ダイヤモンド
真花
ダイヤモンド
そんな必要なんてどこにもないのに、平和なのに、殺すかも知れない、殺されるかも知れない、そんな場所に送り出す恋人の気持ちを考えたことはあるのか。
私は燃え盛る声が唇を越えそうになるのを、抑え込んだ。ずっと溜め込んでいる、何度も試合がある度に、いや、あなたが嬉々として練習に行く度に、同じことを繰り返し想っては口を閉ざして、それは一切慣れることなく徐々に私の命を削っていっている。あなたの美しさが戦うことに根ざしていても、他の全ての人があなたのファイトを心待ちにしていても、私にはそんなことはどうでもいい。
「当代最強、
噛み殺している涙に気付かない、
「その日は絶対に観に来てくれ。な、
「嫌。行きたくない。あなたが殴られるのなんて見たくない」
「特別な試合なんだ。いや、全ての試合は特別だよ、でもその中でもこの試合だけは違う」
「期待を背負っているからなの?」
「それは関係ない。俺は誰に言われなくても、止められたって、ボクシングをする。好きってのはそう言うことだ。期待があるとか、ないとか、そう言う問題じゃない」
眉間に皺を寄せた龍介は微かに寂しそう、今更、私がこんなことを言うから。彼は目をゆっくり閉じて、もう一度最初から私を見付けるみたいに私の眼をじっと、じっと大切なものを慈しむように見る。
何かを言おうとして、止まる。
言い難い何かがあるのか。でも彼には後ろめたさを感じない。それよりももっと、子供の頃に私を守ってくれたときの、誇らしく照れた、傷だらけの顔を思い出す。彼はそうは言わないけど、あのときのことが彼が拳で戦う人生を選ぶ遠因になっている。何度だって、弱いくせに私を守って、傷だらけになって、でも今はもう軟弱ではない。この国でトップクラスに強い。でも、根っ子は私を守ろうと非力を奮ったあの日のまま。
彼が勝つか負けるか、どれだけ殴られるか、そう言うことじゃない。
信じて欲しいと、彼の眼は訴えている。
「そんなの、あなたのことを信じない訳、ない。私は、傷付く龍介が見たくない」
「それでも、今回だけは来てくれ」
何か、きっと理由が、言えない理由がある。彼は何があっても言わないだろう。だったら、私の積み重ねて来たものも背負って、そんなに大きな転換点なら、私の想いを知って行って。
「龍介が傷付いて、傷付けて、そんなことをするのが、嫌い」
「知ってる」
彼は眉一つ動かさない。
「他のことだったらよかったのに」
「分かってる。でもダメなんだ。ボクシングしかない」
「私じゃない人なら、もっと応援出来るんだと思う」
「それもダメなんだ。妙じゃなきゃ、ダメなんだ」
私は彼の視線と同じだけの力で見返す。
「知ってる」
彼は頷いて、私がいて、彼がいて、彼の腕で橋渡されていて、二人だけど、二人じゃない。やっぱり時間はここで一旦終了だ。だって私達が私達なんだもん。彼のやっていることが嫌いだ。でも、龍介のことが好きだ。大切だ。だから結局いつものように彼を送り出す。必ず帰って来る。私も頷く。
「妙、試合を観に来てくれ」
「分かった」
私がもう一度頷くと、彼は手を戻す。記録されて止まった時間が、ぽん、と突き放すように動き出す。
試合は白熱の接戦、第八ラウンドに龍介はノックアウトされた。
意識が戻らず、救急搬送された。私は関係者として同行して、龍介はそのまま死んだ。
霊安室で龍介の顔を見れば、ボコボコに傷だらけ。指でそっと触れる。
結局死にやがった。
私に何を見せたかったんだ。
でも今にも起き上がって夢の続きを語りそう。
――届こうとする奴は届かないよ。越えようとして、やっと届くんだ。
あなたの夢なんて応援しない。でもあなたは応援したい。あなたを応援したかったのに。
そのクシャッとした笑顔も。
ソワソワした夜も。
燃える瞳も。
全部がはたき潰されて、張り付いて、もう動かない。
「龍介」
あなたは動かない。
私も。
時間が途絶した。ここで、全部終わり。
「龍介」
二度声を掛けても応じないから、胸の中から液がきゅうっと絞れて来て、眼を通るときにそれが涙になって、落ちる。龍介の頬に落ちる。冷たいよって払わないし、その涙が彼が流したもののように流れる。酷い顔。何か言ってよ。最後にさ、何か言って。
私に膨張が激しく、声を荒げる。
「何か言って!」
龍介は黙って泣いている。多分、ずっと。
「妙ちゃん」
私は振り向けない。だって眼を離したらもう龍介は行ってしまうから。私は龍介だけを見続ける。龍介のお母さんだって悲しい、だけど、私は。私は龍介とまだ別れたくない。
「妙ちゃん。ごめんなさい。息子のせいであなたを泣かせてしまって」
彼女の決意。一番大事なものから、私を解放しようとしている。私は龍介の顔を見たまま、首を振る。私の動きが収まって、また龍介と私の緊密に戻ってから、お母さんは言葉を継ぐ。
「ボクシングなんてしなければ、死ぬことはなかったわ。私はやめて欲しかった。妙ちゃんもそう言っていたわ。私達二人だけが、同じ気持ちだったの」
私は頷く。小さく頷く。龍介がバツの悪そうな顔をした。
「お母さん。それでも彼はやりたかったんです。全てを投げ打つ程に、燃えていたんです。私はだから、彼を赦そうと思います」
「妙ちゃん」
もう一度呼び掛けられて、でも私は振り返らない。龍介が、でも、少し薄れている。
「ありがとう。龍介には怒られそうだけど、言わせて貰うわ」
でも、彼女は言葉の重みが
やっぱり本当は死んでないのかも知れない。
この部屋も、線香の香りも、消沈するお母さんも全部が演出で、龍介は横たわっているだけなのだ。
それを確かめるために脈を取る。
――何も触れない。
息を聞く。その吐息が私の耳介に届くように。
――いくら待っても、ない。
やっぱり死んでいる。
だって、私の呼び掛けに応えない、それも二回。龍介がそんなことする筈がない。
「死んじゃったんだね、龍介」
龍介が笑った。微かにだけど、間違いなく笑った。いつもの龍介の笑い。私の龍介の笑い。
私は彼の元を離れて、お母さんの前に立つ。私が何を言うより前に、お母さんが始める。
「龍介が死んだことは悲しいわ。……でも、あなたはあなたの人生を歩んで欲しい。忘れて欲しくはないの。だけど、龍介のためにあなたが人生を失ってはだめ」
憔悴したお母さんに確かな意志があって、それは彼女が生きて来て正しいと思えることを、最愛の息子が愛した人に伝えようと、涙を噛み殺しているのは彼女だ。
だから私も堪えようとしたのに、出来なくて、もっと涙が溢れる。
「ありがとうございます」
「きっともうすぐあなたは私の娘になる筈だったわ」
お母さんは鞄の中から小箱を取り出す。そうか。そうだったのか。
「妙ちゃん。息子の荷物から出て来たものよ。今日、渡す筈だったのね、勝っても、負けても」
手渡された小箱の中には、指輪が据えられていた。
「私が貰っていいのでしょうか」
「他の誰でもない、あなただけのためのものよ」
私は指輪を左手の薬指に嵌めると、もう一度龍介のところへ行く。
急に涙が止まって、彼の顔をいつか彼が私にしたように、じっと見詰める。
――ごめん。
はにかむから、まったくもう、って、こうやってボクシングも許していたような気もする、私はあなたが大好き。未来にどうするかなんてまだ分からない。お母さんは私は私の人生を送れって言うけど、そうね、一年くらいは喪に服すよ。黒い服なんて着ない、あなたの最後の言葉の、指輪を付けるから。
(了)
ダイヤモンド 真花 @kawapsyc
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