第弐佰拾玖話:龍の見た夢
「――虎千代、虎千代、起きなさい」
「……くぁ」
「早く支度しなさいな」
「む、ババアに母上、珍しいのぉ、二人そろって」
「今日は虎様と市にお買い物なの」
「だからささっと出ていきなさいな、虎千代」
「……けっ、のけものか」
何か違和感を抱きながら、虎千代は立ち上がった。体が羽のように軽い。何故だろう、それは随分と久しぶりのことに感じた。
「兄上は?」
「今日は御父様の仕事の付き添い。早く虎千代も行けると良いわね」
「要らん。俺は自由なのだ」
「んもう、誰に似たのやら。ねえ、金津」
「……」
「なんで何も言わないの? ん?」
「いってきます!」
危険を察知し、脱兎の如く駆ける虎千代。その身体はやはり軽く、とても自分のものとは思えぬほどであった。
おかしな話である。
これは紛れもなく自分の身体であるというのに。
春日山の景色も代わり映えのない、『昔のまま』であった。何故か今日は随分と懐かしく感じるが、気のせいであろうと虎千代は楽観的に笑う。
「おや、お急ぎですかの、若様」
「おお、定満か。特に急いではおらぬが……隣におる若造は……政景?」
「若造……四つも私の方が上だぞ」
「まあまあ」
宇佐美定満が長尾政景をなだめるも若き政景はぷりぷりと激怒する。そんな景色が何故か、無性に愛しく感じるのは、何故だろうか。
「これから政景殿と一杯やるのですがどうですか? 舟ですぞ舟」
「舟遊びか! いいのぉ。寺よりそっちの方が楽しそうじゃのぉ」
「童は寺で読み書きでもしておれ」
「こやつ、無礼よな。切り捨てたろか」
「やってみろクソガキ」
「まあまあ」
定満が政景を引きずり虎千代から引き離す。折角面白くなってきそうなのに、これだから老成した者はいかん、と虎千代もぷりぷり怒っていた。
こんな心境で自分の本拠地に戻るわけにはいかない。何処かで発散する必要があるな、と虎千代は何処ぞから愛用の小鬼の面を取り出し装着する。
目指すは春日山城、父の仕事場である。
体が軽い。瞬く間についた。山道もまるで苦にならない。
ずっと引っ掛かりがある。だけど直視したくない、と言う思いもあった。浸ればいい。存分に、たとえこれが只の夢であろうとも。
春日山城は妙にちぐはぐな気がした。昔と今が混ざっているような、そんな感覚。ただ、今の虎千代にはそんなこと関係ない。
手始めに、
「たのもー!」
柿崎邸に襲撃、戸を打ち鳴らし激怒して飛び出てきた柿崎に向かってケツを叩き、そのまま走り去る。とんでもないクソガキである。
「虎千代! 景家殿に謝りなさい!」
「ぶはは、兄上! この俺に謝らせたくば捕まえてみよ!」
「……まったく、この悪たれめ」
「阿呆が」
「父上が甘い顔をされるからああなるのです」
「甘い顔などしておらぬ」
「鏡、ご覧になった方がよろしいかと」
「……」
兄晴景、父為景の姿も見えた。何の仕事をしているのか知らないが本庄実乃、それに平子らもいる。大人は大変だなぁ、と想い脱兎の如く駆ける。
「逃がしませんぞ!」
「義旧か! ぶはは! この俺は誰にも捕まらん! 誰よりも強く、誰よりも速く、それが俺様長尾虎千代であるのだァ!」
「ぐぬ、小癪な!」
最終防衛、金津義旧を華麗にぶち抜き、散々城内をひっかけ回した虎千代は満足して春日山城を後にする。また悪戯しに来ようと心に誓って。
春日山きっての悪童、小鬼の虎千代とは己のことである。
ようやくいつもの足取りで山門を潜り、自分の本拠地が待つ林泉寺に訪れた。顔見知りの僧が山ほどいる。時折、林泉寺の僧でないのも混じっているような――何処かで、駿府で、見たような。虎千代は頭を振る。
それは気のせいだと。
珍しく繁盛しているようで、参拝客の中には美しい顔の女性がいた。浮かぶ景色は箱根の隠し湯、山の猿しか知らぬような場所に――
「っ」
他にも女性はいた。皆素朴な、何処ぞの村や町娘ばかり。何が楽しいのかずっと笑顔を浮かべている。その笑顔が眩しく、何故か胸が苦しくなった。
「おお、虎千代か」
「覚明殿、待った」
「光育殿、待ったはなしですよ」
「むうう」
「ジジイに、覚明」
「どうした、虎千代。そのお化けでも見たような顔は?」
「……な、何でもない」
「五手前に戻れぬかのぉ?」
「それはもう待ったとかいう話ではないですぞ」
虎千代は何も言わずに二人から背を向ける。
その背に、
「虎千代。やり残したことがあるのなら……向き合うことです」
「……今まさに待ったをして勝敗から目をそらすジジイになぞ、言われたくないわ」
「はは、耳が痛い」
光育の言葉が刺さる。
とうの昔にわかっていた。わかっていたのだ。
自分の故郷、心はずっとここにあった。林泉寺の片隅にぽつりと立つ離れ。自分だけの城。とっくの昔に存在しない、消し去った故郷である。
「ただいま」
「おかえり、とら」
「……やはり、か」
離れの中には美しい少女が、小梅がいた。記憶のまま、穢れ無き美しき娘の眼が真っすぐと、自分を貫く。
哀しいほどにそのまなざしは――
「度し難いぞ、上杉不識庵謙信!」
孤高に立つ男へ、これが夢であることを突きつける。
○
上杉謙信が目を覚ますと、其処は闇の中であった。夜、なのだろうか。それともそう見えるだけなのだろうか。それはわからない。
わかるのは――
(……動けん、のぉ)
夢の中ではあれほど軽快に走り回っていた身体が、今は意志の力で何一つ動かせない。重いとか、軽いとか、そう言う話ではない。
無なのだ。何も出来ない。
言葉も、
(……参った)
小さく、かすれた何かが出ただけ。とても言葉とは認識できないだろう。思えば随分と身体を酷使してきた。倒れた瞬間は天を、織田の天運を恨んだものだが、そもそも浴びるほど酒を飲み、肴に塩や梅を爆食していたのは他ならぬ己自身である。
因果応報と言えばそれまで。
「とら?」
(……誰か、おるのか? これも夢か?)
闇の中、近づいてくる影。謙信はただそれを眺めていることしか出来ない。何せ身体がピクリとも動かないのだ。仕方がないだろう。
これは夢か、それとも現実か。
それを確かめられたのは、
「起きていますか?」
僧侶の格好をした、
「……ば、ばあ」
「……開口一番、何ふざけたこと言って、んのよ」
直江文、
「……ぶ、は」
彼女がいたから。記憶よりもさらに、少しばかり老けたか。それでも年齢を考えたら充分に美しい。己には及ばぬが、凡人の割にはよく頑張った。
などと上から目線の感想を想う。
まあ口が裂けても美しいなどと、彼女には言えぬが。
「厠で倒れて、それを綾様、あ、仙桃院様が見つけてくださって、持の字が飛んで帰って来たと思ったら、とらが倒れたって」
(……そうか。しかしこやつ、もっと落ち着いて、要点のみを話してくれんかのぉ。姉上のくだりはともかく、持の字くだりはいるか?)
口は回らぬが、存外頭は回る。考えることはたくさんある。ただ、それを伝える方法がない。手は太刀どころか筆も持てず、自力で起き上がることすら困難。
(まあ、慌てふためいた持の字を想像すると笑えるが。とうの昔に大きくなったのに、いつまで経っても俺の眼にはあの頃のまま映る。不思議なことだ)
これだけ口も回らねば、意思を伝えるのも一苦労だろう。
それに、
(……いかんな。眠気が……これは、飲まれてはならぬ気がする)
どうやら時間もそれほど残されていないようであった。まさか自分が倒れるとは思っていなかったので、そのために必要なことは全て中途半端、越後にとっては最悪の状況であろう。織田との関係、後継者問題。
あらゆるものが逆風となって襲い掛かって来る。御家のことを考えたなら死に物狂いで立ち上がらねばならない。好敵手であった虎を笑っていたが、これでは判を押したかのように同じである。実に情けない。
ただ、同時にこうも思う。
(俺がいないのであれば……それも悪くない、か)
ここで無理に後継者を指名し、建前の上で継承を果たしたならば、問題は当然織田との争いに絞られる。それこそ武田と同じ末路、信玄亡き武田が織田に手も足も出なかったように、謙信亡き上杉が織田に敗れるのもまた必定。
ならばあえて放置し、割れさせるのもまた一興か。
織田に利することとなるが、それはもう仕方がない。
(……節制を怠った、俺が悪い)
御家の問題を結論付けると、存外伝えるべき言葉など無いことに気づく。目の前にはただ己を見つめる者が一人。遅い時間なのか、周りには他に誰もいない。
悪くない、と謙信は思う。
「……あ」
「なに?」
(……最後くらい、しゃんとせよ、俺)
思うように回らぬ口を、何も感じぬ手を叱咤し、すべきことは全て放り投げ、最後の最後でやりたいことだけに注力する。
だが、その手はピクリとも動かず、
「……大丈夫。私がそばにいますよ」
(……相変わらず、無駄に気の回る女よなぁ)
動かず、何の意図も発していないはずなのに、文は謙信の手をぎゅっと握った。かすかに、ほんの少しだけ、ぬくもりが伝わる。
「あ……い、し」
「……あいし?」
「……て……る」
「……」
さすがに聞き取れたのか、文が大きく目を見開く。してやったり、謙信は心の中で悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「……今言うべきことじゃ、ないでしょ。馬鹿じゃないの」
「……」
手を握り返すことは出来ない。口喧嘩をすることももう敵わない。最後のひと絞り、何を口ずさむか考えた時、答えは一つしかなかった。
最後まで、上杉謙信と言う人間は我がままだったな、と自嘲する。
「もっと長生きしてよ」
(すまぬ)
「最強の、軍神なんでしょ?」
(……ただの人間だ)
「一人は寂しいよ」
(ああ。その通りだな。くそ、文の顔が、かすんで……)
謙信の視界がかすむ。必死に、意識を浮かべようとするが、何かが自分を引きずり込もうとする。抗い切れない。抗い方がわからない。
ただ必死に、文の手のぬくもりだけを頼りに――
「……つらい?」
(……辛くない)
「……ごめんね。私のことばっかりで」
(謝るな。阿呆が)
足掻けども、足掻けども、どんどん沈みゆく。
「……」
「……」
人はどこへ往くのだろうか。散々仏教を利用してきたが、それが真実とは思わない。ただ、終わりを目前に控え、少しだけそれを信じる者たちの気持ちが分かった。寄る辺なき終わりの、何と心細き事よ。
天国も地獄も関係がない。
どちらでも良いから答えがあって欲しい。その気持ちがようやくわかった。
だからと言って今の在り様を認める気はないが。
静寂が耳朶を優しく撫でる。
(本当に、察しの良過ぎる、女よなぁ)
文は謙信の足掻きを、苦しみを理解し、言葉を重ね引き留めることをやめていた。それに応えようと必死に抗う、その辛さから解放しようと――
寂しかろう。辛かろう。残された者の気持ちは痛いほどわかる。
それでも彼女はかすかな視界の中で、涙を見せず気丈に微笑む。発狂して館を荒らし回った何処かの誰かとは大違い。
芯が強い。強過ぎるから、こんなにも割を食った。
(……ありがとう)
沈む。もう浮き上がれぬほどに。されど心細くはない。掌には確かに、寄る辺があったから。離れで、栃尾で、春日山城で――
忘れ難き日々が、己の寄る辺である。
「おやすみ、虎千代」
(おやすみ、文)
男は生きる意味を求め、無理やり怒りの火を燃やしていた。孤独を癒すために戦いを求めた。しかし今、生と死の狭間に立ち想う。
もう、あの純粋無垢な幼少期に芽生えた怒りは風化していたのだと。
梅を、好敵手たちを失った天への差配もまた、今となっては怒るのも虚しいだけ。天運には偏りはある。自らはむしろ、今までそれを享受してきた。
それが自らの思うようにいかぬから怒るのは、我がまま以外の何物でもないだろう。身勝手な感情の発露、そうでもせねば耐えられなかった己の弱さ。
一人で生きるには弱過ぎた。誰かと寄り添うには強過ぎた。
その矛盾が上杉謙信と言う謎めいた傑物を生んだのだ。
誰よりも強く、誰よりも弱かった男は今、
「また、一緒に遊びましょうね。いつか、何処かで」
愛する者に抱かれ、静かに果てた。
天正六年三月十三日未の刻、越後の龍、『軍神』上杉不識庵謙信、散る。
享年四十九、生涯独身、その全てを戦に捧げた人生であった。
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