第弐佰拾陸話:燃ゆる天守、織田から見るか三好から見るか
「このうつけがァ!」
珍しく激怒する信長の前に土下座するのは戦線を離脱した秀吉であった。いくら意見が割れたとはいえ、勝手に戦列を離れるのは重大な軍規違反である。信長が腹を立てるのも仕方がないことであろう。
ただでさえ現在、突然反旗を翻した松永久秀の対応に苦慮しているところである。其処で信頼する秀吉が問題を起こしたのだ。
「私はそなたなら権六を支え、能登への救援及び加賀国の平定も上手くやってくれる、そう思っていた。それが、意見が食い違ったから離れた、だと」
信長は怒りに震え、今にも近くの刀を抜き放ちそうな様子であった。秀吉はただ、何も言わずに平伏するばかり。
「のお、藤吉郎よ」
「……」
「殊勝な顔はそなたに似合わぬぞ。こういう時にそつなく仕事をこなすのがそなたであったと私は思っていた。軍には序列がある。今までとて、納得のいかぬ命令を飲み込んできたこともあろう。何故、今回に限ってそうなる?」
「……勝てぬと、思いました」
「ならば尚更、周りを使ってでも権六を説得し――」
「無理です」
「何故だ?」
「私は柴田殿に七尾城を見捨てよ、と伝えました」
「……」
「上様はどう思われますか?」
「七尾城は落ちていたのか?」
「わかりません」
「上杉軍が迫っていたのか?」
「わかりません」
「……何の確証もなく今回の戦の主題ともいえる七尾城の救援を捨てろと、そなたは申したのか?」
「はい」
「権六は何と?」
「それは出来ぬと申されました」
「……当然だな」
秀吉の顔つきを見て、信長は幾分か冷静さを取り戻した。羽柴秀吉とは戦の天才であると同時に、処世術の天才でもある。裸一貫、昇り征く織田家に仕えていたとはいえ、底辺からここまでのし上がったのはその才覚も大きい。
処世のために武士の命である名前まで変える男である。
その男がこんなおかしな判断をした。確たる理由もなく。
「もし、そなたの言う通り七尾城を見捨て、地の利を取ったら上杉に勝てたか?」
「……わかりませぬ」
「……参ったのぉ」
わからないことばかり。もちろん、戦は時の運もある。事前にわかることの方が少ない。ただ、それでも勝つと意気込むのが武士と言うもの。
そういうハッタリはこの男も良く使う手であったはずなのだが――
「拙者も、初めての経験です。八方手を尽くし、未だわからぬまま。臆病風に吹かれたのやもしれませぬな。処分は如何様にも」
「……権六から何か受け取っておらぬか?」
「……いえ」
「あれは口こそ悪いが、そなたには随分期待していた。あれも童ではない。手ぶらで帰しては、謝罪で済まぬことぐらいわかっているし、させんはずだ」
「……それは」
「何かあるなら見せよ。隠さば、権六の名にも泥を被せることになるぞ」
元々は家が割れ、敵対していた関係であるが、共に戦場を駆けるようになってからは随分と立つ。秀吉なぞよりよほど、深い関係であるのだ。
信長と勝家は。
「……こちらを」
「そなたも意外と不器用であるな。一度腹を割って話してみよ。存外、気が合うかもしれぬぞ。絵面も面白い。……これを読んだのち、沙汰を下す。よいな」
「はっ」
秀吉から勝家の文を受け取り、信長はそれに目を通す。其処には難しい状況であること、滝川の乱破衆ですら何もつかめず、闇の中での行軍に等しいほど徹底した情報封鎖が行われていること、勝家の気づきが其処にはしたためられていた。
そして最後には――
「……藤吉郎、権六は勝てるか?」
「……」
「そなたが総大将であれば、結果は変わったか?」
「いいえ。戦の本筋が救援にある以上、最終的には同じ結果であったかと思います。勝っても、負けても……其処に違いはありませぬ」
「……そうか」
信長は勝家の胸中を想い、天を仰ぐ。
「しばらく大人しくしておれ。権六が無事戻れば罰として戦勝の宴で散々いびらせてもらう。覚悟しておけ」
「……は?」
「そしてもし、権六が敗れたなら」
信長は真っすぐに秀吉を見つめる。
「十兵衛と共に龍を討て。出来ぬとは言わせぬ」
十兵衛、明智光秀と共に龍と、上杉謙信と対峙する。おそらくはあの文に、それが書かれていたのだ。自分が敗れた後、次に戦うべき者の名が刻まれていた。
織田家が誇る新時代の旗手、羽柴と明智の名が。
「御意」
「……願わくば、宴で済ませたいものだがな」
哀しいかな、この時点で信長の願いは潰えている。秀吉が離脱して数日後、柴田勝家率いる軍勢は手取川に沈み、敗れ去っていたのだ。
まだ、その情報が畿内まで届いていないだけで。
○
上杉謙信は手取川を悠々渡河し、一向宗らと連携しながら次戦に向けた準備を着々と進めていたのだ。そう、この時点では謙信にも読み切れていない、誤算があったのだ。それを知ったのは前線を固め、来るはずのない後詰を待っていた頃。
畿内より届いた報せを聞いてから、であった。
「御実城様」
「長親か。なんだ? ようやく織田の後詰が来たか?」
「織田の後詰は来ません」
「柴田の負けっぷりに恐れをなしたか。取るにたらん男であるな」
「いえ、別の理由です」
「……なに?」
謙信の目論見では柴田率いる本隊をなるべく無傷で打ち倒し、敗残兵と合流した信長率いる後詰、否、真の本隊と雌雄を決するつもりであった。
緒戦は奇襲にて勝利を掴み、次戦は今陣を固めているように地の利を生かし、彼らの得手である戦にて勝ち切る。これが謙信の意図である。
だが、
「松永殿が織田を裏切り、信貴山城に入られたそうです」
「……松永が?」
「御実城様の差配と思っておりましたが」
「俺は機を見て動けとしか言っておらん。長慶の右腕を務めた男だぞ、それを間違えるはずがない。今ではなかろうが。何故逸った?」
謙信は久秀に対し、秘密裏に連絡をしていた。彼は自分が加賀で戦うことを知っている。もちろん、戦の詳細は伝えていないが。
「その対応もあり、当主自らの出陣は取りやめたとのこと」
「……なるほど。合点がいった」
信長と謙信はそれなりに長い期間文のやり取りをしていた。文面からであるが彼の人となりは謙信もある程度把握している。彼の性質上、信頼していた者であればあるほど、裏切られた時の怒りは爆発的に増大する。
バッサリと切り捨て、裏切ったのは怒りによって彼を自分の前へ引き出す狙いもあったのだ。今回、そうなるはずであった。
しかし、松永久秀の動きでその狙いは破綻する。
「四万とさらに後詰一万以上を合わせた大軍勢相手に、一向宗と連携してようやっと二万に届くかと言う軍勢では危ういと感じたのだろう。まあ、間違いではない」
「我らを侮り、墓穴を掘りましたな」
「結果を見ればな」
情報漏洩を避けるため、謙信は久秀に戦の詳細を伝えなかった。それに伝える必要もないと思っていた。謙信は独力で織田を打ち破り、その時に生まれる反織田の流れに乗ってくれたら、本願寺への接続以外はさして期待していなかった。
彼自身、すでに力の大半を三好と共に失っていたから。
「命の使いどころをここと定めたか」
「……?」
「気にするな。俺には俺の、あやつにはあやつの戦があると言うことだ」
河田長親にはわからぬこと。
謙信とてこうならねば気づくこともなかっただろう。久秀の忠心、今なおそれが続き、命を捧げられるほどに厚かったことなど。
誰にもわからない。
だからこそ天下人、信長の足を止めることが出来たのだから。
そう、これは上杉への援護であって、上杉に援護が主題にあらず。これは松永久秀の戦いである。三好長慶から席を奪った不届き者を引きずり下ろすために、今の自分に出来る最大の抵抗をした。
その対価は、命。
「準備が終わり次第、越後へ退くぞ」
「はっ」
今年中に後詰が来ないと判明した以上、長居する理由はない。あっという間に冬が来て、越後ほどではないが加賀も道が閉ざされる。
その前に兵を故郷に返し、英気を養ってもらわねばならないのだ。
来年、畿内入りするためにも。
「達者でな。長慶によろしく伝えてくれ」
久秀の動きに連動は、しない。
○
松永久秀は信貴山城の天守より眼下の大軍勢、織田信長の息子信忠が率いるそれを見つめ、深い笑みを浮かべていた。さすが天下の織田、たかが城一つ落とすのに随分と人を集めたものである。小動もしないと見せつけたいのだろう。
その必死さが逆に、彼らの窮地を際立たせていた。
今となっては小物の命。十分過ぎるほど引き付けられただろう。
「上杉は勝っただろうか?」
現在は天正五年十月十日、丁度少し前に信長の方には手取川の結果は伝えられていたが、久秀の下には最後までその報せが届くことはなかった。
完全包囲された信貴山城は蟻の這い出る隙間すらないほどであった。それゆえ情報など、彼の耳に届くはずがない。
ただ祈るばかりである。
「勝ってもらわねば困るがな。あの御方が認めた男ならば」
端から勝ち目のない仕掛けである。命を賭して足を引っ張る。これが今の久秀に出来る精一杯の抵抗であった。
情けない話である。蛟竜なら「小せえなぁ」と哂うだろう。久方ぶりに人を大いに馬鹿にした笑みが見たくなる。思えばあれから随分と時が経った。何一つ期待に応えられず、生き恥をさらし続けた晩年。
されど、最後に痛快な悪戯を仕掛けることは出来た。
「さて、いきましょうか」
あとは適役に任せる。
松永久秀は信貴山城の天守に火をつけて回り、
「今、参ります」
自らの手で命を絶った。
彼が何故、二度も織田を裏切ったのか。それを知る者はいない。その問いに答えることなく、久秀はこの世を去ったのだ。
ただ、戦国における裏切り者の代名詞とも言える遍歴に見えるが、よく見ると彼は一度として三好を、長慶を裏切っていないのだ。一度袂を分かつことになったが、正しい三好の後継者は三人衆ではなく彼を選んだ。
織田から見れば二度も裏切った男。
三好から見れば如何なる窮地でも長慶の系譜を守らんと奔走した男。
歴史とは見方にあるとわかる、好例であろう。
日本の副王、『蛟竜』三好長慶の右腕、松永久秀、散る。
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