【後編】 『探偵になるということ』
アイディアが浮かんでから約1時間後。
もう夜も耽って、昼間とは打って変わって人気の失せた自然公園に、僕は帰ってきた。
広大な芝生の端の、林が広がり始める場所の入口近くに、紙皿を置く。
それから、スーパーで買ってきた厚切りベーコンと百円ライターを取り出して、ライターの火をベーコンへ。チリチリとベーコンの表面の脂が音を立て、焦げ目がつき、香ばしいニオイが出始めたところで、紙皿の上へと置いた。
そして音を立てないよう、慎重に距離をとる。
「六条さんは、オーちゃんは炙りベーコンが大好きと言っていた。もし近くにいたら、寄ってくるはずだ」
そう自分に言い聞かせるように、声に出して言った。
正直、上手くいく保証なんてない。
でも鼻が利く犬なら近寄ってくるだろうし、仮にオーちゃんではなく、野犬が近寄ってきたとしても、あとを追えば棲家を把握して、手がかりを掴めるかもしれない。
自分一人の力で見つけられないなら、相手から出てきてもらう。
これが、特技のひとつだって持たない今の僕にできる、精いっぱいの努力だ。
なるべく警戒されないよう、ベーコン皿の見える位置で芝生に寝転がって、注意深く観続ける。芝生の青くささと土くささ、一日中駆け回った身体から漂う汗のニオイに嫌気が差しつつも、懸命にこらえ続ける。
そのまま三十分ほどが経過した頃だろうか。
僕の集中も乱れ始めてきたタイミングで、とうとうベーコン皿に近づく黒い影が見えた。
目を凝らすと、それは間違いなく、ピンクの服を着た白い犬。
探しているオーちゃんだ!
慌てて立ち上がろうとしたものの、寸前で気を静めた。
落ち着こう。犬の立場になって考えれば、ここで慌てて近づけばベーコンを捨てて逃げるに決まっている。
「今の伏せた姿勢のまま、ゆっくりと近づくんだ」
匍匐前進で犬へと近づく。
犬はコチラを気取る様子もなく、ベーコンをくわえて、すぐ近くの林に向かって歩き出した。
どうやら、その場で食べずに巣へ持ち帰る気らしい。
これは僕にとって好都合だ。
置いていかれないよう素早く、でも静かに匍匐前進を続け、僕も木々の生い茂った中を進んでいく。
夜の林の中はほとんど何も見えないほど暗く、湿った空気が漂っていた。普段着としても使っている学ランが、あっという間に泥まみれだ。無茶な姿勢で犬のあとを追い続けたせいで、息も絶え絶え。爪の中に小石が入り込んで痛いし、足も擦り剥いたようでヒリヒリする。
「……まるで、あの時みたいだ」
泥まみれの身体と、全身が擦り切れたみたいな痛みで、ずっと昔に誘拐された時のことを思い出した。
幼い頃に僕は未だ正体不明の組織に誘拐されて、土くさい施設に監禁された。今では記憶が曖昧だけど、全身ボロボロの状態で逃げたことと、目の前で女の子が死んだことはよく覚えている。今でも、目の前で女の子が無残に惨殺される光景を、夢に見てしまうんだ。
あの事件の真相を探るためにも、僕は必ず、探偵にならないといけない。
たとえ大きな事件じゃないとしても、これは僕が請け負った依頼。
探偵を目指す者として、諦めるワケにはいかないんだ。
「ハァ……ハァ……あ、犬が、止まった……?」
ようやっと事態に変化が生じた。
公園の敷地の端が近づいてきたところで、犬が足を止めたのだ。
犬は一際大きな茂みの中へと入っていった。
まさか――と思って、茂みに慎重に近づき、下から覗き込む。
するとそこには、成犬とは思えない小型の愛らしい犬たちが身体を寄せ合わせていて、その目の前には例のベーコンが置かれていた。
「これ、って……」
野犬だろうか。
僕のイメージしていた野犬はもっと大きくて、恐ろしく、凶暴。
しかし、茂みの下に集まっていた犬たちは、あまりにも弱々しくて、僕の顔を見て威嚇するどころか、怯えた声を出す始末。
目の前の事態に脳の処理が追いつかず、完全に固まってしまった。
――ワンッと大きな鳴き声が聞こえて、素早く振り返る。
同時に、写真で見た白いポメラニアン、オーちゃんが茂みから飛び出してきて、けたたましく僕を吠え立て始めた。
自分よりずっと身体の大きな僕に立ち向かうその姿は、まるで我が子を守る母親のようだ。
「まさか、この子たちは……キミの子どもなの?」
言ってみてすぐに、間違いだと悟る。
オーちゃんがいなくなったのはたった一週間前の出来事だし、薄暗いながらも、茂みの下に見えた姿はオーちゃんと全然異なっていた。
状況から考えてみても、オーちゃんの子どもではないことは明らかだ。
となると、まさかこの子犬たちが、ウワサになっていた野犬、なのだろうか……?
いくら考えても分からないので、取り敢えず群青寺先生に電話で報告をすることにした。
「おっ、見つけたか! よくやったぞ、和都! これで報酬30万円ゲットだ!」
「そんな高額な報酬の依頼だったんですか……なら自分で担当してくださいよ」
「信頼している証拠だと思えって。いやー、これで来月の御山塚記念の軍資金はバッチリだなぁ……滾ってきた」
「いや、せっかくの高額な報酬なんだから貯金に当ててください……でも、実は妙な状況になってて」
「妙な状況? 何だよ、話してみろ」
僕は今の状況をできる限り仔細に話した。
探していたオーちゃんが野犬の棲家らしき茂みで見つかったこと。
茂みの下には子犬たちが、他に野犬らしき影は見つからなかったこと。
そしてオーちゃんは、野犬たちを守るような動きを見せていること。
「なるほどな。大方、その子犬たちの親は捕まって保健所に送られたんじゃないか? ウワサが立つほど野犬がいるのに、市が動かないワケないしな」
「えっ……じゃあ、この子犬たちは?」
「もう帰ってこない親を待ち続けているんだろうよ。この世は残酷だねぇ……飼い主とはぐれたオーちゃん氏が親代わりを務めたくなるのも、無理からぬってもんだ」
「そんな……」
ベーコンをその場で食べず、慎重に子犬たちの元まで運んだのも、子犬たちに食べさせてあげるためか。
オーちゃんに再び視線を向けると、未だに僕から視線を外さず、子どもたちの盾となるように茂みの前に立って、唸り続けている。
血など繋がっていないはずなのに、その愛情は本物にしか見えなかった。
「子犬たちには悪いけど、オーちゃん氏を捕まえて戻ってこい。見つけてさえしまえば、必要な道具は渡してあるから、一人でも平気だろ?」
「……はい。そう、なんですけど」
グルルルと唸るオーちゃんと目を合わせる。
この子と、子犬たちを引き離す。果たして、それが正解なのだろうか?
僕が目指す探偵という仕事は、依頼をこなすのが最大の使命。
この程度のことで決意を鈍らせるなど、あってはならないはず。
だけど、だけど――
「群青寺先生……ひとつお願いがあります」
提言せずにはいられなかった。
◆
後日、群青寺探偵事務所の来客用スペースで、テーブルを挟んで群青寺先生と六条さんが話していた。
六条さんは先日とは異なる、金の装飾が入った緑のスーツ。
対する群青寺先生は、一切の遊びがない黒一色のスーツに、群青色のネクタイを締めた状態。
話し出す前から、妙な息苦しさが漂っている。
六条さんの香水の香りがキツいこと以外にも、息苦しい理由は存在する。
「六条さん、足をお運びいただき、ありがとうございます」
「ふふ、そんなの当然でしょう? 愛しのオーちゃんが見つかったというのだから! さぁ、オーちゃんはどこにいるの? 早く私の前に連れてきてちょうだい!」
「ええ、もちろんです。和都、連れてきてくれ」
先生に言われた通り、オーちゃんが入ったケージを給湯室から運んできた。
正面の入り口からケージの中を覗き見て、六条さんが歓喜する。
「オ、オーちゃん! 探していたわよ! 寂しかったでしょう? さぁ、ママのところへいらっしゃい! さぁ、さぁ!」
しかし、僕がケージを床に置いて入り口を開いても、オーちゃんは出てこなかった。
代わりに出てきたのは、黒色に茶色、焦げ茶色と、色がまったく異なる三匹の子犬たち。
見るからにポメラニアンではないその子たちを見て、六条さんは心底驚いた顔をして、言葉を失った。
「な、何なの、この汚らしい犬たちは! おどきなさい!」
六条さんがソファから立ち上がり、子犬たちに手を上げようとした次の瞬間――オーちゃんがケージから飛び出してきて、威嚇するように吠えた。
「オーちゃん……!? あ、あなた、一体どうしたの!? ママに吠えるなんて、いけない子!」
「この子たちは、親を亡くした子犬たちです。オーちゃんは六条さんとはぐれている間、ずっとこの子犬たちを守っていたんですよ」
驚愕した様子の六条さんを宥めるよう、僕は語りかけた。
僕の言葉にはまったく耳を傾けていない印象だったものの、気にせず、言葉を続ける。
「この子犬たちのそばから離してしまうと、オーちゃんはどうしても鳴き止んでくれませんでした。だから、一緒に連れてきたんです。オーちゃんと一緒に、この子犬たちも連れ帰ってくださいませんか?」
「ハァ? 何をバカなことを言っているの? そんな汚らしい雑種、連れ帰るワケがないでしょう!」
提案はむげなく一蹴された。
怒り心頭といった様子で、六条さんは僕に怒鳴り続ける。
「そもそも、ウチの可愛いオーちゃんを野良犬と一緒のケージに入れること自体、ありえない行為だわ! 一体どういう教育を受けているの!? あ~ヤダヤダ、早くオーちゃんを連れ帰って、お医者さんに見せてあげないと!」
「じゃ、じゃあこの子犬たちは……」
「知らないわ! 保健所にでも連れていきなさい!」
取り付く島もなく、ガックリと肩を落とす。
分かってはいた。
見るからに、血統を大事にしていそうな奥様だ。
群青寺先生に頼んで、ダメ元でお願いする機会をもらったものの、やっぱり説得などできない。
六条さんに向かって吠え続けるオーちゃんの鳴き声を聞きながら、自らの無力さに打ちひしがれることしかできなかった。
「六条さん……ウチの助手が不躾な相談をしてしまって、申し訳ございません」
群青寺先生がソファから立ち上がって、僕に代わって深々と、頭を下げた。
いつものおちゃらけ具合がウソのように落ち着きのある表情。
群青寺先生が頭を下げた空間だけを照らす照明装置でもあるみたいに、目を離せなくなる。
改めて、目の前の探偵の変幻自在ぶりには、感心せずにいられない。
「ただ、ソイツは一日中駆け回って、泥だらけになりながらオーちゃん氏を見つけてくれたんです。その辺で勘弁してあげてください」
「……フン、まぁいいわ。オーちゃんが無事に戻ってきてくれたんだからね。さぁ、早く精算しましょう」
「ご理解ありがとうございます。それにしても、オーちゃん氏はやけに、飼い主の六条さんに吠え立てますね。以前から、こんな調子で?」
「え、ええ……ポメラニアンって、よく鳴く品種だから仕方がないわ。今日は、普段に増して鳴いている気がするけどね」
「え……」
驚いたように目を見開き、群青寺先生が口に手を当てる。
「……それは、マズいですね。オーちゃん氏は、野犬の子どもを妊娠している可能性があります」
「えっ……!? ど、どうして、そんなことが分かるの!?」
今にも掴みかからんばかりの剣幕で詰め寄る六条さんに、群青寺先生は少し言いづらそうに答える。
「気が立っているからですよ。妊娠中の犬は、みんなこのように気が立って、吠えまくるんです。もし六条さんに父親の心当たりがないとしたら、相手は野犬でしょうね」
「ええっ!? 何それ、信じられないわ! 悪夢よ、悪夢!」
がなり立てる六条さん。
その様子を見て、困ったように顔をしかめる群青寺先生。
予想外の展開に、僕はただ見守り続けることしかできない。
「悪夢などと言われましても……私たちは依頼通り、最速でご家族を発見しましたし、依頼の内容は無事に達成したはずです」
「き、きっとあなたの弟子のせいよ! 野良犬と一緒のケージに入れたせいで、妊娠なんかしてしまったんだわ!」
「いや、ケージに入っていた子犬たちはどう見たって、まだ生殖機能も発達していないでしょう。不運な事故だと思って、病院に連れていってみては?」
「そして野良犬の赤ん坊を産ませろって言うの!? そんなことになったら、ご近所の笑われ者じゃない!」
「大切なご家族の問題です。まずは連れ帰って、ご自宅でゆっくりと考えてみるとよいでしょう」
「ぐぅ……! ぐぐぐぅ……!」
ひとしきり群青寺先生にがなり終えると、六条さんは突然ハッと何かに気付いた様子で、口角をつり上げた。
「……あら? よく見たらその子は、ウチのオーちゃんじゃないわね。まったくの別人だわ」
「はい? つい先ほど、あなた自身でオーちゃんだと言いましたよね?」
困惑した様子で歩み寄ろうとした群青寺先生の言葉を遮るように、六条さんが真っ赤な顔で吠える。
「本物のオーちゃんだったら、ママである私に吠えたりしないし、野犬と子どもを作ったりしない! するはずがないの! そんな駄犬、もう見たくもないわ!」
「えーと、なら報酬は?」
「払わうワケないでしょ!」
それだけ言うと六条さんは足早に帰っていった。
恐ろしいほどの掌返しに、僕はもう、唖然とする他ない。
六条さんが事務所から出ていくと同時に、オーちゃんは吠えるのをやめて、子犬たちの身体をペロペロと舐め始める。
先ほどまでの荒ぶり具合がウソのようだった。
「……す、すみません、群青寺先生。僕が余計な提案をしてしまったから、依頼がこじれてしまって」
「気にするなよ。最初に言ったろう? 責任は俺がとるってな」
大金を得る機会を失ったというのに、群青寺先生は何故か嬉しそうな顔で答えた。
「和都、よーく覚えとけ。誰かに指示を出したなら、その指示した相手の行動の責任は、自分が負う覚悟でいないとダメだ。信じるっていうのは、その結果起こること全てを背負うってことなんだよ」
「ありがとうございます……でも、せっかくの報酬がゼロに……」
「この商売をしていたら、あの手のセレブに当たる時はままある。セレブってのは、庶民よりもよっぽど守銭奴が多いからなぁ……」
群青寺先生は何ら気にしていない様子で背中を掻きながら、先ほどまで六条さんが座っていた来客用のソファへと座る。
それから、ソファに鼻を寄せてニオイを嗅ぎ、顔を歪めた。
「チッ、あのオバサンの香水の香り、バッチリ移ってやがる。おい、和都。シュッシュってする消臭剤を持ってこい」
「酒のニオイは気にならないのに、香水は気にするんですね」
「ニオイには好みってもんがあるんだよー。オーちゃん氏が、飼い主の香水のニオイを嫌ってキレ散らかしていたみたいにな」
「え……?」
オーちゃんが六条さんに吠え立てていた様子が頭をよぎる。
そう言えば、六条さんが事務所を去ったと同時に、鳴き止んだ。
先ほどは妊娠が原因だと語っていたけど、ウソだったのだろうか。
「一週間やそこらで妊娠して、気性が変わるほどの影響が出るかよ。犬にとって嗅覚は生命線。香水みたいな人工的な香りは嗅覚が狂うから、ヒドく嫌うんだ」
「そう言えば、六条さんは前回も今日も、香水のニオイがキツかったですね……」
「ああ。恐らく六条さんから逃げた理由のひとつも、この香水だろうな。本当の犬好きなら、香水を使うにしてもオーガニック由来のものを選ぶはず……こういった部分から、本質ってのは見えてくる」
言いながら笑う群青寺先生。
まさか、香水のニオイだけでそこまで気付けるなんて。
改めて、本物の探偵と自分との差を実感し、感心する他ない。
「そもそもあのオバサン、風呂嫌いの犬を三日に一度風呂に入れたり、塩分も脂質も過剰なベーコンを与えたり、小柄なポメラニアンをバカデカイ公園に連れていったり、飼育が雑なんだよ。六条グループと言えば、今は優秀な息子が実権を握ってるって話だが、さもありなんだな」
よほど溜まっていたのか一呼吸で言い終えると、群青寺先生は疲れたように溜め息を吐いた。
勘が鈍い僕は、そこでようやく、群青寺先生の真意に気付く。
「先生は、子犬を見捨てたくない僕の気持ちを汲んで……六条さんが愛犬を見捨てるよう誘導してくれたんですね」
「俺はよくカギを開けっ放しで眠るから、ちょうど番犬が欲しかったってだけだ。見ず知らずの子犬のために身体を張るような義理堅い奴で、しかも血統書付きだぞ? 目先の報酬よりずっと価値がある」
いつもの適当な調子で語る群青寺先生だけど、僕の気持ちを汲んで手助けしてくれたことは明らかだ。
初めて出会った時も、冤罪をかけられていた僕のクラスメイトの無実を、僕に代わって証明してくれた。
『堕落探偵』なんて不名誉な称号で呼ばれてはいても、彼の元で学べば僕の目指す理想の探偵に近づけると、信じている。
「おい、和都。いつまでボーッとしてるんだよ。新しい住人たちのための首輪やらドッグフードやら、ホームセンターへ買いに行くぞー」
「あ、はーい。でも、お金あるんですか?」
「ウヒャヒャ、実を言うとな、六条さんから前金で5万円もらってたんだよ! 今回経費はほとんどかかってないし、丸儲けだ!」
「ええっ!? なら、たまにはお給料くださいよ!」
「バカ野郎。この俺の元で学べる以上の報酬があるだろうか? いやない。よって給料など必要ない。帰りにラーメンを奢ってやるから、それで納得しろ」
新たな事務所の仲間たちをケージに入れて、群青寺先生と共に事務所の外へと向かう。
こんな穏やかながら、楽しくて、実りのある日々がいつまでも続いて欲しい――と。
僕は願わずにいられなかった。
――END
堕落探偵と僕物語 日本一ソフトウェア @nippon1
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