第弐佰拾肆話:神速、再び

「報告いたします!」

 織田軍を率いる柴田勝家の前へ斥候として偵察に赴いていた者が報告にやって来た。緊張の一瞬、勝家は部下に悟らせぬよう静かに拳を握り込む。

「うむ」

「松任城には一向宗徒と思しき者たちが多少詰めているのみ。平城ですので小突けば一蹴出来るかと。探索範囲に上杉軍の姿はありません!」

「そうか。よし、大義であったぞ!」

「はっ!」

 勝家は握り込んだ拳を、さらに強く握り込んだ。不安であった。暗中模索を強いられ、軍として目の見えぬ状態でここまで来た。

 だが、これで目先の視界は拓けた。まだいくつかの難所は残すが、厄介な手取川と言う最難関は越えることが出来たのだ。

「丹羽殿」

「うむ。急がせましょう」

「頼む」

 以心伝心、丹羽長秀にとっても気が楽になる報告であった。

 彼らが考える最悪は、すでに上杉軍がどうやったかは知らないが七尾城を攻略し、松任城辺りでこちらを襲う準備をしていること、であった。そうなった場合、渡河を終えた軍勢のみで戦う羽目になり、広い水域の手取川水系を跨ぐため伸び切った軍勢では勝負にもならない。戦う前から負けている構図となっていた。

 だが、一里ほど先にある松任城までがクリアリングできたことで、少なくともいきなり上杉軍が襲来する、と言う状況はないと断定できたのだ。

 これは軍を率いる者として大きな情報である。

「急げ! 多少玉薬が駄目になっても構わぬ! 今日中に全体の渡河を終え、明日には松任城を攻め落とす! 周囲に上杉の姿はなく、勝利は必定である!」

「おー!」

 上杉の姿がない。これには織田軍の将兵も士気が上がる。下の者は下の者で上杉謙信の軍神ぶりは風の噂で散々聞かされている。有利な状況下で怯えるほど臆しているわけではないが、今みたいに不利な態勢で戦いたいとは思わない。

 今この時でないのならどうとでもなる。

 自分たちは天下人の軍勢、長篠では虎の子たちも蹴散らした。

 龍もまた薙ぎ払い、名実ともに日の本一の軍となる。

 士気は上がり、軍の足取りも軽くなる。

 織田軍は今日中に渡河を終えるだろう。例え上杉軍が万が一にでも七尾城を落としていたとしても、その優位を最大限使えるのはここ手取川と言う難所を織田軍が渡る、今この時である。それを逃したと言うことは――

「受けて立つ。それが織田の戦である」

 織田と上杉の戦、地形による有利不利は多少あろうとも、絶対的な差はつかないこととなる。それはつまり、二万と一揆勢を合わせた上杉が四万の織田軍と正面衝突せねばならぬ、と言うこと。勝敗は火を見るより明らか。

 勝つのは織田である。


     ○


 末森城で出立を見送った山浦国清と斎藤朝信は、七尾城も含めた能登の仕置を謙信から任されていた。上杉方へ下り、織田派であった長家の縁者も討ち取ったが、それでも当主を欠き不安定であることには変わりない。

 誰かがその抑えを担わねばならぬのだ。

「斎藤殿は御実城様と共に暴れたかったのではありませんか?」

「……」

 朝信は静かに首肯し、その後首を振る。

「……共に参りたいと思う気持ちと自らの衰え、ですか。常に最前線に立ち続けてきた越後の鍾馗でさえ老いにはかなわぬ、と。大人ですな」

「……」

「今必要なのは若さと勢い。私も若いのですが……あ、いえ、むしろ信頼の証と心得ております。御実城様は、裏方こそを重視されますので」

 国清、朝信は知っている。先発隊として派遣された彼らは一向宗と連携し、この先にも野営地の設営及び配給の備えを施していた。迅速なる補給を実現するために、補給を本隊と共に運ぶ、ではなく先んじて配置しておいたのだ。

 メリットは早さであり速さ。

 デメリットは行軍速度と野営地の配置にズレが許されぬと言うこと。

 ただ、デメリットに関しては考える必要などない。越中攻略から連なる今回の戦、作戦考案自体は一年以上前のこと。その時にはあの男が健在であった。

 直江景綱、龍の腹心が差配した。

 ならば、万に一つも穴はないだろう。

 その上で――

「ただ、あの勢いならいくつかは飛ばすでしょうな」

「……」

「伝説の一幕。願わくば共に在りたかったものです」

「……そうだな。私も、今は亡き友も、そう思う」

「斎藤殿」

 あの龍が腹心の想定通りなどに動くわけがない。

 思惑を超えてこその、怪物である。

 その戦、体感したいと思わぬ武士はいないだろう。少なくとも越後には。


     ○


 上野国の沼田城の守将を任されている本庄実乃の息子、本庄秀綱はふと風を感じた。懐かしい気配である。何故か思い浮かぶは、あの地獄のような行軍。

 地獄の中に、彼は神を見た。

 長尾景虎と言う神を。何故かふと、想い出したのだ。


     ○


 神速の軍勢。

 甘粕景持は今、不思議な感動に包まれていた。二年前に亡くなった本庄実乃、その息子の本庄秀綱が言った。あの日を超える衝撃はない、と。

 勝機を見出し春日山を奪い取った黒田秀忠を、あり得ない速さで打ち破った龍の軍勢。それを可能とするは、龍の頭にある。

「……」

 ただ無言で先頭を駆ける当主、上杉謙信である。齢四十八、最近では戦場で駆ける姿も、太刀を振るう姿も見られなくなっていた。

 だが、今の彼は一陣の風である。

 具足を身にまとい。懸かり乱れ龍の御旗を手に威風堂々、肩で風を切り走る。誰よりも速く、誰よりも力強く。

 これだけの長距離を駆け、その背中は疲労の色すら見せない。

 老いてなお怪物。いや、今に限っては老いている気がしない。誰よりも若々しく、誰よりも力に充ち溢れていた、あの頃の輝きを魅せる。

(何が歳を喰った、だ。何が太刀を振り回せぬ、だ。何一つ変わらないじゃないか。何一つ損なっていないじゃないか)

 甘粕景持は当時幼かったから、彼の伝説を目撃していない。それはこの軍を構成する大半の者たちがそうであろう。あれから四十年以上の時が経った。

 人も随分と入れ替わった。

 伝説は伝説のまま、消えると思われていた。

「実に、不思議な気分です。甘粕殿、疲労はとうに限界なのに、誰一人足を緩めない。誰一人、落ちていかない。私も、何故か、足が前に出てしまう」

「……自分もだ」

 疲労していない者など誰一人としていない。休憩は最低限、間者や草の者、乱破ですらこのような足で長距離を踏破することはないだろう。

 誰もが限界を超えている。気力で進んでいる。

 しかし誰しも、先頭の男の魅入られているのか足を緩めない。

「御実城様は走っていると言うのに、ぬしは走らぬのだな、弥次郎殿」

「御実城様がそうせよと命ずるなら走るさ、持之介殿」

 本庄『弥次郎』繁長、謙信に牙を剥いたかつての反逆者は空気を読まず馬を駆る。まあ彼一人ではなく、老齢な有力者たちはそうしている者も少なくない。が、彼らは空気を読み全体の端などで目立たぬようにしていた。

 繁長は空気を読まず、堂々真ん中を馬で駆ける。

「……」

「そう睨むなよ。走れば偉いわけじゃない。きちんと働くさ」

「そう願いたいものだ」

「俺からすればぬしらの方が心配だがな。おそらく、御実城様はこのまま当たる気だぞ、織田と。やれるのか?」

「周りを見てみろ。それが答えだ」

「……ふっ。信仰心すら操るとは……やはりモノが違うな」

「当然だ。龍の軍勢は負けぬ。誰が相手でも」

「奇遇だな。珍しく同意見だ」

 全ての仕掛けが今、龍の背を、上杉謙信と言う男の背を圧している。旅をして知った宗教の、信仰の力、汚さ。それがどれだけの力を持つか、幼き彼は水の都で、花の都で、嫌と言うほど学んだ。そして今日まで、その学びを活かしてきた。

 嫌悪する神仏に祈りを捧げ、周囲に敬虔なさまを見せつけてきた。多額の寄進を行い、僧侶連中にも認められ権威も得た。

 高めに高めた信仰心、つまりはブランド力。

 それを風にして、付き従う者たちの背を無理やり押し込む。

 今この時、この瞬間が長年の集大成。上杉謙信が、上杉輝虎が、上杉政虎が、長尾景虎が、長尾虎千代が積み重ねてきた『軍神』。

 その力で彼らに限界を超えさせる。

 無論、

「……っ」

 その貌は常に必死で、歯を食いしばり、寄る年波と戦っていた。齢四十八、かつては何里駆けようが、覚明が泣きを入れるまで駆けても堪えなかったものだが、哀しいかな今の身体は無尽蔵と言うわけにもいかない。

 酒も浴びるほど飲み、年々動くことも減った。思った以上に体が衰えている。体力の限界はとうの昔に過ぎ去っていた。かつて同じように苦しんだ時代と比べても、今はもっと体力的には落ちている。それは形相に現れている。

 だが、間違いなく上杉謙信の全盛期は今、この時なのだ。

 ブランドの高まりと何とか体力を誤魔化せるギリギリの瀬戸際。おそらくこれ以上はないだろう。ここから先はブランド力を高めても体力の衰えがそれを曇らせる。龍である、と魅せつけるには今を置いて他はない。

 よかった、と謙信は苦しみながら笑う。

 間に合った。

(虎よ、獅子よ、竜よ、弓取りよ。これが俺だ、これが上杉不識庵謙信だ! とくとご覧ぜよ。俺こそが最強だ!)

 『軍神』、駆ける。

 信仰は今、全ての思惑を超えた。

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