第弐佰拾捌話:三月九日
天正六年三月初旬、甘粕景持はとある寺院にて必勝を祈願し、そのままその隣にある尼寺の僧侶から碁の指導を受けていた。近衛絶は寺院に勉強を教わりに来た童らに畿内の寺院仕込みの槍術を教え、皆の人気者となっていた。
「先日、斎藤殿も参られましたよ」
「あの御仁も律儀な方ですね」
「本当に。ここも随分と静かになりましたから」
「……青岩院様がご存命であれば」
「人はいずれ死ぬものです」
「……寂しいですね」
「その分、生まれて騒がしくなりますよ」
「確かに。それにしても随分と僧侶が板についてきましたな」
「これでも気づけば古株の僧侶ですから。年季も入ります」
「……そんなに経ちましたか」
「そんなに経ちました」
直江文がここに来て随分と時が経った。気づけば古株の僧侶として尼寺を引っ張る立場となり、若い僧侶や戦続きで増え続ける未亡人らから慕われている。
居心地は悪くない。むしろ、馴染んで居心地が良くなった。
「戦は大丈夫そうですか?」
「わかりません。御実城様の頭の中に在る絵に、我らは粛々と従うのみです。己が浅慮など及ばぬことは、これまでの戦で十分理解しました」
「……あくまで人の成すこと。考えが足らぬだけです」
「……耳が痛い」
あの人を、目の前の師を超えると意気込んだものの、円熟しさらに鋭さを増した打ち方を前に、戦続きで片手間にしか碁などやれなくなった景持では歯が立たない。いや、それは言い訳であろう。これは模擬戦、戦の縮図である。
結局のところ、読みの深さが足りていないのだ。
「……先代が亡くなりました」
「存じておりますよ。父上もいい歳でしたから」
「今なら、文春殿が戻られて異を唱える者はおりませぬ」
「今更です」
「今だからこそ!」
「盤面に集中なさい」
とん、と打たれた一手は右辺の急所を突くものであった。景持は頭を抱え、考え込むも上手く対処する手が思いつかず、手損覚悟で広く受ける。
御実城様顔負けの荒らし。相変わらず景持を相手取る時は龍の如く攻めて来る。
「もうお互い年を取りました。顔を見なさいな。しわが刻まれ、肌も乾き、私も立派なお年寄りです。あちらもそうでしょう」
「ま、まだいけます」
「あちらはそうかもしれませんね。昔から顔が良く、根っこが童ですから。きっと若々しく見える。けど、見えるだけです。心はもう、あの頃とは違う」
「……もう、愛されていないと?」
「愛の形が変わっただけです。今更寄り添う関係は気恥ずかしいですが、ただ想うだけならば構わぬでしょう? 私は愛しておりますよ。あちらは知りませんけれど」
「愛しておりますとも。必ず」
「さあ、どうでしょうかね。人の心は移ろい行くものですから」
「……結局臆病なのです。御実城様も、文春殿も!」
「まこと、その通りですねえ」
景持は歯痒く思う。子どもの眼から見ても、栃尾の時二人は愛し合っていた。支え合っていた。それに対し『母』を奪われた気分となり、拗ねていた自分が一番の証人である。梅が現れ、多少状況は変わったが、其処が揺らいだとは思わない。
どちらかが歩み寄れば、それは成ったのだ。
命じられたなら自分の手を汚してでも景綱の排除に動いた。そもそも本気で押し通す気なら、小田原以降の謙信は景綱でさえ止められなかったはず。
それだけ圧倒的だった。今はもう、誰も手が届かぬ山巓にいる。
あの天下の織田軍ですら赤子の手を捻るかのように破ったのだ。日本一、今となっては疑いようがない。この時代最強、そう確信している。
だと言うのに、たかが女一つ手を伸ばせぬのは歯痒くて仕方がない。
「……参りました!」
「負けると思っていては伸びるものも伸びませんよ」
「……どちらも化け物ですよ」
「あちらもこちらも人間です。もし、いなくなった後はどうするつもりですか?」
「……どちらも何故か自分の方が先に死ぬ気が」
「馬鹿者。そんな親不孝者がありますか」
「……どちらも親では」
「親代わりと思っていましたが……違いましたか?」
「……違いません」
「それはよかった。あの人もきっと、そう思っておりますよ」
「……そうでしょうか?」
「もちろん」
文春の美しい笑顔を見て、景持は目を伏せる。ただ幸せになって欲しかった。この二人が、そう在る明日を望んだだけなのに。
「武運は祈りません。ただ、健勝であることを祈ります」
「……武運も祈ってください」
「贅沢は敵です」
「……僧侶ですねえ」
「ええ。古株ですから」
二人の『親子』は笑い合う。
時は天正六年三月初旬、上杉謙信が国中に発した大動員令は三月十五日となっていた。とうとう、天下(畿内)へ龍が赴くのだ。過去に行われたものとは違う。大戦力を率い、権威ではなく武威を示しに赴く。
阻むは天下人織田信長。
この戦いの結果次第では日本全土が揺らぐだろう。細川、三好、そして織田が手に入れた座に、今度は上杉が座す、とは景持には思えなかった。
もっと何か、とんでもないことが起きる。
だが、景持は考えない。龍が望むがまま、共に槍を振るうことだけを考える。
「帰るぞ、絶」
「うむ。戦ですね!」
「ああ、戦だ」
龍の露払い、それが己の役割と『息子』は腹を決めていた。
○
足利義昭は織田の敗北を知り、嬉々としていた。毛利をけしかけ、己が畿内へ、京へ戻る日も近い。やはり天は己を、足利を見捨てていなかった。
風向きが変われば皆一斉に織田の敵と成ろう。
所詮は新参者、血統が足らぬ者の末路。
この国は常に良血が支配してきたのだ。今までも、これからも。
それがこの国、日本である。
○
武田勝頼は越後の躍進に肩を撫で下ろしていた。このまま順当にいけば、織田は武田へ戦力を向ける余裕などなくなる。先の敗戦でようやく武田家の手綱を握ることが出来た。本拠地を移し、効率的に国家の運営をする。
甲斐と信濃の融和。まだ倒れぬ。まだやれる。織田家を押し返してくれたなら、ここから巻き返すことは十分可能。
北条、そして上杉とも手を結ぶ。勝頼は手段を選ぶ気など無かった。信玄が残した負の遺産を何とか清算し、次に繋げるのが己の役割であるから。
○
北条氏政は怯えていた。織田ならば間違いはない。天下人の陣営につき、彼らの力も借りて上杉を討つ。この絵図が崩れかけていたから。
織田が敗れたなら、その動きに乗っかった自分たちが次に狙われる。今の織田を打ち破った軍に、獅子を欠いた北条軍が勝てるのだろうか。
いや、そもそも獅子がいても勝てる気がしない。
今の織田軍を破る方法など、氏政には皆目見当がつかなかったから。
○
徳川家康は静かに、機を窺っていた。上杉の動き次第では織田との同盟、蹴り飛ばすつもりであったのだ。今、今川家の当主であった氏真はここ三河の地にいる。牧野城主として権限を預け、浜松の地にて時を待ってもらっていた。
そう、狙いは織田家の支配から脱却し、駿河の地を今川へ返すこと。父代わりであった恩人、今川義元との誓いを果たすべく、入念の準備していたのだ。
織田が健在である以上、武田から駿河を得たとしても今川へ返すことなど出来ぬだろう。今川家が旧領を回復するためには、織田が倒れなければならない。
上杉がここまで強いとは思わなかったが、どうやら風はこちらへ吹いてきたようである。備えはある。幾年も準備をしてきた。
「無理をする必要はないぞ。今川は敗れたのだから」
「宗誾(氏真の法号。この時期には剃髪していた)殿のためではない。全ては先代の、大殿のため。私はやる。何としてでも」
「……そうか」
氏真自身はすでに織田和解済みである。文化人としての教養と、卓越した武勇、そして蹴鞠の才覚が信長の琴線に触れたのだ。
公家と共に蹴鞠を披露し、表向きは上手くやっている。血を残すことは難しくないだろう。ただ、旧領回復となれば別。
信長が健在であれば許すわけがない。
上杉が織田を討てばそれもかなうだろう。だが、氏真はそう上手くいくとは思えなかった。何よりも自分が大名今川家を支えられるとも思えなかった。
父の期待は正しかったのだ。
担うべきは、自分ではなくこの男。長い年月と大いなる挫折が氏真の重く降り積もった嫉妬を払った。今はただ、間違えずに生き永らえて欲しい。
機会は必ず来る。天が義元の期待した才人を、放っておくわけがないはずだから。
待てば来る。家康の時代が。
○
織田陣営は必死に考えていた。上杉はどう仕掛けてくるか、それに同調して毛利や本願寺はどう動くか、あらゆる状況を予期し、対策を用意しておく。
すでに光秀は丹波国を攻め、秀吉は昨年から毛利の影響下にある播磨国を平定、そのまま但馬国に乗り込みつつ、毛利を押し込み対上杉の土壌を整えていた。
上杉との決戦に注力するためにも、今の内に外野は黙らせておく。
二手に分かれながらも、二人は常に上杉の仕掛けについて考えていた。正面から来るとは思えない。昨年敗れたが、その程度で揺らぐような地盤ではないのだ。一勢力だけが相手ならどこが相手でも数で押し潰せるだけの地力が織田にはある。
搦手はある。その搦手を見切らねば、また敗れる。
(松永のように毛利らを使うか?)
(使わせぬよ。わしが奴らの動きに先んじて潰す)
(武田を動かす?)
(徳川が潰れ役になってもらえばええ話じゃ。嫌とは言わせん)
(単独で来るか)
(うむ。わしの勘が単独で勝ちに来ると言うておる)
(であればどう捌く)
(考えろ。見えねば、負けるぞ)
二人は国攻めと言う大役を任されながらも、頭の中は常に最強の敵へ焦点を合わせていた。この一戦で全てが決まる。
織田の弱さは権威にある。所詮は尾張の守護、守護代ですらなかった家柄である。成り上がりをよく思わぬ者など畿内にはごまんといるだろう。
上杉が畿内へ入り込めば、必ずそこから崩れていく。力で誤魔化せていた部分があらわとなり、今は大人しい畿内の魑魅魍魎が敵へと裏返るだろう。
織田は固唾を飲み、上杉の動向を窺っていた。
決戦に備えて――
○
上杉謙信は厠にいた。子どもの頃から本当に勝ちたい時、主に覚明との碁であったが、よく厠で考え事をしていたものである。演出の一環で最近では毘沙門堂を使うことが多かったが、今回は正真正銘自身最大の大勝負となる。
ならば、今更演出など必要ない。
最も居心地のいい閉鎖空間で、存分に思考の海に溺れよう。
大まかな策はある。すでに蔵田にはその手はずで色々な販路を模索してもらっている。行軍と同時に、一気に仕掛ける。ただ、その一手はすぐに効果を発揮するものではない。ある程度時間が必要であるし、一戦は自力で勝つ必要があるだろう。
その絵図を頭の中で描く。
空想の中の碁盤、戦場を俯瞰した景色。自らの手には石。これが兵士である。碁とはよく出来たもの。先の一戦は奇襲、夜襲の鬼手であったが、相手も阿呆ではないから同じ手は食わんだろう。今度はこちらも王道を征く。
戦の本質とは碁と同じ、陣取りにある。如何に少ない手数で、より多くの陣を得るか。有利な地形を押さえ、相手に睨みを利かせられるか。
碁と違い互いの石の数は等しくない。今いる場所、今押さえている土地も違う。だが、本質は変わらず、俯瞰さえ出来ていれば碁と同じ。
織田の手を読み、先回りする。
何処に石を置き、相手を遮るか、分断するか。
空想の中で打ち回す。何度も考えた。何度も繰り返した。最善手を捻り出し、戦力差を埋める。難しいことはない。何度ももう一人の『兄』と打ち回した。
何度も愛する者と打ち合ってきた。
今日は戦場が良く見える。
こういう日は必ず素晴らしい手が生まれ、良い対局となる。
相手の方が有利、ならば手堅く捌くだけでは足りない。相手へと切り込む覚悟が要る。何度も自分は飛び込んできた。何度も名手が弾き返してくれた。
おかげで鉄壁の喰い破り方を学ぶことが出来た。
深く切り込む。身を削りながら、場を荒らす。苦しい戦いである。劣勢を覆すとは、盤石を崩すとは、脳に汗をかかねば成せぬ奇跡であるから。
力と技。覚悟と英知。
あとは己の嗅覚を信じ、打ち回すのみ。
崩せるか、際どい。残るか、難しい。
それでも――
「……ぶは」
上杉謙信は笑った。子どもの時と同じように、無邪気な笑顔を浮かべる。背中に滲む汗が心地よい。勝利への道筋が見えた。
最後の一手に込められた確かな勝利への感触。覚明ならば褒めてくれるだろうか。文ならば悔しそうにしてくれるだろうか。
それを想うだけで笑みがこぼれてしまう。
己は相変わらず童のまま――
「勝った」
誰にも聞こえぬ勝利の宣言。謙信だけが知る勝利への道。
それを抱き、充足の中、
ぷつん
頭の中で何か、音がした。ぐらりと景色が揺れる。
「あっ」
膝が崩れる。目の前が真っ白になる。確かに在った勝利への道筋、その手に掴んだ絶対が、零れ落ちる。
(……ぶは、これは……読みが、抜けておった、わ)
そして、意識が途絶えた。
天正六年三月九日、遠征まであと六日のことであった。
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