、と答えた。幽霊だから足が痛くなったり、つないでいる手がベタベタしたりもしない。いつまでもこうして歩いていられる。かなちゃんの髪が風に吹かれてさらさらとなびく。幽霊でも髪が風になびいたりはするんだ、不思議だな、と思う。夏服のブラウスに結んだリボンが、プリーツスカートが、私たちが歩くのにつれて揺れる。

 また昼が来て、夜が来て、朝が来て、夏が終わり、秋が来て、冬になり、雪が降って道が凍ったけれど、私たちには関係なかった。夏服のまま歩き続けた。やがてかなちゃんが死んだ春が来て、私が死んだ夏が来た。何度も四季を繰り返しながら、私たちは手をつないで歩いた。

 途中で何人かの幽霊とすれ違ったけれど、ピアノの幽霊を見たことがあるひとはいなかった。私たちは歩いて、歩いて、ピアノがありそうなところには必ず立ち寄った。学校、幼稚園、公民館、コンサートホール、ピアノ教室、個人の家、レストラン。ピアノを作っている工場も見に行った。弾かれなくなったピアノが廃棄されるところにも行った。どこにも幽霊になったピアノはいなかった。

 廃棄されることが決まったピアノはみんな穏やかな顔をしている、とかなちゃんが言った。私にはよくわからないけれど、かなちゃんが言うならそうなんだろうな、と思った。

「あんな穏やかな顔で死んだら、きっと幽霊になんかならないと思う」

 積み上がった粗大ごみの山の上を歩きながら、かなちゃんが言う。

「私たちみたいに、不慮の事故みたいな死に方じゃないと幽霊になれないのかな」

「不慮の事故で死んだピアノかぁ。条件難しいね」

「実際、不慮の事故で死んだひとがみんな幽霊になるわけでもないしね。ピアノならなおさら難しいよね」

 ゴミの山の中から逆さまに飛び出しているグランドピアノの脚を撫でながら、かなちゃんは「もしもピアノの幽霊がいたとしてさ」と話しだす。夕日が横顔に深い陰影を描き出している。

「もしもそれがフルフェイスさんのバイクみたいに、持ち主と一緒に死んで幽霊になったパターンのやつだとするじゃない。そしたらそのピアノと一緒に死んじゃったひとって、やっぱりそのピアノのことが大好きで、すごく心残りがあるんじゃないかな。だからピアノと一緒に幽霊になっちゃったんだと思う」

 そこまで言うと、かなちゃんはふいに口を噤む。私が先を促すと、言いにくそうにこう続けた。

「そういうピアノだったら、きっと私のピアノにはならないんじゃないかな」

 こんなこと言ったら、一緒に探してくれてるゆかちゃんには悪いと思うんだけど……と遠慮がちに付け加えて、かなちゃんはまた口を閉じる。

 いいとか悪いとかじゃなく、きっとかなちゃんが言うならそうなんだろうな、と私はやっぱりそう思う。もしピアノの幽霊を見つけたとしても、それはかなちゃんのピアノにはならないのかもしれない。誰か他に持ち主がいて、そのひとにしか弾かれたくないのだとしたら、かなちゃんはきっとそのピアノを無理には弾かない。

 私は中学校の音楽室にいた、幽霊になったかなちゃんを思い出す。音楽室のピアノの前に立っているしかなかったかなちゃん。そしてもっと以前、そのピアノを楽しそうに弾いていたかなちゃん。ほかのひとが弾くときとは全然違う音で、音楽室のピアノは嬉しそうに鳴っていた。歌っていた。もしもこの世にかなちゃんを待ってるピアノがあるとすれば、もしかするとそれはあの、音楽室にあったグランドピアノなのかもしれない。

 もう何年も手をつないで歩いているから、私にはかなちゃんの考えていることがなんとなくわかる。きっとかなちゃんも同じピアノのことを考えているんだろう。いつかあのピアノが誰からも弾かれなくなって、穏やかな顔をして処分されるとき、せめてそれをかなちゃんと一緒に見たいと思った。

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