最終話:諸行無常
龍を失い、越後国中が悲しみに包まれた。それだけ彼の強さは、逸話は、多くの民に刻み込まれていたのだ。ただ、春日山の中枢部だけは泣いている場合ではなかった。織田との戦いをどうすべきか、継続か、それとも恭順か。
龍あっての対天下人。されど、龍の想いをくみ取れば――
「継続すべきだ」
上杉景勝は継戦を指示する。自らが陣頭に立ち、尊敬する龍の成し得なかった上洛を、織田信長打倒を果たすべきだ、と。
実際に彼は謙信没後すぐ春日山城を掌握し、自身こそが正統な後継者であり、他の選択肢はないと示していた。
ただ、諸将の反応が悪い。
さらに外圧も発生する。蘆名や北条がここぞとばかりに横やりを入れてきたのだ。そのやり玉に挙がったのは、北条の血統上杉景虎。
他国、そして――
「……いつの世も争いか」
「残念ながら」
「ではなぜ戦う?」
「……御実城様の無念が打倒織田であるならば、なおのこと私が勝つべきかと。当面は関係改善に力を入れ、雌伏すべきと思いますが」
「……北条との血族同盟、いや、属国か」
「北条のみならず、全てが手を取り合いようやく勝負になる。今の織田はそういう相手と存じます。あの御方がいれば、話は別ですが」
「……あいわかった。協力しよう」
全てを謙信に任せ、隠居していた前関東管領上杉憲当もとい、上杉光徹が上杉景虎についたことで状況はさらに混迷を深めた。
上杉謙信突然の死による後継者問題は景勝か、景虎か、この二択で大きく別たれた。選択肢が発生したこと自体まかりならん、加担する者は売国奴であると誹る景勝。織田と戦うべきならば全てと手を取り合うべきと語る景虎。
織田と戦うどころではなく、国が二つに割れるだけにとどまらず、他国からも様々な思惑が流れ込み血で血を洗う大きな争いとなった。
御館の乱である。
「……本当に虎千代は何も残さなかったの?」
「綾様」
「教えて、文」
龍の最期を看取った女は哀しげに微笑み、
「残されたのはただ、出征前に、倒れる前に残していた辞世の句のみ。言葉を発することもままならぬ状態でした」
龍の姉にそう答えた。
「……そう」
姉は背を向け、『前』を向き歩き始めた。
「ですが、必要であれば虎千代は、必ず何かを残したと思います」
ゆえに彼女はその背に伝える。
「残さなかったということはそういうこと、ね。ありがとう、文。さようなら」
「はい。さようなら、綾様」
武家の女と僧籍の女、虎千代と言う接点を欠いた二人が再会することはないだろう。彼女もまた武家の女として、争いの渦中に入り込むこととなる。
割れた国。どうなるのが最良か。それを考えて――
「争いの時代。龍亡き後も、それは続く。何処まで続くのかしらね、虎千代」
四十九年一睡夢一期栄華一盃酒。
大勝負の前に残した句としてはあまりに無常に満ちたもの。彼の心の内を示す句であろう。栄華とは一杯の酒、己が人生は夢幻の如し。
ただそれだけを残し、彼は去った。
御館の乱で家中は乱れ、大きく力を落とした上杉家であったが、結果として上杉家自体は豊臣、徳川の世を渡り歩き、後世へと繋がることとなる。
それは偶然か、はたまた必然か――
○
織田信長は上杉謙信死亡の報せを聞き、ほっとすると共に少しばかり自らの天運に怖れを抱き始める。今川義元を破ったのも偶然であった。それでもあれは全力を尽くし、最善を追い求めた結果だと納得することは出来た。
しかし、好敵手斎藤義龍、副王三好長慶、甲斐の虎武田信玄の病死。越後の龍上杉謙信までもが病死ともなれば、何らかの意図を感じずにはいられない。
かつての自分はそれに誇りを感じていただろう。
今は少し怖い。
あまりにも出来過ぎた物語。其処に己はいるのだろうか。
「……」
天下人は悩み、惑う。
羽柴秀吉は毛利攻めの最中、その報せを聞き顔をしかめた。またか、と。武田の時は自分があまり関わっていなかったので流したが、上杉謙信は自分たちが戦う予定であった。頭の中には必勝とは言えずとも、勝つ算段は組み上がっていたのだ。
やってみたかった。そう思うのは我がままであろうか。
結局、負けっぱなし。勝ち逃げされたも同然である。
それに少しだけ思う。こちらの万全な備えを鼻で笑うように突破し、こちらが想像もつかぬ手で敗れてみたいという暗い欲望。
これでまた敵が減った。戦う相手が減った。挑む壁が消えた。
挑戦こそが我が人生。挑む先が無くなった後、己はどう生きると言うのか。
登り詰めた先、想像したくもない。
明智光秀は大笑いしていた。強運などと言う言葉では収まらぬほどの幸運が舞い降りた。また風が吹いたのだ。織田信長に。
では次も神に愛された者の運が勝るか。
実に興味深いと思う。
「明智殿、こちらを」
「……承ったとお伝えせよ」
「中身を見られぬので?」
「あとで見ておく。中身は、想像がつく」
神の末裔を自称する者と神がかりな奇跡を起こし続けた男。この国は常に血統主義である。この血族に近いか否か、それが全て。
その理屈で言えば男は遠い。本来今、この座にあるべきではない男。
さあ、次もまた神風は吹くのだろうか。
吹けば、面白くなるのだが――
○
戦の時代は続く。
残った上杉家と対照的であったのは甲斐武田家であった。勝頼の粘りも虚しく織田家は甲州征伐を実施、多数の離反者を出し天目山を経て滅ぶ。
謙信を裏切った不忠者、大熊朝秀はこの時最後まで勝頼に付き従い、武士としての矜持を示し、彼もまた散る。
「すまぬ、皆」
天正十年、三月のことであった。
御館の乱を勝ち残った上杉景勝であったが、織田との敵対関係は変わらず同盟を組んだ甲斐も滅んだ。北条、蘆名は織田家へ下り、まさに四面楚歌。
滅亡も時間の問題かと思われた。
同年六月。
「……神風は、吹きませんでしたね」
本能寺の変。
明智光秀が突如裏切り、毛利打倒のため安土城より出て上洛、本能寺にて逗留していた信長を襲撃。誰もが成し得なかった天下人織田信長を滅ぼした。
明智光秀が織田信長に敵対した理由は不明である。彼に関する資料はほとんど残っておらず、出自すら不透明であるのだ。謎の男はわけのわからぬ機に信長を裏切り、その結果自らもまた滅びへの道を歩む。
同年七月、山崎の戦い。
備中攻めの最中、織田信長死亡の報せを聞いた羽柴秀吉の判断は迅速であった。敵はあの明智光秀、時を与えれば与えるほどに不利となる。
ゆえに秀吉は中国大返しと呼ばれる神速の用兵を見せた。ハッタリを用いた毛利との交渉から明智光秀と対峙するまでの一連の流れは戦国史に残る完璧な立ち回りであっただろう。彼は誰よりも先んじた。
そして両雄は相まみえる。
「何故裏切った、明智ィ!」
「……いずれ話しましょう。いつか、何処かで」
勝者は、羽柴秀吉。明智光秀は路傍で誰とわからぬ者に討たれ、この世を去った。
それでも争いは終わらない。
天下を手中に収める織田家、本来の嫡男でありすでに軍団を任されていた織田信忠は本能寺の折、彼もまた八方塞がり自刃し果てた。
後継者はまだ三歳であった信忠の子、信長の孫である三法師が立てられた。すでに他の子は他家へ養子に出されており、様々な面を考慮し羽柴、柴田、丹羽、池田の四家老が彼を支えていく、と言う体制になったのだ。
これがのちに伝わる清須会議の重要事項である。この時点では一応、まとまっていた織田家であったが、巨大勢力が柱を欠き揺らがぬはずもなし。
この時席を外されていた信長の三男織田(神部)信孝はこの決定に不満を抱えており、それはすぐに御家騒動へと発展する。
矢面に立ったのは、
「……柴田殿、利用されているだけですぞ」
「誰かが力で抑えねばこの混乱は終わらぬ。俺か、ぬしか、それだけのこと」
「……皆、阿呆だ」
「それが武士だ、藤吉郎」
羽柴秀吉と柴田勝家。主役がどう思おうとも、一度生まれた流れは力で止めるしかないのが武家の定め。彼らは互いに槍を合わせ、争った。
武士として、賤ヶ岳の戦いを経て柴田勝家は信孝と共に散る。
この時点で羽柴秀吉は三法師を介し、筆頭家老として織田家の実権を握ることとなった。本人が望む望まずに限らず、誰かがやらねばならぬ仕事である。
とうとう秀吉は登り詰めてしまったのだ、頂点へと。
だが、まだ火は消えていない。今川義元が残した火、徳川家康が北畠に行っていた織田信雄を担ぎ、秀吉に仕掛けたのだ。
圧倒的戦力差であったが家康は勝ちに勝った。秀吉が容易く勝利できると思い任せていた大兵力を砕き、天下を揺らがせんと死力を尽くす。
だが、秀吉が自ら動き一気に状況は悪化。最後には徳川方の大義であった織田信雄が勝手に秀吉と講和を結び、これにて家康の足掻きは終わった。
最後の大勝負、そのつもりであったのに――
「父上がそなたに望んだことは、今川の旧領復帰などと言うつまらぬ夢か? 阿呆が。己のためにのみ才を振るえ。父上が認めた才気、ここで腐ることなど許さんぞ」
「……五郎、様」
「宗誾だ、阿呆。あとは任せた。私は京で公家と戯れるさ。今川は続く。そなたの手ではなく、私の手でな。精々楽しもう、お互いの人生を」
宗誾、今川氏真は京で雅な生涯を送る。彼なりの戦いにより、今川家は大名家として滅ぶも、その家名は末永く連なることとなる。
徳川家康もまた夢破れるも、義元より託された本当の夢へ向かうこととなる。これも歴史の妙、全ては一本の糸のように繋がっていた。
天正十八年、小田原征伐により北条が滅んだ。
北条の最大版図を築いたのは名君と謳われた氏康ではなく、氏政である。天下で巻き起こる騒乱の裏で着実に勢力を拡大し、力をつけてきた。
その石高、二百四十万石にも及ぶ。
だが、皮肉にもそれが彼らの判断を誤らせ、滅亡へと歩んでしまうのだ。
北条は秀吉への臣従を拒み、一時は関係改善のため歩み寄る姿勢もあったが、最終的には決裂し争うことになった。
関東の絶対王者にまで上り詰めた北条であったが、天下人織田を喰らい、西日本も貪り尽くした豊臣(関白就任時に改姓)秀吉の前では無力。
謙信を、信玄を、弾き返した小田原城は三か月の籠城の末、開城。後詰無き籠城は無為であり、如何なる堅城も意味をなさぬことが証明された。ただの一度も抜かれなかった小田原城は伝説となり、大名家北条は伝説と共に滅亡する。
五代北条、その積み重ねは関東を秀吉より託された徳川家康に連なる。家康は後々、北条の施策から学び、江戸の統治にも生かした。彼だけではない、のちの世の将軍たちもまた、北条を顧みて学ぶことは多かった。
滅んでも全てが失われるわけではない。
続くものがあり、絶えるものもある。
日本を統一し、栄華を極めた豊臣秀吉もまた晩年の評価は散々なものである。結局のところ、信長同様地盤の弱さゆえ信じられる者が少なく、力の衰えと共に疑心が勝り、かつて持ち合わせていた輝きが薄れてしまったのだろう。
もしくはただ、挑む先を失い人生に迷ったか。
朝鮮へ手を伸ばしたのはその影を追っていたのかもしれない。無論、それなりの狙いもあっただろうが、それを知る者はいない。
最後は病に倒れ、散る。
武家の当主が倒れ、盤石とは言えぬ体制となった以上、織田の時同様争いは避けられない。五大老筆頭の家康が台頭、しかしそれをよく思わぬ者たちが立ち上がり、これまた既視感のある御家騒動へと発展していく。
関ヶ原の戦いはその延長線上の話。
結果として豊臣秀吉の影を踏むように、徳川家康もまた勝利し天下を掴む。
ただ、彼は義元の夢をかなえるため、畿内ではなく自らの領地である江戸を御座所とし、江戸幕府を開く。北条の緻密な検地を下敷きに、徳川もまた当時の技術、その粋を結集して生み出された水の都、江戸。
湿地帯を治水技術で日本一の都にしたのだから、やはり彼には武人以上に統治者としての才能があったのだろう。
『父』の夢を叶えた家康もまた、この世を去る。
平和の礎を築き、争いの時代を終わらせて――
○
一人の枯れ枝のように老いた琵琶法師が日本海に向かい琵琶を奏で、
「祇園精舎の鐘の声」
平家物語を物語る。
「諸行無常の響あり」
海は穏やかに寄せては返し、幾度も幾度もただ繰り返す。
「沙羅双樹の花の色」
人の世も、人生もまた同じ。
「盛者必衰の理をあらはす」
波の高さは多種多様であるが、いずれは皆辿り着くべきところへ至り、消える。
「おごれる人も久しからず」
世界とはかくも無常である。
「ただ春の夜の夢の如し」
それでも人は生きるのだ。無常の世を、ただひたすらに。
「たけき者も遂には滅びぬ」
龍ほどに強き人でも同じこと。ただひたすらに生きて、生きて、散った。きっと悔いはない。少なくとも同じ人生を繰り返しても、節制など無縁であろう。
栄華を酒と例え、人生を夢とのたまう男であれば当然のこと。
「ひとえに風の前の塵に同じ」
皆、生きて、死ぬ。その螺旋の中で人は歩み続ける。
入れ替わり、立ち代わり――
「いい声だな、御坊」
「……おや、随分と懐かしい声がしたような。どちら様ですかな?」
琵琶法師の背後に、いつの間にか一人の観客がいた。法師は盲人であり、その姿は見えない。ただ、妙に懐かしい気配がした。
何故だろうか。もう己の知り合いなど誰も生きてはいないのに。
「名乗るほどの者ではない。とある旗本の四男坊よ。継ぐものがなく、剣の腕はこう見えて達者だが太平の世では振るう機会もなくての。お伊勢参りと称して諸国を漫遊しておる。いわばごく潰しよ、ぶはははは!」
「……お、お伊勢参りですか?」
「おう」
「……海が逆ですが」
「ぶは、そんなこと知っておるわい。方便よ方便。俺は何物にも縛られぬ。ガミガミ煩い父上、母上にも、甘い言葉を吐きながら俺を働かせようとする兄や姉にも、ぐちぐち煩い幼馴染共にも負けぬのだ。結婚などせぬぞ、あれは墓場と同じよ!」
「……さようですか」
「うむ!」
どうやら結婚を迫られ、其処から旅に逃げてきた様子。何とも言えぬダメ男感が漂っているが、不思議と嫌悪感はない。
「御坊は何故誰もおらぬところで物語っておった?」
「ただ、弔いを」
「この海で誰かが死んだのか?」
「海ではなく……いえ、何でもありません。ただ歌いたくなっただけです」
「ぶは、その気持ちは俺もわかるぞ。俺も琵琶が得意でな。笛も吹けるし歌も上手い。碁も将棋も得手で、ついでに剣も無敵よ、無敵。いずれ幅を利かせておる柳生辺りに喧嘩でも売ってやろうと思っとるほどだ。父上に殺されそうだが、ぶはは!」
「何でも出来るのですね」
「おう。何でも出来るし、何でもやりたい」
見ずともわかる笑顔。人生を謳歌している者の気配がする。
それがとても嬉しくて――
「おい、どうした? 何故泣く?」
「いえ、何でもありません。年寄りにはよくあることですので」
「そ、そうか? 父上もじきそうなるのか……たまには孝行でもしてやらんとのぉ」
「それがよろしいかと」
「でもしばらくは自由に生きるぞ」
「それもよろしいかと」
「ぶは、御坊は何でも肯定してくれるのだな。居心地が良い。歌も心地よかった」
「それはよかった」
「本当に上達したの、弥太郎」
「……っ」
法師は見えぬ目を見開くが、其処には誰もいない。あの人がいるわけがない。それでも何故か、何故か無性に、琵琶を奏でたくなった。
そんな気分はとても久しぶりであった。
「ではな、御坊。俺は先を征くぞ」
「お伊勢に、ですか?」
「ぶはははは! その通り!」
「では、旅の無事を祈り、自由に弾かせて頂きましょう」
「あまり良い演奏をするなよ。留まりたくなるからな」
「それは申し訳ない。当方、これ一本で長く生きてきましたので、腕には自信しかありませぬ。……さらば、名も知らぬ旅人よ」
「うむ。さらばだ、名も知れぬ琵琶法師よ」
旅人は琵琶法師の見事な演奏を背に、歩み出す。目的地はない。逆に伊勢を目指すのも面白いし、九州でも、逆に北へ向かうのも面白い。
何処へ行ってもいい。路銀が尽きぬ限り。まあ尽きたなら稼げばいい。何でも出来るし、何だってやりたい。
「さて、どこへ征こうかの」
旅人は自由に、人生を謳歌する。
龍の雲を得る如し 富士田けやき @Fujita_Keyaki
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