第4話

 あちこち走り回った挙句、乱暴に家の扉を開いて駆け込むと、早く帰っていたらしい父が目を丸くして出迎えた。


「なんだ、フランツ……何かあったのか?」

「えっ、と……」


 ディートリヒから逃げるのに必死で、フランツはまたもすぐに答えることができなかった。息子が息も髪も乱して、しかも顔を恐怖に引き攣らせて帰ってくれば、親としては心配するのは当然だっただろうに。


「やはりお前はユーゲントには馴染まないか? 優しい子だからな……何かあれば相談するんだぞ」


 いや──肩に置かれた父の手も震えていた。それに、酸欠に眩んだフランツの目は、父の肩越しに母ではない人影が廊下の影に消えていくのを確かに捉えていた。台所のほう、裏口があるほうへ。またが来ていたのだ。父が玄関口までやって来たのは、彼の目にの姿を見せないための時間稼ぎに過ぎないだ。


「何でもない……途中まで、競争したんだ。友達もいっぱいできたよ」


 荒い呼吸の下で、フランツは懸命に笑顔を繕った。同時に父の手を肩からそっと退ける。ディートリヒの力強い手と比べると、それはどれほど簡単なことだっただろう。嘘を吐くのも、以前よりも、そしてディートリヒに対してよりもずっと容易いことだった。

 だってディートリヒは彼を──彼なんかを心底案じてくれたけれど、父たちは違う。彼を産んだ人たちは、血を分けた息子よりも大事なことがあるようだから。それなら、フランツのほうだってすべてを打ち明ける義理なんかない。




 ディートリヒの家は資産家とのことで、案内されたソファは、軽いフランツの身体でもどこまでも沈んでしまいそうなほど柔らかかった。


「何かの間違いだと思うけれど……」


 美しく上品なディートリヒの母が出してくれたコーヒーは香り高く、代用品などではないことは明らかだった。磁器の皿に並んだクッキーも、きっと甘いのだろう。だが、フランツは味わう気にはなれなかった。彼なりに考え抜いた末の行動、その結果を待つだけで、心臓が破裂しそうな思いを味わっていたからだ。

 何もかも調和した、美しい──けれど静かな他人の家で待つ時間は永遠にも思えた。だが、やがて応接間の扉が音高く開かれた。入って来たのは、ディートリヒとその父だ。真っ直ぐに近づいてくるふたりに応えて、フランツも立ち上がる。何があったかは──聞くまでもなく、興奮に紅潮したディートリヒの顔が教えてくれた。


「フランツ! お前の言う通りだった! ユダヤ人が隠れてた。お前の家に!」


 予想はしていても──とうに知っていたことでも、ディートリヒの口からそうと聞かされるのは、頭を殴られるような衝撃だったが。ふらついたフランツを、ディートリヒは素早く支えてくれる。彼の胸に凭れるようにして、フランツは彼の父──陸軍の士官だと聞いた──を見上げた。


「両親は……どうなりますか……?」


 両親にあれほど多くのがいるはずがない。ならば少し考えればわかること──気配だけを残して慌ただしく訪れるたちは両親の知己ではないし、そもそもれっきとした客ではないのだ。


 フランツが物心ついてから今日までに、周辺からひっそりと姿を消した人たちがいる。近所に住んでいたゴールドベルクさん夫婦。ハイネが好きだったミュラー先生。教会のシュトラウス神父。ほかにも、級友やその家族が、たくさん。彼らはこの国の輝かしい未来には相応しくないと見做されたのだ。自ら去った人たちもいれば、連れ去られた人たちもいる。誰によって、どこへかは分からない。


 けれど軍や警察の目を逃れて、国内にとどまっている人たちも多い──のだろう。いるべきでないのに逃げ続けるのはきっととても難しく、組織的な協力が欠かせない。ひとところに長くとどまるのは危険だから、証拠はなるべく残さないように。だから──ごく普通の一般市民の家に、ひと晩だけ。食事一回だけ。あるいは、休憩だけでも。そういう人たちは、そんな綱渡りを繰り返して命を繋ごうとするのだろう。

 フランツの両親がしてきたのは、きっとそういうことだったのだ。


「ご両親はれっきとしたアーリア人だ。罪を償えば、きっとまた会える」


 即座に嘘を吐いてくれたディートリヒの父は、多分優しい人なのだろう。いなくなった人たちがどこに行ったのかは誰も知らない。誰も帰って来ないから。フランツは、二度と両親に会えないのを知っていてのことをディートリヒに、彼の父に密告したのだ。衝動的にぶちまけるのとは違う、もっと賢く冷静に──冷酷に。けれどそんな様子は見せないようにして。国を憂いた若者が、勇気を振り絞って断腸の思いで両親の過ちを告発する、そんな風に見えるように。


「僕は……それまで、ひとりで……?」


 気付いていても、これまでならば黙っていた。いずれほかの誰かが気付くのをほぼ確実な未来として見ていても、フランツに行動する勇気がなかったから。でもディートリヒに触れてしまった後なら違う。それに、両親に心底失望した後なら。息子よりもユダヤ人や危険分子のほうが大事だという人たちだ。そんなの親とはいえないだろう。彼らだって不安から解放されたはずだ。彼に何も言わなかったのは、こうなることを恐れていたからに違いない。恐れていた通りに息子に売られて、いっそ安堵したくらいだろう。

 せいせいした。両親を名乗る他人はもういない。そして──独りきりで放っておくには、フランツはあまりに幼く頼りなく、見えるはずだ。


うちで引き取る。それくらいできるだろう!?」


 願った通りの言葉を聞いて、俯いた影でフランツは微笑んだ。ディートリヒの胸にそっと頬を寄せる。


 フランツはディートリヒに相応しい存在にならなければならなかった。体力でも体格でも劣る女の子メートヒェンがいくら頑張っても足りないから──だから、功績が必要だった。黙って怯えて破滅を待ったりなどするものか。実の親さえ告発できた愛国心は大したものだろう。ここまですれば、誰も彼を嗤ったりしない。


「こいつは根性があるんだ。鍛えれば、きっと……!」


 ディートリヒの父の答えは、聞くまでもない。自慢の息子のたっての願いを断るはずがないのだから。愛国者の少年を引き取る美談に抗うのだって難しいだろう。だからもう心配する必要はない。我が家がないなら手に入れれば良かったのだ。非の打ちどころのない評判、立場と財産ある養父母──ディートリヒも。無駄に思い悩んだ日々の、なんと馬鹿馬鹿しいことか。


「ディートリヒ──本当に?」

「ああ。今日からはここがお前の家だ」


 不安と期待に震える振りで、フランツはディートリヒの背にそっと腕を回した。そして返された力強い抱擁に、ディートリヒの厚い胸に包まれて、フランツは本当に久しぶりに我が家にいる安心を味わった。

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フランツの家 悠井すみれ @Veilchen

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