第弐佰拾漆話:龍は天にて君臨す

 織田信長はある程度覚悟をしていた。誰も手が付けられないほど上り調子であった羽柴秀吉が怯えを隠さず、普段弱音などおくびを見せぬ掛かれ柴田がこのような文を残した。だからこそ、敗戦の覚悟はあったのだ。

 だが、

「……手も足も出ずに、敗れた? 権六がか?」

「……はっ。索敵の外側より上杉軍が夜襲を仕掛けて来て、成すすべなく敗れ去りました。総大将の柴田殿らは無事ですが、死傷者数は不明です」

「……相手の損害は?」

「ほぼ、皆無かと」

 ここまでの大敗は予想していなかった。王道と言うのは読みやすいが、それでも抗し難いものであるから王道、最善手となる。手を抜かず、油断せず、基本に忠実に戦を進めたなら、大敗など早々あることではない。

 信長にとって敗北は決して珍しいことではない。むしろ敗北を糧に、同じ過ちを繰り返さず学び続けてきたから今がある。今までの敗北には常に隙があり、今思えば敗れるのも必然であった。信長の強みは其処の修正力にあるから。

 ただ、今回は何も浮かばない。滝川一益から送られてきた者の報告を幾度聞いても、勝家に落ち度は見えなかった。少なくとも己には。

 想像しろと言う方がおかしいのだ。

 誰もが知る畠山氏が誇る堅城、『天宮』七尾城をあっさりと落とす。

 返す刀ですぐさま大軍を早駆け、通常の戦でも難しい大軍での夜襲を敢行、織田本隊を蹂躙する。結果を知らねば妄言としか思えぬだろう。

 情報を羅列し、読み取った戦場は歪が過ぎる。

「……」

「……」

 坂本城から呼び寄せていた明智光秀、こちらで謹慎処分を受けていた羽柴秀吉も絶句するしかない。負けるかもしれないと思っていても、ここまで美しく詰まされるなど消極意見を出した秀吉とて思わない。

 秀吉の言う通り手取川を渡河せず、守りを固めていれば大敗はなかった。と言うのは単なる結果論である。今回の戦、その趣旨が七尾城の、能登畠山氏の救援にある以上、副将ゆえのある種気楽さから進言出来ただけ。

 総大将なら、そう思っても秀吉とて実行出来なかっただろう。

 幾度顧みても、勝てる要素がない。敗北とは自らの隙が招くもの。歴戦の猛者ほどそう考えるが、そういう勝敗の綾が微塵も見えない。

 この戦に限れば――

「初めから、負けておったのか?」

「……羽柴殿に同意見です」

 開戦前にけりがついていたとしか思えない。

「七尾城の落城、勝算はあれど我らの侵攻に合わせ落とし切るのは不可能だ」

 信長はありえない、と首を振る。

「確かに不可能でしょうな。ただ、我らにわからぬ勝算があれば別。偶然頼りにしては、気持ち悪いほどに出来過ぎておりますので」

「ならば一度目の侵攻で落とせばよかっただろうに」

「其処、ですな」

「ええ」

 光秀、秀吉は共に深く考え込む。全てが偶然と切り捨てるのは楽である。再現性はなく、再現性の塊である王道は次回刺さる。

 それで終わり。

「例えば、一度退かせねばならなかった、とか?」

「……長家の話では、能登中の城が畠山に戻って来たと」

「ですな。戦略的には後手でしかない。兵を引き出したかったが、結局長は迷わず籠城を選択し、国中から物資を集め引きこもった」

「それだけ考えれば繰り返しじゃがの」

「一度目と、二度目の違い」

 光秀と秀吉は二人の世界に没入し、信長は置いてけぼりとなる。ただ、今は何も言うまい。むしろそうであってもらわねば困る。

 彼らで届かねば、おそらく織田陣営に龍と張り合える者などいない、と信長は考える。先ほどは偶然では、と疑問を呈したが信長も本気でそう考えてはいなかった。そうとしか思えぬだけで、本音は別のところにある。

 憎い相手である。敗北は心底悔しい。

 だが、同時に――

(私の、近衛殿の想いは、間違っていなかった)

 かつて抱いた憧れ。毘沙門天の化身にして義を重んずる『軍神』への想いは過ちではなかった、と信長は考えてしまう。もしこれが全て彼の掌の上で、ほんの少しの偶然も入っていないのならば、それこそ人の所業にあらず。

 現人神としか言いようがない。

 哀しいのは、共に並び歩めなかったことだけ。何の慰めにもならないが。

「入れ替わったのは物資。毒でも混ぜておったとか?」

「恐ろしい想像ですね。ただ、毒見はするでしょうし、全てに混ぜ込むのは現実的ではありません。数人、数十人毒殺したところで大勢は変わらぬでしょう」

「調略、はないか」

「一度目の包囲で駄目なら、より劣勢に見える二度目では難しいかと」

「何が違う? 何かが、必ず違うはずなのだ」

「……」

 織田家の双翼は龍に手を伸ばす。近くまで来ている感覚はあるのに、その手は虚空に触れるばかり。結局彼らはこの日龍には届かなかった。

 何かある。その考えに揺らぎはないのだが――

「申し訳ございませぬ。生き恥をさらし、おめおめと生き永らえ申した。敗戦の責任は自分にあり、如何なる処分も受ける所存でありまする」

 敗残の総大将、柴田勝家が京へ帰還する。頭を地面にこすりつけるようにひれ伏し、謝罪する様を見ずとも勝家から滲む覚悟は見て取れた。

 戻って来たのは処分を、死をもって責任を果たすため。

「……何の話だ、権六」

「……?」

「私の下には死傷者数不明との報告しか入ってきておらぬが、そなたはしかと数を数えられたのか、ん?」

「そ、それは――」

 確かに勝家らは死傷者数不明と報告をした。それは多くが手取川に沈んだことと、それ以上にあまりにも衝撃的な敗戦、上杉の神がかった戦に恐れをなした者たちが逃亡し、『死傷者数』が数えられなくなっただけ。

 そんなことは信長もわかっているはずなのだが――

「藤吉郎よ、わからぬものを私はどう罰すればよいのだ?」

「わからぬのなら、わかりませぬと返します」

「そうであろうな。私も同じ考えだ」

「御戯れを! それでは下の者に示しがつきませぬ!」

 敗れた責任、死んだ者への示しはどうつける、と勝家は激怒する。普通立場が逆であろうに、堅物はこれだからと信長はため息をつく。

「此度の戦、まさかこれで終わると思わぬよな、権六」

「無論」

「決着はついておらぬ。忌々しい松永のせいでな。だが、仕切り直すには良い機会だ。私はな、今又助には筆を置かせておる」

 又助、太田信定、のちの太田牛一とは元僧侶であり、織田家の内政官及び記録係でもある。有名な信長公記、軍記や伝記の作者でもあった。

 その彼に筆を置かせている、と言うことは――

「責任は勝って示せ。その後、納得がいかぬのなら又助には存分に筆を振るい、そなたの敗戦を書き連ねてやろう。無論、後に続くは織田家の勝利だがな」

「……」

「負けておらぬ戦の責任など取らせぬぞ」

「……はっ」

 信長は軍規違反を犯した秀吉を許し、敗れ去った勝家も許した。規範に厳しい男ではあるが、それと同時に身内にはどうしても甘くなる性質でもあった。

 良くも悪くも、織田信長とはそういう男なのである。

 それに今、東の脅威と抗うには少しでも戦力がいる。総大将として勝家は敗れ去ったが、掛かれ柴田の実力は己と同じく戦場で、槍を携えて前線を張った時にこそ発揮される。彼の力はまだまだ必要なのだ。

 誰一人欠けても、龍には届かぬ気がした。

 逆に言えば――

「今動かぬのなら今年はもう攻めて来ることはないだろう。皆、しかと備えよ。今までで最も強き相手だ。だからこそ、その先には静謐が待つ」

 ここにいる全員ならば届き得る。その想いが信長にはあった。

「天下布武、ここに示すぞ! 織田の総力を結集し、正義を成す!」

「応ッ!」

 未だ理解に至らず、目算も立たない。それでも信長は彼らを鼓舞した。必ず勝つのだと。正義を、大義をかざして。

 そしてさらに日が経ち、一つの真実が彼らの下へやって来る。

 能登よりようやく、間者が情報を持ち帰って来たのだ。

「疫病?」

「はっ。まずは市井の者が。その後畠山家当主も倒れ、内部が瓦解したところを遊佐らが反旗を翻し、上杉を招き入れて長家の者らを皆殺しにした、と」

「そうか。よくぞ情報を持ち帰った。大義であったぞ」

「いえ。情報戦に敗れたのは我らの失態。この借りは必ず、上杉に返して見せます。我ら甲賀の名に懸けて」

「期待しておる」

 信長はほっとしたような、肩透かしとなったかのような心地であった。やはり偶然であったのだ。その偶然を活かしたのは謙信の才覚。何ら評価が落ちることはない。怪物ではあるが、神ではなかった。

 それが判明し――

「「……疫病」」

 二人の傑物は同時に辿り着く。互いに目配せし、至った最悪に顔を歪めていた。秀吉は嫌悪に、光秀は驚愕に。二人は互いの反応で、確信を得た。

「上様」

「何だ、十兵衛よ」

「……疫病は天がもたらすもの。其処に人為はありませぬ」

「うむ。ゆえに――」

「が、それは発生について、です。移動に関しては人の手が介在することも可能」

「……何が言いたい?」

「此度の戦、上杉の動きによくわからぬものがありました。我らが北条を動かし、包囲を解かせた一手。結局、上杉は撤退すれど関東入りしませんでしたな」

「北条も本気ではなかった。それを察したのだろう。何もおかしくはない」

「もちろんです。これはあくまで推測ですから。ただ、もし、其処に意図があれば、一度撤退する必要があったとすれば、どうでしょうか?」

「……」

「上杉の撤退。それに乗じ長家は攻勢に転じ、上杉が奪った城を片っ端から奪い返しました。そして、上杉が戻ってくると同時に、急いで七尾城へ物資を、人をかき集めた。能登畠山氏が可能な、ほぼ最大動員数まで」

「……本気で、言っておるのか?」

「私も、羽柴殿も、そう考えております」

「わ、私が北条を動かすことは読めなかったはず!」

「北条が動いたのは偶然ですが、別に北条を動かす必要などなかった。例えば、関東の上杉方の城主が反旗を翻せば、理由付けなど容易です。それこそうってつけの人物がおりますしな。過去二度、上杉を裏切った男が」

「……では、何か? 端から力押しは諦め、相手の隙に乗じ疫病を抱えた者たちを流入、その蔓延を策に組み込んでいたと、そなたはそう申すのか!?」

「であれば、合点がいきます」

 車座になった織田陣営、その全員が絶句する。読めるわけがない。あくまで推測でしかないが、推測としても怖気が走る。人々が忌避し、遠ざける天の罰を用い、謙信は『天宮』を内側から滅ぼしたと言うのだ。

「敵は神か?」

「もしくは化生か。少なくとも、人の所業にあらず」

「く、くく、とんでもない怪物を敵に回していたわけか」

「あくまで推測ですが」

「……言うな。楽観は人を腐らせる。最悪で良い。其処に理屈が通ったのであれば、それを念頭に対策を練るべきだ」

「……それでよろしいかと」

 越中攻略から全てが繋がった。そして、繋がったからこそすべて別々と思っていた戦が一つとなったからこそ、その遠大さに目眩がしてしまう。

 松永久秀もまた一枚かんでいるのだろう。明らかに上杉にとって都合が良過ぎた。結局松永の思惑はわからず仕舞いであるが。

「勝てるか?」

「わかりませぬ」

「それでは困る」

「ですが、二人なら……金ヶ崎の奇跡をもう一度、成して見せましょう」

 光秀は秀吉に視線を送る。秀吉は大きく深呼吸したのち、力強く頷いた。織田家を選んだ自らの、本当の正念場が来たのだ。

「今度は勝ち戦でなければ困るぞ」

「それはその通りですね」

 これでわかる。己の器が。

 昇るか、落ちるか。

(願ってもない。わしはわしを知るために、武士と成ったのだから)

(我が身に自由は幾何か。されど一時、ただ面白き今に身をゆだねん)

 互いの思惑は知らない。わからない。

 それでも彼らは死線を通し、互いの実力は信頼していた。手を取るのなら、彼しかいない。並び立つならば、お互いしかいない。

「対上杉、総大将は明智惟任日向守と羽柴筑前守、二名に任せる」

「っ!?」

 前代未聞、総大将が二人と言う矛盾。船頭多くして船山に上る、これは正しいことであるのだ。二人がただの二人であるなら、必ず瓦解する。

 されど、信長はこれが最善と信じた。

「異議のある者は?」

「ありませぬ!」

 誰よりも大きな声で、織田家宿老柴田勝家が言い放った。この場で最も言い辛い立場である者が、誰よりも早く、大きく意思を表明した。

 なれば誰が、それに異を唱えられようか。

 織田陣営は今、最強最悪、まさに現人神を前に一枚岩となる。


     ○


 天正五年十二月、上杉謙信は手取川以南の守りを固めた上で、本拠地である春日山城へ帰還していた。道中、松永久秀の訃報が耳に入るも謙信は何も言わずに、ただ前だけを見て歩む。多くが去った。また一人、そうなっただけ。

 自ら死に場所を選べただけ、彼は幸せだったとすら思う。

「蔵田、次の戦……いくら出せる?」

「……二万七千ほど、国庫とは別に確保してございます」

「ぶは、貯めたのぉ」

「随分、時が経ちましたから」

「確かに。互いに老いたわ」

「新兵衛殿が見れば、腰を抜かすでしょうな」

「くく、その後に国へ還元せよと叱られるのだろうなぁ」

「還元されるのでしょう? これから」

「俺が散在するだけだ」

 春日山城の一角、上杉謙信と蔵田五郎左衛門、あとは亡き直江景綱ら限られた者のみが知る秘密金庫には約二万七千両の金が貯えられていた。現代価値に換算するのは難しいが、1文100円とするならざっと百億円相当である。

 金津義旧から蔵田へと業務を引き継ぎ、当時は財務担当であった大熊らも交えもしもの時に備えて、と言う名目でここまで蓄財していたのだ。

 無論、本当の使い道はもしもの時ではなく、ここぞと言う時のため、であるが。

 青苧を含めた日本海貿易による莫大な収益。それをせこせこと横領し続け、気づけばここまで膨れ上がった。誰も気づけるはずがない。

 今でいう総理大臣と財務大臣、官僚が手を組み、ちょろまかしているのだから。

「勝てますか?」

「俺を誰と心得る?」

「御見それいたしました」

 先の一戦はあくまで前哨戦。上杉謙信最大の戦はここから始まるのだ。相手は天下の大軍勢、まさか自分たちが資金力負けするとは思うまい。実際にあらゆる指標で越後一国と畿内を手中に収めた織田では勝負にならないだろう。

 だが、これだけの銭をただ一戦にぶち込めば話は別。

「鉄砲でも買い占めるのですか?」

「阿呆。攻め手たる俺たちにそのようなもの必要ない。優秀な武器であることは認めるがの、そんなもので戦の明暗は決まらぬ。今の性能では、な」

「では、他に何を?」

「もっと、戦の根幹に根差したものを奪う。気づいた時には時すでに遅し。戦とはな、まみえた時には勝敗など決まっておるのだ。いや――」

 上杉謙信はただ一人、山巓にて嗤う。

「決まって無ければならない。天とて必然の前には無力。この俺を天運如きで屠れると思うな。現世である限り、神すら俺には及ばぬ」

「……こわやこわや」

 今川義元は手緩かった。かつての自分ならばともかく、今の自分に桶狭間はあり得ない。絶対をその手に、謙信は必然を握る。

 紛れはない。運に介在の余地など与えない。

「存分に神風を吹かせよ。それを覆してこその意趣返しだァ」

 それが龍の戦である。


 戦国最強は天にて一人、ただ君臨す。

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