第弐佰拾伍話:手取川の戦い
この時、織田軍総大将柴田勝家に明確な落ち度はなかった。
兵法の基本に忠実、斥候を用いて前方、周囲の視界を確保し、しっかりと備えた上で広域な手取川水系の渡河に疲労した兵を休ませていた。明日からはまた七尾城に向け長い行軍が続く。安全が確保された今日くらいは、と糧食を普段よりも多く支給し、皆に英気を蓄え明日に備えてもらった。
夜間にも見張りは割いている。油断はない。慢心もない。
ただ、
「……何だ、あれ」
「火が浮いとる。人魂かの」
「馬鹿言え。松明だろうに。おそらくは一向宗だ」
「なら、止めねばな」
「……何か、多くないか?」
「人魂、増えてきたな」
「だから……おい、待て。一人二人じゃないぞ!」
上杉不識庵謙信の軍勢が条理を超え、その上を行っただけ。
「この、地鳴りは。足音? まずい!」
「誰か柴田殿に報告を!」
「急げ!」
松任城近辺で本隊前方の見張りをしていた者たちが慌てふためく。夜間、本来軍勢は行軍などしない。現代とは夜闇の深さが異なるのだ。
月と星、それ以外は何もない。
前など見えない。足元もおぼつかない。道も現代の尺度で言えば獣道のようなものが大半であり、そんな状態で出歩くこと自体が危険である。
それでも、それだからこそ――
「あと一里! 死ぬ気で駆けよ! 俺のために死ね!」
「応ッ!」
万全の備えを喰い破ることが出来る。あり得ない手段で勝利を掴み取るのは時代を彩る名将の必須条件。あり得ない、をぶち抜いてこその偉人である。
かつての龍に百を駆けさせる力はあれど、万を駆けさせる引力はなかった。十に、百に無理をさせられる者は少なくない。だが、千を、万をとなると神業に等しい。精鋭も、凡夫も、弱者も、あらゆる者が混じり合わねば万には達しない。
身体、心弱き者すら龍に化けさせて、初めてこの奇跡は成る。
龍の力技による奇跡、を支えるのはそれを起こすと決めた上での段取りである。自らが発案し、兵站上手の直江景綱が固める。
何処で休み、何処で飯を取るか。
奇跡織り込み済みの緻密な計算あってこそ、今がある。
松任城着陣、間髪入れずに突き進む。
「はぁ! はぁ! はぁ!」
誰もが疲弊している。今にも倒れ込みそうなほどに。それでも今、彼らの脳内には麻薬のような脳内物質が満ち満ちていた。体力の限界を超過し、気力だけで走っている状況。何人、何十人も気絶し、落ちていった。
それでも残った者たちは、届いた者たちは――
「俺についてこい!」
「ああッ!」
先頭を走る火だけを見る。懸かり乱れ龍の御旗、その先に括り付けられた松明の明かり。龍の背中だけが見える。それだけを頼りに進む。
そして、見えぬ者もその気配だけを頼りにただ進む。
残り約一里(4キロ)、その十倍以上を踏破してきた上杉軍にとってはもう、目と鼻の先である。限界を超えた者たち、皆の目が爛々と輝く。
よだれを垂らし、鈍く輝く目は敵を求めていた。
(……なるほど。黒田が滅びるわけだ。決して合理的ではない。再現性もない。あの男にしか出来ぬ芸当だ。だが、だからこそ価値がある)
本庄繁長は改めて思う。自らの挑戦、汚名を被ってでも手を伸ばした者への価値を。自分は正しかったのだ。
上杉不識庵謙信、この壁以上など無い。
だから挑んだ。ゆえに敗れた。悔いはない。
そして今、心の底からこの絵図を楽しんでいる自分がいる。
『軍神』が生み出した狂気の熱量。万の群れが生み出す巨大な槍。これを夜中、天下人の軍勢に突き立てる。これに勝る愉悦があろうか。
(知れ。天下の大軍勢よ)
越後の龍、『軍神』上杉不識庵謙信。
(これが俺たちの、最強だ!)
最強が――来る。
○
「なん、だと」
柴田勝家は報告と共に飛び起きて、状況を精査する。油断はなかった。慢心もしていなかった。だが、王道に胡坐をかいていた。
これだけしたのだから大丈夫。今までこれで勝ってきたから大丈夫。今川、斎藤、浅井朝倉、本願寺、その他大勢の名門武士、何よりも甲斐の虎の残党をも屠った。これだけの難敵と戦い、勝利してきたやり方である。
もしこれを油断と言うのならば、人は油断せずにはいられぬ生き物であろう。
「……」
勝家は即断即決を求められていた。真面目な斥候たちのおかげで最悪の事態を避けることは出来た。猶予は一里、彼らが言うには止まりそうな気配はなかったらしく、そのままの勢いで突っ込んでくるらしい。
その報せを疑う気はない。やられて気づく鬼の一手。
勝家らは渡河している最中に襲われることを最悪だと考えていた。だが、違ったのだ。もっと悪い、最悪があった。
渡り終え、全軍が逃げ場を欠いた今こそが、最悪。
もちろん、圧勝することが前提の策である。そのための夜襲。そのための情報封鎖。一向宗から自分たちの情報を受け取っていたのだろう。
だからこそ、これほどまでに正確無比な一撃を打ち放つことが出来たのだ。秀吉の懸念は当たっていた。相手が上杉本隊であれば七尾城は落ちていると言うこと。あの七尾城が落ちていることも驚きであるが――
(……何処までだ? 何処までが、見えていた範囲なのだ?)
相手が寡兵であればまだどうにでもなる。そもそも夜襲とはそういうもの。相手をかき乱す一手であり、決して勝敗を左右するものではない。
勝敗を決するような大軍をこの時代の夜に運用すること自体、道理に反しているのだ。ただ、上杉軍はそれを取った。おそらくこちらの動きを察知した上で。
無理やり間に合わせたのか、間に合わせる自信があったのか、それとも端からそうして勝つ気であったのか。勝家は桶狭間以上のズレを感じていた。
自分の知る戦とは違い過ぎる。
「柴田殿!」
「……撤退だ、丹羽殿」
「……背後は手取川だぞ、権六。陸地も湿地帯だ。損害は計り知れぬ!」
「ならば全滅を選ぶか? 全軍を叩き起こし、具足をまとわせ陣形を整える時間など無い。当たらば、負ける。もはや勝負にならぬのは明白だ」
「……それは」
今、この時点で自分が取るべき選択肢は一つしかなかった。全軍を叩き起こし撤退、少しでも多くの兵を生かすこと。
「俺が全ての責任を取る」
「……私も担いましょう。急ぎます!」
「頼む」
柴田勝家は迷うことなく撤退を決断した。ことここに至り、上杉軍が手抜きをしてくることはないだろう。斥候が夜闇に惑わされ、数を勘違いした可能性はあるが、其処は今まで彼らがなしてきた仕事を信ずるのみ。
重い決断。されど即座に彼は決めた。
だが、それでも間に合わぬから鬼手なのだ。
○
上杉軍の襲来、その報せが織田の陣中を駆け巡る。腹一杯食らい、気持ちよく寝ていたら突然叩き起こされ、上杉軍が夜襲を仕掛けてきたと言うのだ。
混乱は野火の如く広がる。
「夜襲? 何人だ?」
「万を超える軍勢だぞ!」
「馬鹿か! 夜中にそんなもの、動かせるわけがないだろ!」
「なら、あれはどう説明するんだよ!」
「……あっ」
常識破りの大軍勢による夜襲。それを証明するかのように上杉軍は織田軍めがけて展開、明かりが横へどんどん広がっていく。
一人二人ではない。十人百人でもない。
千、万、先頭の火を立てるかのように、周囲の火が、星が煌めく。
地鳴りが、響く。
足音が、大地を叩く。
「全軍撤退! 殿を残し、手取川を越えよ! 物資は捨て置いて構わぬ! 必要なのはより多くの命である! 生きよ!」
馬にまたがった勝家の野太い声が響く。
その瞬間、堰を切ったかのように織田軍の撤退が始まった。決戦とならず、この時点で勝敗は決まった。この局面を作られた時点で、織田は負けていたのだ。
そして、勝家は信じ難い景色を見た。
万の軍勢、その先頭を駆ける男。手には龍の御旗を、先端の松明を外し、旗そのものに火をつけた。それはいい。よく燃え、目立つがそれ自体は問題ではない。
問題なのは――
「……総大将が、先陣を切る、か!」
一目でそれとわかる存在感、彼が総大将、上杉謙信なのだろう。
自分が織田信長を尊敬する点として、彼自らが槍を持ち戦場で暴れ回る昔気質の武士的な側面があった。最近では負傷もあり控えてもらっているが、共に槍を携え戦場を駆け回ったことは尾張の内戦時代から何度もあった。
それと被る。古き良き武士の姿。
だが、それと同時に最新の先、頭一つ抜けた戦も出来るのだ。この局面が偶然の産物とは勝家も思わない。明らかに仕組まれたもの。
それが何処からかまではわからないが、遠大なことは勝家も理解している。古き武士と新しき武士を兼ね備えた存在。
勝家は戦慄する。自分が理解出来ぬ戦をする羽柴や明智、彼らと同種の存在だと思っていた。しかし、違ったのだ。
どちらも持っている。そして、どちらも突き抜けている。
「懸かれ!」
燃え盛る懸かり乱れ龍の旗をぶん投げ、織田陣営に突き立てる。
誰よりも速く、先頭にて太刀を引き抜き、まるで古の、すでに神話と化した武士の如くただ一人、織田陣営に飛び込んできた。
齢四十八、されどその肌艶、二十代のそれ。魔性の魅力を備える。
誰一人近寄れぬ。その神々しさのあまりに。
息を呑み、最強の『軍神』、現人神をただ見つめていた。
「俺が――」
威風堂々、疲労の色を欠片も見せずに、
「上杉不識庵謙信である!」
名乗った。
それと同時に上杉軍が飛び込んでくる。一切の迷いなく戦闘隊形に移行し、各々勝手に暴れ回り始めたのだ。
関東遠征で培ったアドリブ力。上杉軍は謙信が命じずとも戦略にさえ沿えば自由に戦い、奪い、殺戮する災害である。
そして今、彼らの目に理性はない。
「全てを奪い尽くせェ!」
そんなものを抱く余裕は全て、走り抜けた汗と一緒に流れ出ている。
「……誰も勝てん」
掛かれ柴田と謳われた猛将の心が、ぽっきりとへし折れた。それはこの場にいる全ての者の総意である。格付けは済んだ。
あとは蹂躙するのみ。
上杉謙信の手足が死力を尽くし暴れ回る。
龍が来た。天災が来た。
上杉軍が来た。
○
柴田勝家は自分がどう退いたのか、記憶がまるでなかった。ただ、戦場では常に自らを律し、最前線で戦い続けてきた男が全力で逃げた。恥も外聞も捨てて。本当は殿として華々しく散るつもりだったのに、おめおめと生き永らえた。
おそらく皆、同じようなものだろう。
たまたま、あそこに沈んでいないだけ。たまたま、災害に飲み込まれず、流されなかっただけ。誰も、何も変わらない。
「……何だ、これは」
これはもう戦ではない。戦いにならなかった。
誰も勝てない。勝てるわけがない。
沈む織田軍。
その敗残の背中を眺め、上杉軍は充足の中にあった。
日が昇る。朝焼けが眩しい。夜通し走り、気力体力の限界に至り、されど太陽が煌々と照らす水面はとても美しかった。
少し離れた先に見える海原の美しさたるや、絶景としか言いようがない。
「勝ったな」
「ああ」
甘粕景持と本庄繁長が互いに拳を打ち付け、微笑む。越後は決して一枚岩ではない。長年そうだった。だが、今この時ばかりは一つである。
いや、あの男がいる限り一つであろう。
「どれだけ殺した?」
「さあ? 織田に聞いてくれ。数えるのも面倒だ」
「くく、そうだな。織田なら、引き算するだけで答えが出るからなァ」
本庄繁長は嗤う。
手取川水系に沈んだ織田軍の亡骸を見て、湿地帯で足を取られたまま幾重にも槍を突き立てられ絶命している者もいれば、致命傷を負いながらも必死に対岸を目指し息絶えた者もいた。川の水と泥、そして血濡れた景色が陽光に照らされていた。
美しく、残酷な景色である。
上杉方の資料にはこの戦、千を討ち取ったと残る。織田方はこの戦自体の資料を残していない。相互に食い違う以上、この戦の実態は誰にも分らない。
上杉にとっても討ち取った数など大した意味はなく、川や湿地帯での戦は目測を困難とさせる。この世の地獄で数を数えても仕方がない。
ただ浸ればいい。ここには武士にとっての美しき景色があるのだから。
「……上出来であろう?」
上杉謙信は誰かに問いかけ振り返る。其処には誰もいない。ただ、血に染まった手取川だけが其処にあった。
それでも男は静かに――微笑んだ。
これが世に言う手取川の戦いである。
謎多き男の、謎に満ちた戦。大局不明、損害不明、されど織田が加賀国から一時的に手を引き、上杉の勢力圏となったことは事実。
この戦もまた彼が今も最強と語り継がれる理由の一つであった。
そしてこの戦こそが――『軍神』上杉謙信の最後の戦となる。
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