幽霊のピアノ
尾八原ジュージ
before
かなちゃんよりピアノが上手いひとを私は知らない。まだ中学生なのに音楽の先生よりもずっと上手で、かなちゃんが弾くと、音楽室のグランドピアノはまるで魔法にかかったみたいに大きく、小さく、軽やかに、重々しく、踊るように、ため息をつくように歌い始める。実際国内のジュニアコンクールで優勝したこともあるくらいだから、私のひいき目じゃなくて本当にピアノが上手だったのだ。もしもほかのことが何ひとつできなくても、かなちゃんはピアノが弾けさえすれば大丈夫なんじゃない? そう思うくらいの腕前だったけど、そんなかなちゃんもトラックに撥ねられたらさすがにもうピアノは弾けない。つまり死んでしまったのだ。
でもさすがというかなんというか、かなちゃんは死んでからも幽霊になって、音楽室のグランドピアノの前にずっと座っている。ピアノがめちゃくちゃ上手なだけあって、やっぱりかなちゃん自身もピアノのことがめちゃくちゃ好きなのだ。中でも音楽室のピアノは自分の家のやつより好き、とよく言っていたから、幽霊になってからは一番好きなピアノの前に現れるようになったのだろう。
でも残念なことに、幽霊になったかなちゃんはピアノを弾けない。彼女の半透明の指がいくら鍵盤を叩いても、それは鍵盤をすり抜けてしまうだけで、押すことはできないのだ。一向に鳴らないピアノの前で、それでもかなちゃんは指を走らせているけれど、いつも悲しそうな顔をしている。私はそんな彼女を見ていると、胸をぎゅっと締め付けられるような気がしてとても辛い。
私の他にかなちゃんの幽霊がはっきり見えるひとは、今のところ私が知る限りはいないらしい。ただ音楽の道原先生はちょっと霊感があるみたいで、最近ピアノの前に座るとなんだか寒いのよね、と言って二の腕をさすっていた。先生がピアノの前に座ると、私にはかなちゃんと先生が連弾をしているように見える。もちろん聞こえる音は先生の弾く音だけ、それもかなちゃんに比べれば(普通のひとと比べたら断然上手いけど、それでも)いまいちで、やっぱりかなちゃんは悲しそうな顔をしている。
私はかなちゃんのピアノだけじゃなく、かなちゃん自身のことも大好きだったので、悲しそうな彼女を見ているのはとても辛い。私まで悲しくなってしまう。でもかなちゃんのことがやっぱり好きだから、ちょっと暇があると音楽室の鍵を借りて、ピアノのところに行ってしまうのだ。
「かなちゃん」
幽霊になってしまったかなちゃんは、私がいくら呼びかけても返事をしないし、こちらを向いてもくれない。私の声が聞こえないのかなと思って肩を叩こうとしたら、私の手は彼女の肩をすり抜けてしまった。もちろんかなちゃんはこっちを見ようともしない。
私は肩を落として音楽室を出る。職員室に鍵を返しに行って、部活も幽霊部員だからさぼって、一人でとぼとぼ歩いて帰る。家に帰るとお父さんがまだ明るいのに家でお酒を飲んでいる。お母さんはやけにきれいな格好をしていて、私に「ご飯の支度しといて」とだけ言ってどこかに出かけていく。おばあちゃんは履いていたオムツを勝手に脱いで自分のウンチを壁に塗りたくろうとしているので、とりあえずオムツを取り上げると私のことを悪魔とかあばずれとかくされ×××とか言って罵る。家の中はいつも臭いし、不快な音に満ちていてうるさい。おまけに冷蔵庫を開けたら中身がほとんど空っぽになっている。チューブの先っぽの方に一割くらい残ったマヨネーズと、しなびたネギの緑色のところが落ちている以外は、ビールが三缶入っているだけだ。お父さんはこんな状況でも構わずお酒を飲みながら、テレビを観て無暗に大声を出し、ろれつの回らない舌で何か文句を言っている。これからオムツを片付けて新しいオムツを履かせて掃除して買い物に行ってご飯を作らなきゃならない。そもそも買い物に行くためのお金を、たぶんいい加減酔っぱらっているお父さんからもらわなくっちゃならない。なんだか目の前に、「タスク」と書かれた石のブロックが山積みになっているのが見えるような気がする。かなちゃんが死んじゃって私は彼女のピアノを聞けなくなって、いいことなんかひとつもなくなったのに、その上にこれかよ。地獄かよ。
私は何もかも放棄して家を飛び出した。何も持たず、中学校の制服のまま、目についた方向に走って走って、どんどん行った先に遮断機の下りかけた踏切があったので勢いのまま飛び込んでしまった。電車がぷぁーん! と音を立てて走ってきた。
かなちゃんの弾くピアノが好きだった。
放課後、音楽室が空いている時間帯になると、かなちゃんは鍵を借り出してピアノを弾く。私はピアノの下で、床に体育座りをしてそれを聞く。
幻想即興曲、ゴリウォーグのケークウォーク、ラ・カンパネラ、トルコ行進曲。かなちゃんは有名でキャッチーでキラキラした曲が好きだ。
私はかなちゃんの弾くトロイメライが一番好きだった。そのメロディは遠い昔、夢の中で聞いた歌に似ているような気がした。
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