屋根裏のお月さん

深見萩緒

屋根裏のお月さん


 私が初めてお月さんに会ったのは、蒸し暑い夏の夜でした。

 その日、ちょうど読み終わった児童向け小説の内容があまりに素晴らしく、私は夜になっても物語の夢に浮かされたままでした。

 女の子が屋根裏部屋から不思議な世界に迷い込み、相棒の妖精と一緒に冒険をする、勇ましいおとぎ話でした。途中で、女の子と妖精は何度も危機に見舞われ、何度も挫けそうになりますが、それを知恵と勇気と友情で全て乗り越え、最後には異世界をおびやかすドラゴンを退治するのです。

 物語を読み進めるうちに、私はすっかり主人公と同調していました。彼女が泣けば私も悲しくなり、彼女が敵に打ち負かされれば私も悔しくなりました。そして彼女が悪いドラゴンをやっつけたシーンでは、まるで自分がその偉業を成し遂げたかのように誇らしく感じたのです。


 そんな状態のまま夕飯を食べ、お風呂に入り、寝る準備を済ませたところで、自分の家に屋根裏部屋があることを思い出しました。そして、もう居ても立っても居られなくなり、懐中電灯を手に屋根裏部屋へと向かったのです。

 気分はすっかり、勇気を振り絞って異世界へと向かう主人公でした。実際のところ、屋根裏部屋に行くには相当の勇気が必要だったのです。屋根裏部屋に向かう階段はしごは、上半分をすっかり闇に食べられていて、そこから怪物の手や足が伸びてくるのを想像するのは容易でした。それに、屋根裏部屋へは近寄らないよう、両親にきつく言われていました。

 しかしその夜に限っては、恐怖や禁忌などは「勇気を振り絞る」という甘美な自己陶酔へのスパイスでしかなかったのです。懐中電灯の丸い明かりの中に、木製のしっかりした階段はしごが浮かび上がったとき、私は小さな声で「さあ、行くわよ」と主人公のセリフを呟きました。

 段差の上に懐中電灯を置いて、数段登ります。そして再び懐中電灯を先に登らせてから、自分が続きます。その繰り返しの中で、十段あるかないかの短い階段が、まるで異世界へと続く長いトンネルのように感じられました。あの時の興奮は、成人した今になってもありありと思い出せます。そして、その興奮の先にあった美しい静寂のことも。


 階段はしごを登って突き当りの部屋、銀色のドアノブをゆっくりと回すと、ドアは音もなく開きました。そしてその向こうに、お月さんがいたのです。

 お月さんは男の子の姿をしていました。私より少し大人びた、丸顔の男の子。男の子は、手のひらの中で幾つかの白いおはじきを弄びながら、窓際の丸椅子に座ってじっと外を眺めていました。

 初めから彼をお月さんだと認識出来たわけではありません。私は挨拶もせず、無遠慮に「誰?」と尋ねました。その質問に、彼が「お月さんです」と答えたのでした。

 実際、屋根裏部屋には明るい満月の光が真っ直ぐ差し込んでいましたし、男の子の肌はその光を写し取ったように白銀に輝いていましたので、彼がお月さんであることは疑いようのない事実でした。

「お月さんが、どうしてうちの屋根裏部屋にいるの?」

「それは、今夜が満月だからです」

 簡潔で明確な彼の返事に、私は口にするべき言葉を迷いました。物語の中に出てきた、主人公の相棒である妖精は、言葉によって弱ったり、癒やされたりする生き物なのです。主人公がうっかり悪い言葉を口にすると、妖精は傷を負って血を流しましたし、その傷はなかなか治らずに妖精を苦しめます。目の前の男の子も、そういう生き物であるような気がしていました。

 結局、初めて会った夜は、私はほとんど彼と喋りませんでした。私とお月さんは、互いに適切な距離感を測るように、短い会話を交わしたり、ちょっと目配せをしただけだったのです。


 翌日、再び屋根裏部屋を訪れましたが、銀のドアノブは少しも回りませんでした。昼間に来ても、もちろんドアは開きません。お月さんの部屋のドアは、満月の夜にしか開かないのでした。

 次の満月の晩が、どんなに待ち遠しかったか知れません。私はやっぱりベッドを抜け出して、懐中電灯を片手に屋根裏に登りました。満月の夜に限っては、銀のドアノブは素直に回り、ドアの向こうのお月さんは「こんばんは」と私に微笑むのでした。



 屋根裏部屋で、私は自分が喋ることよりも、お月さんのお喋りに耳を傾けることに注力しました。自分の迂闊な言葉が、お月さんの白く繊細な皮膚を切り裂いてしまうのが恐ろしかったし、その恐怖を抜きにしても、彼のお喋りはとても楽しいものでした。

 お月さんは、空から見下ろした街の様子を聞かせてくれました。昼間、人間が仕事や学校に行っている間、犬や猫たちが何をしているか。生き物が寝静まった深夜、カラスたちが寝床で何を話しているか。空のずっと上の方から見る街は、まるで生きているように見えるのだと彼は語りました。

「車の赤いテールライトは、身体の中心を走る大動脈です。切れかけの街灯は、シナプスの交信です。時々もやがかかると、もやの向こうから、街の息づかいが聞こえます」

 お月さんの話は楽しかったけれど、当時の私には少々難しいものでした。それを分かっているふうに頷きながら聞いていると、自分がとても賢くなったような気がして、むず痒い気持ちになったものです。


 それから、お月さんはお月さんのことについても、よく話してくれました。月は地球の衛星で、地球から離れられないこと。月は自ら光を放っているのではなく、太陽の光を受けて輝いていること。月は自分の表側しか地球に見せておらず、裏側は隕石がぶつかって傷だらけになっていること。

 お月さんはとても物知りでしたし、説明をするのも上手でした。学校に行ったら一番の成績だね、と褒めると「僕が人間だったら、そうかも知れません」と言いました。その言葉を聞いて、私は自分の言葉が、お月さんの裏側に小さな隕石を落としてしまったことに気が付きました。けれどお月さんは黙って静かに光り続けていて、謝罪することすら、私に許してくれなかったのです。

「お月さんは、人間になりたい?」

 謝罪の代わりに恐るおそる尋ねると、お月さんはたっぷり間を取って「どうでしょう」と言いました。

「僕はお月さんだから、人間になった僕というものが、果たして元の僕と同じと言えるのか疑問です」

「私、お月さんと一緒に学校に行きたいんだ。そうしたら、満月の夜じゃなくても、たくさんお喋り出来るでしょ」

「お月さんのまま、学校に行けたら良いのでしょうね。でも、学校は人間の行くところです。学校に、お月さんの居場所はありません」

 そんなことない、と言いたかったのですが、お月さんに嘘はつけませんでした。お月さんの言う通り、学校は人間のための場所なのでした。犬も猫もカラスも、もちろんお月さんも、そんなものは学校にはおりません。

「それに……」

 これが最も重大なのだ、という口調で、お月さんが言いました。

「僕には、名前がありません。名前を口にするのを、禁じられているのです。学校に行ったら、まず最初に自己紹介をするでしょう。ちょっと、やってみて」

 やってみてと言われましたので、私は満月の光をスポットライトにして、お月さんに自己紹介をしました。

「皆さんこんにちは、はじめまして。私の名前は児玉ひかりです。どうぞ宜しくお願いします」

 お月さんが拍手をします。私は深くお辞儀をします。

「とても綺麗な自己紹介でしたね。僕には、これが出来ません。僕の名前は、僕の身体の奥深くに封印されているからです。だから、僕は学校には行けないのです」

 これはどうしようもなく、曲げようのない世界のことわりなのだということが、私にもよく分かりました。私は独り言のように、「そっか」と短く言いました。自分を納得させ、お月さんともっとお喋りをしたい、一緒に遊びたいという願いを打ち消すための「そっか」でした。

 お月さんの手の中で、白いおはじきがぶつかり合って、虫の羽音に似た音を立てます。その音には、私の「そっか」に似た意味が含まれていました。



 無数にある満月の記憶の中で、強烈に印象に残っている夜があります。私は数日前からそわそわしていて、落ち着きがないといって夕食時に何度も注意されたものです。

 私だけでなく世間のあらゆる人々も、その特別な夜を一ヶ月も前から待ち焦がれていました。とても大きな満月が見られるスーパームーンの日に、皆既月食という天体イベントが重なったのです。その日の新聞の切り抜きを、私は未だに大切に保管しています。満月というだけでも特別な意味を持つのに、滅多に見られない現象が同時に起こるというのですから、その特別感たるや、幼い私を大興奮させるのには充分でした。

 特別な夜を、お月さんと一緒に過ごしたい。当時の私がそう考えたのは何も不自然なことではなく、私はとっておきのおやつ――甘いたまごの蒸しパン――を持って、屋根裏に登りました。

 明るい黄色の蒸しパンは、低く西の空に傾いた月のようです。これを半分こして食べながら、お月さんと二人で空を見上げる。それはもう、ドラゴンを倒す魔法の旅よりも、ずっと素敵なことに思えました。

 胸を踊らせながら、私は銀のドアノブに手をかけました。しかし、とうとうドアノブを回すことは叶いませんでした。


 ドアの向こうから、小さな震えが伝わって来たのです。ドアに耳を当ててよく聞いて見ると、それは男の子の声でした。

「皆さんこんにちは、はじめまして。僕の名前は児玉ひ、ひっ、ひ、ひ、ひ……」

 男の子の声は不自然に途切れたり、まるでスキップをするように飛び跳ねたりしました。

「僕の名前は、児玉、ひ、ひ、ひっ、ひ……か……」

 何度も飛び跳ねて、そのたびに壁や天井にぶつかって、男の子の声は傷つきすり減って、とうとう、か細いすすり泣きの向こうに消えてしまいました。そしてその後に続いた言葉に、私は思わず耳を塞ぎました。

 それは、男の子を罵る悪意の言葉でした。「お前は……どうして……当たり前のことが出来ないんだ……」

 低い声で自らを罵りながら、男の子は泣き続けます。「恥ずかしい……人様に見せられない……どうして……出来損ないめ……」

 細い身体の妖精が、無数の棘に突き刺されて血まみれになっていく様子が、瞼の裏に鮮烈に浮かびます。「お前なんか……生まれない方が良かった……死んだ方が……」

 散々呪いの言葉を吐いた後で、ドアの向こうの男の子は、長く長く息を吐きました。そして、物語の終わりを締める「めでたしめでたし」のように、穏やかな声でこう呟いたのです。

「でも、僕の代わりにひかりがいるから、お父さんとお母さんは幸せです」

 耳を塞ぎ、ドアに寄りかかったまま、私はその場にへたり込んでしまいました。そして蒸しパンがぐしゃりと潰れるのも構わずに、膝を抱えて縮こまり、封印された彼の名が解放されるように祈りました。



 その夜を境に、私は屋根裏部屋へは登らなくなりました。理由として、全寮制の中学校へ入るための勉強が忙しくなったことや、私の様子に気が付いたお母さんが、屋根裏へ続く階段に荷物を並べてしまったことが挙げられます。けれど、結局のところそんなものはどうにでも出来たことであって、私はそれをどうにかしようとは思わなかったのです。

 私を屋根裏から遠ざけた決定的な要因は、私の罪悪感でした。私の存在が、お月さんを苦しめていることは明らかでした。両親の強い勧めで、私は飛行機の距離にある学校を受験することになっていましたが、私にはそれが嬉しくもあったのです。私がこの家にいる限り、お月さんは昼間の月のように、真っ白な抜け殻としてしか存在できません。私にはそれが、耐え難く苦痛でした。


 やがて受験は問題なく終わり、私は全寮制の名門校への切符を手に入れました。両親ともたいそう喜んで、お母さんは「家族みんなでお祝いしましょう。ひかりの好きなものを、何でも作ってあげる」と笑いました。

 黄色いたまごの蒸しパンが食べたいと私が言うと、お母さんは「そんな子供っぽいもの、駄目よ」と笑って、高級レストランのコース料理のような夕ご飯を作ってくれました。嬉しそうなお母さんとお父さんに挟まれて、私は義務のように笑いながら、この家族は三人だけなのだと思い知りました。

 学校にお月さんの居場所がないように、家族の中にも、お月さんの居場所はありません。お月さんは月であって、人間ではないのですから、当たり前です。この世で生きていく限り、私もお月さんも、当たり前というものに蝕まれ続けなければならないのです。


 家を出る前の最後の夜、私は階段に積み上がった荷物をどけて、屋根裏へ登りました。そして、心なしか少しくすんでしまった、銀のドアノブを掴みました。祈りと共に、力を込めてみます。

 けれど、ドアノブが回ることはありませんでした。窓の外には、一切の欠けのない満月が輝いていたというのに、屋根裏部屋は頑なに閉ざされたままでした。



 それ以来、私は一度もお月さまに会ってはいません。高校を卒業し、附属の大学へ進学しても、何かと理由をつけて家には帰りませんでした。私の帰宅を懇願する母の声も、父の怒声も、電話越しにやり過ごしました。学費や生活費を打ち切られてからは、奨学金とアルバイト代のやりくりに忙しくなり、それがかえって私を安堵させました。

 生きることに必死になっているうちは、生きる意味を考えずに済むのです。時おり、疲れた夜に見上げる満月だけが、私の全てを癒やしてくれます。私の内耳には、お月さんの柔らかな声がたっぷりと浸透していて、静寂に耳を澄ませるだけで、いつでもそれを取り出すことが出来ました。


 そして今夜、私は実に十数年ぶりに、生家の敷居をまたぎました。父も母も私を歓迎しませんでしたが、追い返しもしませんでした。

 久しぶりに食べる母の手料理は、どうしたって懐かしく、私にいくらかの感傷をもたらしました。「元気にしてるの」と訊く母に、「忙しくても、食事はおろそかにしちゃいかんぞ」と忠告する父に、今までごめんなさいと泣いて縋りたい気持ちもありました。

 しかしそれは許されません。

 屋根裏のお月さんを本当に愛しいと思うならば、彼に対する罪の気持ちが本物ならば――私はこの人たちからの愛を受けてはならないのです。少なくとも、今日を境に、一切の愛を退けなければならないのです。

 彼らの愛を受け入れてしまうことは、誠実な冒険を貫こうとした幼い自分に対する、裏切りの行為にほかなりませんでした。

「ごちそうさまでした。ありがとうございます」

 さようなら。私は彼らに別れを告げます。夜があけたら、私はこの人たちとは関係のない人間になります。それが、私に出来るたったひとつの贖罪でした。



 屋根裏へ登ると、銀のドアノブどころかドアそのものが取り払われていて、そこはすっかり寂しい物置になってしまっていました。確かにそこにいたはずのお月さんは、気配すら残さずに、消えてしまっていたのです。

 埃っぽい部屋に足を踏み入れると、床板が軋んで小さな悲鳴を上げました。窓から月の光が差し込んで、舞い踊る埃の粒をきらびやかに照らしています。

 壁沿いに積み上がっている荷物は、いつか屋根裏への階段を封鎖していた荷物と同じもののようでした。ようやく正規の居場所を手に入れた荷物たちは、これでようやくゆっくり眠れると言いたげに、埃のヴェールの下でうずくまっています。ここはもう長いこと、彼らの楽園であるようです。

 楽園を踏み荒らすことは本意ではありませんでしたが、私はそうっと足音を立てないように部屋を進んで、窓際に向かいました。見覚えのある丸椅子の上も、今は小物を閉じ込めた箱の居場所であるようです。私はその小箱を別の箱の上に置き直して、丸椅子に腰掛けました。


 透き通るような満月が、屋根裏部屋を覗いています。あの日々に輝いていた満月とは違う、ただ満月であるだけの満月です。

 この歳になると、あの頃はどんなに目を凝らしても見えなかった、私やお月さんを取り巻いていた様々なものが、嘘のようにはっきりと見えてくるものです。反対に、子供の時分には見えていたはずのものが、今は見えなくなっているのでしょう。


「車の赤いテールライトは、身体の中心を走る大動脈です。切れかけの街灯は、シナプスの交信です。時々もやがかかると、もやの向こうから、街の息づかいが聞こえます……」

 お月さんの言葉を思い出しながら、私は世界中に横たわる無数の街のどこかに、お月さんの居場所があるようにと祈りました。

 大動脈を走り、シナプスの枝を辿った先のどこかの細胞のひとつに、お月さんのささやかな世界がありますように。お月さんがお月さんとして居られる空間が、僅かでも許されていますように。

 私は、心から祈りました。



 さて、いい加減に荷物たちの楽園を去ろうと腰を上げた時、私は足元にお月さんの欠片を見付けました。欠けのない白いおはじきが、床板の隙間に挟まっていたのです。私はそれを拾って、服の裾で汚れを拭いました。そして、そっとポケットへ滑り込ませました。

 私は二度と、この部屋へは戻って来ないでしょう。この家へも、足を踏み入れることは二度とないでしょう。妖精と友達になることもなく、凶悪なドラゴンを倒すこともなく、私のおとぎ話はここで終わりです。

「さあ、行くわよ」

 ポケットのおはじきを握りしめて、私は呟きました。私が何を失おうとも構うことなく、人生は続いていくのです。お月さんのいない満月の夜を、幾度となく繰り返しながら。




<終>

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屋根裏のお月さん 深見萩緒 @miscanthus_nogi

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