陰キャの俺と陽キャなあいつ

六つ花 えいこ

第1話


 世の中には、不文律というものがある。


「へぇ? なに? フブンリツって」

「……言わんくてもわかるやろってこと」

「は? 口説いてんの?」

「意味わからん。なんでそうなんの」


「いやそっちのが意味わからんし」と眉根を寄せるのはクラスメイトの日下(くさか) 瑠夏(るか)だ。

 夕日差す放課後の教室、窓際の自分の席に座る高倉(たかくら) 潤也(じゅんや)の前の席に体操座りのように足を上げ、だるそうな顔をしてこちらを見ている。


「俺に聞くなってこと」

「なし。高倉詳しいやろ? 漫画」

 詳しい人間に聞くののなんが悪いん? と日下が不機嫌な声を出す。


 クラスでも目立つ方のグループに所属している日下とは、おそらく今日初めてまともに会話をした。


 爪は長く、ピアスは多い。長く明るい髪はくるくるに巻かれ、だぼだぼのカーディガンはおそらくメンズもので、スカートは腿が見えるほど短い。

 万が一にも「見てたやろ」などと難癖をつけられては堪らないと、先ほどから白い生足に視線を送らないために、俺は必死に机の上のノートを睨みつけている。


 仲のいい男友達と二年のクラス替えで別れてから数週間がたった。クラスで未だ親しい友人が出来ていない俺は、塾までの時間潰しに放課後の教室に一人で残っていた。校庭から聞こえてくる部活生の声をBGMに宿題をこなしていると、スマホをいじりつつ行儀悪く足でドアを開けた日下が「ねー高倉ぁ」と教室に入ってきたのだ。


 まだ教室に用のある生徒がいると思っていなかった上に、女子に話しかけられた俺は驚きすぎて、シャーペンの芯を思いっきり折ってしまった。女子となんかこの二年ほど「先生が呼んでる」としか会話をしたことがなかったからだ。


 日下はゆるいカーディガンの袖から覗く細い指でスマホを操作しながら、俺を見ることなく「教えて欲しいことがあるんやけど」と言って、勝手に説明を始めた。


「てか周りにも聞いたし。誰もわからんかったけん、高倉にも聞きよんやん」

「調べればいいやろ」

「タイトルわからんのにどうやって調べるん」


 日下は昔読んだことがある漫画をどうしてももう一度読みたいらしく、いわゆる「そういう系」の俺に声をかけてきた。五分休憩が来る度に気まずくなる俺と違い、いつも大勢のクラスメイトに囲まれ、楽しそうにしている彼女にしてみれば、俺が読んでいる本が漫画でもラノベでも文芸書でも大して差はないのだろう。


「そんなん言われても、俺も世の中の漫画全部読んどるわけやないし」

「高倉ひねくれすぎやない? 話聞いてくれるくらいよくない? うちら敵ですか?」


 敵でなくとも、俺は男で日下は女で、俺は陰キャで日下は陽キャだ。加えてほぼ初対面であるのだから、区別するには十分である。


「じゃあさー。今度ジュースでも奢るし。話だけでも聞いて」

 そう言われれば、仕方ないとシャーペンを置くこともできる。ノートから顔を上げた俺とは反対に、今度は日下がノートを覗き込んだ。


「それ何やってんの?」

「宿題だろ」

「なんで学校でやんの?」

「時間潰し」

「は? 家帰りたくないん?」

「どうせこん後塾行くし、直行したいだけ」


 この時間小学生うるさいんよと続ければ、日下はホッとしたような表情を浮かべる。


「家でなんかあったんかと思った」

「……普通に家族仲は良好やけど」


 まさかそんな心配をされると思わずもごもごと付け加えると、日下はにっと口の端をつり上げた。


「よかった。うちも家族四人ちょー仲良し。ちな弟」

「へぇ」

「そっちは兄弟とかおるん?」

「兄が一人と弟が一人……てか漫画の話は」


 私生活の話をするのが恥ずかしくて、俺はぶっきらぼうに言う。


「ああ、そうそう。小学生くらいの時に、いとこの本棚で読んだんやけどさー。男が海に倒れてて記憶喪失な漫画やったん」

 俺はスマホを取り出した。


「いや、聞けし」

 日下に睨まれるが、指はそのままブラウザを開いた。


「聞いてる。他は?」

「他って?」

「他にどんな特徴があったん。その漫画」

「……え。んー……?」

 本当に微かな記憶しかないらしい。日下は俺の問いに真剣に悩み始める。


「……なんか、村が焼けた気がする」

「ってことはファンタジーもの?」

「そー。みんな服が変やった。髪も」

「他は? 掲載誌まではわかんなくても、少年漫画か少女漫画かはわからん? 何巻まで出てたとか覚えとる?」

「え、ちょ。待って。一気にいっぱい言わんで」

 勝気な表情ばかり浮かべていた日下が、眉を下げて焦る。俺は口をつぐんだ。


「なんやっけ。なんて言った?」

「少女漫画? 少年漫画?」

「わからん……そういうのって見たらわかるもんなん?」

「映画見てアクションか恋愛ジャンルか判断するようなもんやない?」

「小学生が判断できると思う??」

「じゃあいとこは女? 男?」

「男」

「そん時いくつやったん?」

「だから小学生」

「日下さんじゃなくて、そのいとこ」

「あっ、たぶん……中学生くらい……? 高校生かも……?」

「……あのさ、思い出す気ある?」

「ある、ある」


 待って聞くわ。と日下もスマホを取り出し、いとこに連絡を取り始めた。その間に、俺はGoogle先生におそらく故郷である村を焼かれた哀れな記憶喪失男を尋ねる。


「てかそのいとこは覚えてないん」

「聞いたけど覚えとらんって」


 まぁそりゃそうか。と液晶の上ですいすいと親指で動かした。いとこが覚えていれば、わざわざ俺なんかに話しかけてくることもない。


「日下さん」

「待ってまだ返事来てな……」

「これは?」


 画面を見やすいように、日下にスマホを向ける。日下はきょとんとした顔で俺のスマホを覗き込んだ。


 俺のスマホには、包帯を巻いた男の子がベッドで寝ているページが表示されていた。かなり昔の漫画をレビューしているブログの記事の画像だ。


「……あんま覚えとらんけん、海に倒れてる絵やないとわからん」

「わかった」

 ちょい待っとって、と言って検索結果に出てきたページのタイトルを検索する。画像検索のタブに移動して、海のシーンを探す。日下は俺のスマホと自分のスマホをそわそわと交互に見た。


「あった。これ?」

「こ、これかも! 見して! あっ、いかん?」


 テンションを上げた日下に、俺は硬直してしまった。先ほどスマホをいじっていた細い指が俺の手を――正しく言えばスマホを――掴んだからだ。


「他のとこ見らんけん!」

「……ん」


 スマホを握る力を緩めると、日下は俺の手から指を外してスマホを取った。手の甲を、日下の長い爪がかする。


「ほんとに見んなよ」

「見らんって」


 別にそこまで疑っては無かったが、なんとなく居心地が悪くて言うと日下はにっと笑った。

 俺のスマホを凝視する日下を頬杖をついて見る。


 日下がこちらを見ないことがわかっていれば、日下の顔を直視することができた。丸くて大きな目。少し色づいた唇。多分、化粧もしているのだろう。明るく長い日下の髪が、窓から入った風に揺られ、頬にかかった。運動部の声を聴きながら、日下が自然な手つきで自分の耳に髪をかける。


「たぶんこれやと思う!」


 日下の声に、俺はハッとした。日下はまだスマホを覗き込んでいるので、きっと俺が見ていたことは気づいていない。


「わー! めっちゃ気になっとったんよ。まじすごい。なしわかったん?」

「いや……調べただけやし」

「調べきるんすごいわ」

「……別に」


 このくらい、誰だってできる。という言葉は、出来なかった人間を前にしていたため、飲み込んだ。


「待ってメモらして」


 日下は漫画のタイトルを自分のスマホに打ち込み始めるが、何文字か打った後に顔を顰めた。


「英語めんどい。さっきのアドレス送ってくれん?」

「はぁ?」


 心の底から声が出た。

 日下は俺の「はぁ?」に反応を返すことなく、スマホをこちらに向けてきた。


「はいこれ」


 彼女のスマホに表示されていたのはLINEのQRコードだった。硬直する俺に、「やり方わからんのん?」と日下が尋ねる。


「いや……」

 明らかに意味がわからないが、断るのはもったい無い気がした。男友達がほんの数人と家族しか登録していないホーム画面を見られたくなくて、スマホを自分の方に寄せて操作する。

 きっと日下にとっては、男とのLINE交換に深い意味なんて無いのだろう。


 数秒後には、ホーム画面に女子のアイコンが表示されていた。ドギマギしながら、さきほどのブログのアドレスを送る。本文も何もない、アドレスだけが緑色の縁取りに彩られた。


「きた。ありがと。ずーっと気持ち悪かったん」

「別に」

 女子の連絡先が入った自分のスマホが、先ほどまでのスマホと何か変わった気がして、おっかなびっくりポケットに仕舞う。仕舞ってしまえば、これ以上何か日下に送らなくてもいい気がした。


「高倉、塾何時からなん?」


 時計を見れば、少し早いが学校を出発しても支障のない時間だった。会話に困って気まずくなる前にと、「もう出る」と言ってノートを閉じながら立ち上がる。陰キャは逃げ時を知っていて、決して逃さないのである。


「そっちは……」

 誰かを待ってるのか聞こうとして言い淀んだ。待っていなければこんな時間まで学校にいないだろうし、そんなことまで立ち入っていいか迷ったからだ。


「ん?」

「別に」

「なんなんさっきから、別に別にって。思春期かよ」


 思春期だよ。イラッとした俺はノートを乱暴にカバンに突っ込んで、無言で立ち去る。


「高倉ぁ」


 振り返ると、揺れるカーテンの横で日下が手を振っていた。


「ばいばーい」


 手を振り返すか迷って、結局思春期の俺は軽い会釈だけをして、教室を出た。




***




「高倉ぁ」


 と、語尾の伸びた呼び方をする日下は、漫画の件があってから、俺を見かけると何かしらしかけてくるようになっていた。

 廊下ですれ違い様にブレザーの端を掴まんで移動の邪魔をしてきたり、自販機でジュースを買っていたら勝手にボタンを押されたり。どれも一瞬のことすぎてリアクションも出来無い。完全に陰キャいじりである。


 止めろと言えないのは、たまに送られてくるLINEのせいかもしれない。


[ やばい見て。くじで当たった ]

[ ダッツは断然抹茶派 ]

[ 雰囲気ってふいんきだよね? 変換出るし ]

[ キウイくんもらった ]


 日下は俺に、普通の友達のように話しかけてくる。もしかしたら、先日助けたことによって友達認定をされたのかもしれない。


 写真と共に送られてくるメッセージに俺は、おうとかうんとかすんとかを無難に返している。最初は返事に頭を抱えていたが、一言二言ラリーが続くだけで適当に終わるので、近頃は気負わずに済むようになっていった。


 そんなやりとりがひと月ほど続き、半袖に衣替えした頃。


 昼休みにスマホが鳴った。別のクラスから来た友達と席で昼飯を食べていた俺は、登校時に買っていた焼きそばパンを咥えつつ画面を覗き、ごふぉっとむせた。


「きったな」

 咳き込みつつごめんと言いながら口元を腕で押さえる。ロック画面には日下の名前。在校中に日下からLINEが来ることは珍しかった。


[ 助けて ]


 切迫した文面に驚いて慌ててロックを解除する。

 添えられていた写真は、本日提出期限の数学のプリントだった。見事に真っ白なプリントを見て、呆れて俺は日下がいる方を見る。

 女子数人と昼食を取っている日下は俺には背を向けていて、どんな表情をしているのかわからなかった。


「大丈夫? なんかあったん?」

「いんや。何でも」


 別に隠す必要も無いのに、俺は親指で急いで「放課後」と単語だけ打って、スマホをポケットに仕舞った。




***




「高倉ぁ」

 

 ホームルームが終わり、クラスメイトが帰り支度をしている教室で日下は声をかけてきた。これまで人前で声をかけられたことは無かったため、ぎょっとする。


 驚いたのは俺だけではなかったようで、クラスメイトの大半がこちらを見ていた。派手で明るい日下が、地味で暗い俺になんの用があるのかと興味があるようだ。


「浅野ちゃん席借りてい?」

「うん。あ、それって宿題?」

「そうー。ぜんっぜんわかんなくってさー。高倉に教えて貰おうと思って」


 俺の前の席の浅野と日下が話す。内容が聞こえたのか、クラスメイト達は興味を失ったかのようにまた帰り支度を始めた。勉強を教えるのは、いかにも「ありそう」な用だったのだろう。


「ばいばーい」と浅野に明るく手を振りながら、日下が前に座る。教室で話すのは前回ぶりだ。座った拍子に髪が頬に垂れ、また耳にかき上げる。


「髪、邪魔やないん?」

「鬱陶しい? 結ぶわ」


 日下はポケットからヘアゴムを取り出すと頭の高いところで結んだ。鬱陶しいわけではなく、むしろどちらかというと女子っぽくてとても良かったのだが、ポニーテールもかなり女子っぽいため俺はそれ以上何も言わなかった。




***




「あのさ、中学からやり直せば」


 問題を教え始めてしばらく経ち、教室には二人以外に誰も残っていない。日下が頭を抱えながら問題を解いているのを見て、俺は先ほどから思っていたことを言った。


 日下がぽかんとして俺を見る。その顔がかなりショックを受けているのを見て慌てる。


「……いや、そうやなくって。さっきから止まっとるところ、中学ん時のがわかっとらんってことやけん」

「え?! そうなん?! 中学んときはここまでひどくなかったよ」

「そん時はなんとなくでやってて、理解せんままきたんやろ」

 

 がーんとショックを受けている日下を見るのが可哀想で、ふいと視線を逸らす。


「高倉が教えてくれるってこと?」

「いや、さすがに無理。参考書なら俺が使ってたの教えてやれるけど……塾なり家庭教師なり、親に相談して」

「えー。じゃあいいや。こんままで」


 俺は頬杖をついて口元を隠し「あ、そ」と言った。


「……え? 怒った?」

「怒っとらん」

「怒っとるやん」

「……まあ、失礼な奴だなとは思った」

「え?! なし?!」

「いや、自分の成績どーでもいいなら聞きに来んで。俺、普通に日下さんに教えるためにここにおるんやけど」

「……ごめん」


 日下がしゅんとして俯いた。俺はたじろぐ。言葉がまたきつかったかもしれない。これだから、違う世界の住人は難しい。


「勉強、楽しくないんやもん」

 ちょっと拗ねたような言い方に何故かほっとして、口を開いた。


「俺だって別に楽しくないし」

「え!?」

「なん?」

「楽しみよんかと思いよった」

「普通に友達とフォトナしよるほうが楽しいわ」

「じゃあなしそんな勉強しよるん」

「したいことがないけ」

「フォトナやないと?」

「将来の話」


 明確な夢や目標がないから、ひとまず人並みに勉強をして、とりあえずの選択肢を増やしている。特別えらくなりたい訳ではないが、特別怠けたい訳でもない。


「えー!! あたしもしたいことない!」

「じゃあ勉強すれば」

「や、やだー」

「なら知らん」


 俺の知っているのはこの道だけだ。他の生き方を教えてやれるほど経験豊かではないし、器用でもない。


「とりあえず今日はそれ終わらせり。そこくらいまでなら付き合うし」

「……うん」


 がっくりと項垂れた日下のポニーテールが、しなっとへたれていた。居心地が悪くなりながらも「そこは――」と俺は日下に説明を続けた。




***




「高倉ぁ」


 翌日の朝早く。前の席にどすんと座りながら日下が声をかけてきた。

 教室がまたざわりとする。スマホを見ていた俺は内心の動揺がバレないように表情を取り繕って「なん?」と聞いた。


「お母さんに話したら、家教つけるって」

 俺はぱちりと瞬きをした。まさか昨日の流れから、彼女が家族とそんな話をするとは夢にも思っていなかったからだ。


「やる気出たん?」

「出るわけないやろ-」

「なら時間と金の無駄やん」

 家庭教師はかなり高額だ。やる気が無いなら勿体なさすぎる。


「お父さんがさー」

「うん」

「どうせ無駄にするなら、親の金を無駄にしろって」


 首を傾げると、日下は両手で頬杖をついて少し口をすぼめた。照れくさいらしく、視線を窓の向こうに向けている。


「あたしの時間は有限やけんって」


 日下が一人で慣れない勉強を長時間するよりも、家庭教師に短時間で要領よく勉強する方を選ばせてくれたのだろう。日下が頑張らなければならないことには違いないが、ちょっとしたバフだ。いい運営である。


「優しいね、親」

「……へへっ」


 両手で口元を覆い、日下が目尻を下げて笑う。その顔がものすごく幼くて、普段見せる作られた笑顔とは全然違って、俺は何故か体が強張った。


「勉強、わからんかったらまた教えてくれる?」

「いや、それは家教に聞いて」

「なんー。つまらん」


 本当は別に、プリント一枚分くらいなら全然苦では無かった。けれど素直に「いいよ」と言えるくらいなら、思春期なんて拗らせない。


「あ。浅野ちゃんごめんねー。借りとった」

 前の席の浅野が登校してきた事に気付いた日下が、ガタガタと椅子から立ち上がる。


「いーよー。高倉君と仲良くなったんやね」


 浅野の何気ない言葉にびくりとする。


「そー」


 そして思いもがけない返事だった。唖然として日下を見ると、日下は眉根を寄せて俺を見下ろす。


「え、なん。なし驚いた顔しとるん」

「別に……」

「出た。別に別に」


 からかうようにそう言って、日下は自分の席に戻っていく。後ろ姿を見ることも出来ずに、俺は窓の向こうを見ていた。ついた頬杖で、口元が緩むのを隠すことに必死だった。




***




「高倉ぁ」


 脇腹に圧迫感を感じ、全身から冷や汗が出る。


 登校し、玄関で一番下にある靴箱から上靴を取り出していた俺は、靴箱の中に手を入れた姿勢のまま動くことが出来無くなった。しゃがんだ俺の体を、柔らかい物が挟んでいる。怖すぎて、振り向くことが出来無い。


「おはよー」


 日下が――おそらく太股で俺を挟んだまま――顔を覗き込んできた。陽キャのパーソナルスペースの狭さに戦く。


「――離れて」

 一刻も早く離れてもらいたくてそう言う俺に、日下は足の力を強めて言った。


「お、は、よ」

「おはよう。離れて」

「なーん。ノリ悪」

「知らんし」


 陽キャのノリを求められてもどうしようもない。日下が離れた隙に瞬時に靴を履き替え、ざわざわとする下駄箱から立ち去る。


「高倉、姿勢悪くない?」

 後ろから声をかけられぎょっとする。ついてきていたのか。先ほどの動揺もあいまり、声が僅かに震える。


「日下さんに言われたくない」

「さんとかべつにいらんよ。瑠夏でもいーし」

「呼ぶわけないやん」

 女子を名前で呼んだことなんて、小学生のころ以来一度も無かった。恐ろしい提案をしてくる日下の方を見もせずに、足を進める。


「高倉は高倉なんやっけ」

「言わん」

「えー」


 何故か一緒に教室に向かっているようなかたちになって動揺する。足が勝手に早歩きになるが、日下は気にした様子もなく隣で話している。


「じゅーんや」


 驚いて足を止める。隣を見ると、にっと口の端をつり上げてた。


「知っとるし」

「……まさか、それで呼ばんよね?」

「えー呼ぼうかな」

「やめて」

「なし?」


 答えられなくて、俺はうっと言葉に詰まった。


「いーやん。なしいかんと?」


 立って並ぶと、俺の方が若干高いだけで、目線はほとんど変わらなかった。明確な理由を口にすることが出来ないでいると、近くを歩いていたクラスメイトがこちらに寄ってきた。


「なんしよんー。お前ら、最近仲いいな」

「そー」

「違う。別によくない」


 恥ずかしさと混乱で咄嗟に強く否定した俺を、日下がちらりと見た。しまった、と思っても、上手くフォローする言葉も浮かばない。俺は日下とクラスメイトから逃げるように歩き出す。


「振られとるやん」

「毎日振られようわー」


 後ろから笑い声がする。俺を笑う声が背中を刺した。




***




「じゅーんや」


 休み時間、寝ているふりをしていた俺の背中に、ずしんと何かが乗っかった。顔を上げなくても柔らかい物が何か察して息が止まる。


 俺の肩に手を乗せ、背中に乗っているのは日下だった。夏服越しに柔らかい肉が押しつけられている。鼻先を日下の明るい色の髪がくすぐる。


「またかまいよんー」

「こりんね」

「潤也が折れてくれんけん」


 背中にのっかられたまま、会話が始まってしまった。細心の注意を払いながら寝たふりを続ける。


「あと何日で折れるか賭ける?」

「のってやろーじゃん」


 クラスメイトの男子の言葉に、日下が勝ち気に答える。

 人の背中の上で、人を賭け事に使うなと腹が立つ。そういうことは大体、本人がいないところでやるものじゃないのか。


「んじゃあと二年」

「はあ?! そんな距離あるように見えるん?! そこまで無いよねえ!?」


 日下が俺の肩をガクガクと揺さぶった。話を聞いていることを前提とした質問に、狸寝入りがバレていたことを知る。


「知らん」


 むすっとした顔を作るのに精一杯の俺を、クラスメイトがにやにやと笑っている。


 だから嫌なんだ。舌打ちをして顔を顰める。俺の顔を覗き込む日下が、睨んでいる。


 どうせ、ふざけてるだけ。


 そう思えなくなってきている自分が、嫌で堪らない。




***




「潤也ー」


 昨日送られてきていた日下家の夕飯の写真を見ていた俺は、スマホをそっと仕舞う。

 窓を締め切り、冷房がつき始めた頃。日下が俺の名前を呼ぶことに、もう誰も反応しなくなっていた。


「なん?」

「見て」


 日下が定位置に座りながら、上機嫌で一枚のプリントを見せつけてきた。訝しみつつも、プリントを手に取ると、学校で配布された物では無かった。採点済みのプリントには多くの丸がつけられている。綴られているのは、以前この場所で彼女が頭を悩ませていた問題によく似ていた。


「……出来とるやん」

「頑張ったと思わん??」


 このくらい当然だと、以前の自分なら言っていたに違いないのに、気付けば口から溢れていた。


「思う」

「ほんと?!」


 日下はかなり驚いたようで、顔を輝かせて俺を見た。珍しく、表情が全開でたじろぐ。純粋な喜びをぶつけられるのが恥ずかしくて、否定したくなるのを必死に堪え、小さく頷く。


「やったー! じゃあ、なんかご褒美ちょうだい」

「はぁ? 俺、関係無くない?」

「んじゃ、あたしがご褒美あげる。潤也のおかげやし」

「いや、なんもしとらんし」

「家庭教師しーって言ってくれたやん」

「なら親になんかし。金出してくれたんも、日下の時間大事にしてくれたんも親やろ」


 思春期を拗らせた健全な男子校生に、ご褒美なんて簡単に言うべきではない。出来るかぎり無関心を装って、俺はプリントを返した。


「瑠夏、また振られよるん」

「もういい加減こっち帰ってくれば」


 クラスメイトがくすくすと笑いながら言う。「こっち」と何気なく使われた言葉に、明確に自分と日下の住む世界が違うことを感じる。


 世界が違うことなんて、言われなくてもわかってた。


「いや、どっちやし」


 呆れた顔をして日下がクラスメイトに言い返す。


「あいつらの言う通りやろ」


 いつもなら、クラスメイトと日下の会話に交ざったりしない俺が口を開いたことに驚いたのか、日下が俺を振り返った。


「俺と日下やと、どう考えても違うやろ」


 いつもより鋭くなってしまった声に、日下が異変を感じて動きを止める。


「いい加減にしろよ。なんなんずっと。別に話しかけてきて欲しいとか言ってない。さっさと帰れよ」


 自分でわかっていたつもりでも、他人から突きつけられた事実にものすごく動揺していた。胸の中がぐちゃぐちゃだった。ふいに、昨日の日下家の晩ご飯のメニューを思い出す。

 送られてくる日下の日常が、自分の日常とそんなに変わらないことに、安堵なんてしたくなかった。


 日下が立ち上がる。


 大きく足を上げた日下は、ガンッと俺の机を蹴った。


「うっざ」


 完全にびびった俺はぎょっとして日下を見上げる。日下は表情を無くして俺を睨み付けていた。


「今後も一生違うんですか? 潤也と潤也のお友達は全員同じお母さんから生まれたんですか? 同じ幼稚園通った人間とじゃないと仲良く出来無いんですか? ああ?」


 ごめんなさいと謝りたくなったが、口を挟む余地が無い。


「もーいい。知らん」


 日下が立ち去る。

 先ほどまで日下と話していたクラスメイトが、居心地悪そうに俺に目配せをした。俺もなんとなく視線を返す。


 日下の剣幕に教室にいた誰も何も言えず、いじることさえ出来無かった。




***




 日下を怒らせてから二週間が経った。

 その間、俺のスマホは鳴らないし、浅野の席に他の誰かが座ることも無かった。


 仲違いをした後に受けた期末試験は、散々だった。


 帰り道でしゃがみ込み、頭を抱える。


 とっくに、違う世界なんかじゃなかった。

 同じ世界に暮らしていて、もろに影響を与え合っていた。


 どうしていいのか全くわからない。


 いいや――どうすればいいのかは、わかっていた。ずっと、日下がしてくれていた。

 わかっているのに、勇気が出ていないだけ。


 もう、気軽に話しかけられる距離じゃない。

 離れると遠い。でも違う世界だと言い張るのは、正しく利口な主張ではなく、逃げてるだけだと知った。


「なーう」


 しゃがみこんで頭を抱えていた俺のズボンに、野良猫がすり寄ってきた。

 野良猫が逃げないように、ポケットに入れたスマホにゆっくりと手を伸ばす。パシャリと一枚写真を撮ると、音に驚いたのか猫はひゅんと尻尾を揺らして立ち去った。


 震える指で操作する。

 俺からメッセージを送ったのは、初めてだった。


 すぐに既読がつく。しゃがみ込んだ姿勢のまま、スマホを凝視する。

 待っている数秒が、ものすごく長く感じた。


[ どこにおるん ]

[ 写真撮ったら逃げてった ]

[ 猫のことやないし ]


 俺は近くにあるコンビニの名前を打って、立ち上がった。




***




 ふてぶてしい顔をした日下が歩いてくる。

 薄手のカーディガンのポケットに両手を入れている。ガンをつけられていると言っても過言では無かった。


 コンビニの駐車場で落ち合う。田舎のコンビニの駐車場は、コンビニの数倍広い。駐車場の隅の人気の無い場所で日下が足を止める。


「あんたさ」


 冷え冷えとした声が向けられ、俺も足を止めた。


「付き合ってからもずっとこーなん? 喧嘩の度にあたしが折れてやらんといかんの?」

「……」


 絶句して何も言えなくなっている俺を、日下はまた睨み付ける。


「聞いとる?」

「……お、俺も、折れた」

「あたしの方が億万倍折れとる」


 反論できず、また口を閉ざした。写真を送ることは確かに勇気が必要だったが、俺の謝罪の意図を察してここまで来てくれたのは、紛れもなく日下だった。


「大体、なんなん。あたし今も学校から歩いて来ましたけど。歩ける距離におるんに、世界が違うってなんですかー」

「……」

「答えろし」


 日下の顔を見ることが出来ず、彼女のスニーカーについている星の模様を見つめながら口を開いた。


「……自信が、無いんだよ」

「なんて?」

「日下の横にいると、劣等感ばっか出る」

「うっさい。あたしは一年から勉強やり直してる」


 ぐうの音も出なかった。

 日下はずっと、頑張っていた。俺のように卑屈な考えでは無いにしろ、俺と日下に接点が無いことには気付いていたはずだ。なのに彼女はずっと何かしらの共通の話題を探して、話しかけてきてくれていた。


「大体自信ってなん。そんなんならあたしの方がねーわ! 潤也。女子に声かけ続けられたら、あたしやなくても誰でも好きになったやろ?!」


 返事が出来ずに顔を逸らした。違うと言える自信は無かった。


「最後に聞いてやる。潤也はあたしと仲良くなりたいん? なりたくないん?」

「……言わんくてもわかるやろ」

「自信がありませーん」


 胸を張り、首を傾げて日下が煽る。


「そんぐらい言えし」


 冷たい声に叱責され、拳を握りしめる。


「……なりたい」

「はー? 聞こえませんけどー?」

「だから、仲良くなりたい」

「聞こえませーん」

「だからっ――!!」


 顔を上げて日下を見る。言葉も動きも、その瞬間止まってしまった。


 ふざけた顔をしているのかと思っていた日下が、泣きそうな顔でこちらを見ていた。


「なん?」


 ずっ、と鼻を啜る音が続いた。眉根は寄せられているが、目の潤みから強がっているのだと伝わる。


 そっか。とすとんと胸に落ちてきた。


 本当に、俺と日下は――手を伸ばせば届く距離にいたんだな。


 ゆっくりと手を伸ばす。日下は微動だにしなかった。許可を貰ったのだと思うことにして、そっとカーディガンの生地を摘まんだ。


「――だから」


「……」


「だから、俺は」


「……うん」


「……俺は、日下が……」


「うん」


「……――やっぱ言わんと駄目?」


「言えし!!」


 星のマークがついたスニーカーで、腹を蹴られる。


 じんじんと痛む腹を押さえながら、俺はなんとか絞り出す。


「……好き、です」


 その瞬間、声をあげて泣きだしてしまった日下を上手く慰める言葉も思い浮かばず、俺は大急ぎでコンビニでハーゲンダッツのグリーンティーを買ってきた。






 おわり


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