ダイヤモンド

真花

ダイヤモンド

 そんな必要なんてどこにもないのに、平和なのに、殺すかも知れない、殺されるかも知れない、そんな場所に送り出す恋人の気持ちを考えたことはあるのか。

 私は燃え盛る声が唇を越えそうになるのを、抑え込んだ。ずっと溜め込んでいる、何度も試合がある度に、いや、あなたが嬉々として練習に行く度に、同じことを繰り返し想っては口を閉ざして、それは一切慣れることなく徐々に私の命を削っていっている。あなたの美しさが戦うことに根ざしていても、他の全ての人があなたのファイトを心待ちにしていても、私にはそんなことはどうでもいい。

「当代最強、唐鎌からかまを超える日が、ついに来る」

 噛み殺している涙に気付かない、龍介りゅうすけは私に言っているけど、私に言っていない。その眼は燃えていて、なのに澄んでいて、試合が決まった今日で時間がもう終わりになればいいのに。そしたら、龍介はずっとその日に向かって進み続けて、でも決して命懸けの日は来なくて。私は命を賭す龍介が好きだ。でもそれは死ぬかも知れないところから彼が生還するからじゃなくて、彼がそれだけのものに出会えて、全てを忘れて、風のようにあるからだ。別の何かだったら。何かだったらよかった、彼のことは好きだけど、彼のやっていることは嫌いだ。

「その日は絶対に観に来てくれ。な、たえ、約束してくれ」

「嫌。行きたくない。あなたが殴られるのなんて見たくない」

 かぶりを振る私の両肩に手を置いて、人を殴打するために錬磨されたその両手を私の肩に乗せて、グッと力を込める、そこから流れ込んで来たものは、ただ試合を観て欲しいと言う以上のもので、でも何か分からない。彼がこの一戦に懸けているものなのかな、期待はされている、それを認識もしているだろう、でも期待で変わるならそれは彼ともう違う。

「特別な試合なんだ。いや、全ての試合は特別だよ、でもその中でもこの試合だけは違う」

「期待を背負っているからなの?」

「それは関係ない。俺は誰に言われなくても、止められたって、ボクシングをする。好きってのはそう言うことだ。期待があるとか、ないとか、そう言う問題じゃない」

 眉間に皺を寄せた龍介は微かに寂しそう、今更、私がこんなことを言うから。彼は目をゆっくり閉じて、もう一度最初から私を見付けるみたいに私の眼をじっと、じっと大切なものを慈しむように見る。

 何かを言おうとして、止まる。

 言い難い何かがあるのか。でも彼には後ろめたさを感じない。それよりももっと、子供の頃に私を守ってくれたときの、誇らしく照れた、傷だらけの顔を思い出す。彼はそうは言わないけど、あのときのことが彼が拳で戦う人生を選ぶ遠因になっている。何度だって、弱いくせに私を守って、傷だらけになって、でも今はもう軟弱ではない。この国でトップクラスに強い。でも、根っ子は私を守ろうと非力を奮ったあの日のまま。

 彼が勝つか負けるか、どれだけ殴られるか、そう言うことじゃない。

 信じて欲しいと、彼の眼は訴えている。

「そんなの、あなたのことを信じない訳、ない。私は、傷付く龍介が見たくない」

「それでも、今回だけは来てくれ」

 何か、きっと理由が、言えない理由がある。彼は何があっても言わないだろう。だったら、私の積み重ねて来たものも背負って、そんなに大きな転換点なら、私の想いを知って行って。

「龍介が傷付いて、傷付けて、そんなことをするのが、嫌い」

「知ってる」

 彼は眉一つ動かさない。

「他のことだったらよかったのに」

「分かってる。でもダメなんだ。ボクシングしかない」

「私じゃない人なら、もっと応援出来るんだと思う」

「それもダメなんだ。妙じゃなきゃ、ダメなんだ」

 私は彼の視線と同じだけの力で見返す。

「知ってる」

 彼は頷いて、私がいて、彼がいて、彼の腕で橋渡されていて、二人だけど、二人じゃない。やっぱり時間はここで一旦終了だ。だって私達が私達なんだもん。彼のやっていることが嫌いだ。でも、龍介のことが好きだ。大切だ。だから結局いつものように彼を送り出す。必ず帰って来る。私も頷く。

「妙、試合を観に来てくれ」

「分かった」

 私がもう一度頷くと、彼は手を戻す。記録されて止まった時間が、ぽん、と突き放すように動き出す。


 試合は白熱の接戦、第八ラウンドに龍介はノックアウトされた。

 意識が戻らず、救急搬送された。私は関係者として同行して、龍介はそのまま死んだ。

 霊安室で龍介の顔を見れば、ボコボコに傷だらけ。指でそっと触れる。

 結局死にやがった。

 私に何を見せたかったんだ。

 でも今にも起き上がって夢の続きを語りそう。

――届こうとする奴は届かないよ。越えようとして、やっと届くんだ。

 あなたの夢なんて応援しない。でもあなたは応援したい。あなたを応援したかったのに。

 そのクシャッとした笑顔も。

 ソワソワした夜も。

 燃える瞳も。

 全部がはたき潰されて、張り付いて、もう動かない。

「龍介」

 あなたは動かない。

 私も。

 時間が途絶した。ここで、全部終わり。

「龍介」

 二度声を掛けても応じないから、胸の中から液がきゅうっと絞れて来て、眼を通るときにそれが涙になって、落ちる。龍介の頬に落ちる。冷たいよって払わないし、その涙が彼が流したもののように流れる。酷い顔。何か言ってよ。最後にさ、何か言って。

 私に膨張が激しく、声を荒げる。

「何か言って!」

 龍介は黙って泣いている。多分、ずっと。

「妙ちゃん」

 私は振り向けない。だって眼を離したらもう龍介は行ってしまうから。私は龍介だけを見続ける。龍介のお母さんだって悲しい、だけど、私は。私は龍介とまだ別れたくない。

「妙ちゃん。ごめんなさい。息子のせいであなたを泣かせてしまって」

 彼女の決意。一番大事なものから、私を解放しようとしている。私は龍介の顔を見たまま、首を振る。私の動きが収まって、また龍介と私の緊密に戻ってから、お母さんは言葉を継ぐ。

「ボクシングなんてしなければ、死ぬことはなかったわ。私はやめて欲しかった。妙ちゃんもそう言っていたわ。私達二人だけが、同じ気持ちだったの」

 私は頷く。小さく頷く。龍介がバツの悪そうな顔をした。

「お母さん。それでも彼はやりたかったんです。全てを投げ打つ程に、燃えていたんです。私はだから、彼を赦そうと思います」

「妙ちゃん」

 もう一度呼び掛けられて、でも私は振り返らない。龍介が、でも、少し薄れている。

「ありがとう。龍介には怒られそうだけど、言わせて貰うわ」

 でも、彼女は言葉の重みがつかえたかのように黙る。拭き清められた筈の龍介から血の匂いがした。我慢して動かないでいなくてもいいのに、ねえ、龍介。お母さんは何も言わないままで、私の側を離れた。私の頬にはこんこんと溢れる涙が、いつ終わるとも知らない彼の最期に向き合い続けている。

 やっぱり本当は死んでないのかも知れない。

 この部屋も、線香の香りも、消沈するお母さんも全部が演出で、龍介は横たわっているだけなのだ。

 それを確かめるために脈を取る。

――何も触れない。

 息を聞く。その吐息が私の耳介に届くように。

――いくら待っても、ない。

 やっぱり死んでいる。

 だって、私の呼び掛けに応えない、それも二回。龍介がそんなことする筈がない。

「死んじゃったんだね、龍介」

 龍介が笑った。微かにだけど、間違いなく笑った。いつもの龍介の笑い。私の龍介の笑い。

 私は彼の元を離れて、お母さんの前に立つ。私が何を言うより前に、お母さんが始める。

「龍介が死んだことは悲しいわ。……でも、あなたはあなたの人生を歩んで欲しい。忘れて欲しくはないの。だけど、龍介のためにあなたが人生を失ってはだめ」

 憔悴したお母さんに確かな意志があって、それは彼女が生きて来て正しいと思えることを、最愛の息子が愛した人に伝えようと、涙を噛み殺しているのは彼女だ。

 だから私も堪えようとしたのに、出来なくて、もっと涙が溢れる。

「ありがとうございます」

「きっともうすぐあなたは私の娘になる筈だったわ」

 お母さんは鞄の中から小箱を取り出す。そうか。そうだったのか。

「妙ちゃん。息子の荷物から出て来たものよ。今日、渡す筈だったのね、勝っても、負けても」

 手渡された小箱の中には、指輪が据えられていた。

「私が貰っていいのでしょうか」

「他の誰でもない、あなただけのためのものよ」

 私は指輪を左手の薬指に嵌めると、もう一度龍介のところへ行く。

 急に涙が止まって、彼の顔をいつか彼が私にしたように、じっと見詰める。

――ごめん。

 はにかむから、まったくもう、って、こうやってボクシングも許していたような気もする、私はあなたが大好き。未来にどうするかなんてまだ分からない。お母さんは私は私の人生を送れって言うけど、そうね、一年くらいは喪に服すよ。黒い服なんて着ない、あなたの最後の言葉の、指輪を付けるから。


(了)


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