私が「小説」を書き始めた頃。

飯田太朗

明後日もこうして

「おはようございます」

 特に意識もせずに、反射的に出る。

 自分のデスク。多少散らかってはいる。

 会社の端末を起動させる。ログインまでざっくり二十秒。ちょっと遅い。経費削減の波を受けて最新型の端末ではないからだ。

 タイムカード。もっとも、画面上のボタンに触れるだけの操作で大した手間ではない。この瞬間から私のお仕事は開始。深呼吸。


 クライアントへの説明用資料を二件、処理。今週のミーティングは私が司会者なので簡単な台本を作成。

 そんなことをしている内にお昼になる。

 何人かの男性が連れ立って外食へ。女子社員数名は休憩スペースでお弁当。私は……何となく、あの輪には入りたくなかった。口を開けば悪口ばかり。それも楽しいと言えば楽しいのだけれど、たまに心がすり減る。悪口を言って楽しんでいる自分を責める心の声に耐えきれなくなるのだ。

 鞄を開ける。ぽっかりと口を開けたそれをほんの数秒、見つめる。小さなお弁当箱を取り出して席を立った。背後でキャスター付きの椅子が小さく鳴る。


 向かったのは屋上。屋上と言っても、ビル街によくある空調設備や貯水タンクがむき出しで置かれているような、無機質な感じの屋上ではない。緑化計画で小さな木や植え込みがあるちょっとした憩いの場になっている屋上だ。

 木陰に置かれている小さなベンチに腰掛ける。弁当箱を開ける。

 六月。梅雨だけど今年は比較的雨が少ない。空を見上げる。鉛色の空。水を吸った綿のよう。弁当箱からほんのりと、菌の臭い。「菌の臭い」としか言いようのないそれ。梅干を入れているから、多分衛生的には問題ないだろうが、そろそろ弁当箱用の除菌シートを入れなければならない。そんなことを思いながら卵焼きを食べた。


 多分明日も、こうやって過ごす。

 一人で昼休みを過ごしていると先のことにばかり意識が向かう。

 来週の今頃、どうしているだろう。どんな気持ちだろう。

 再来週の今頃、どうしているだろう。どんな気持ちだろう。

 今日は? 水曜日か。後二日で休みだ。土日は何をしよう。

 多分私は、明後日もこうして。

 時間を過ごしていくのだろう。何も考えず、何にも惹かれず、特に大きなイベントもなく、時間を消費して、意味もなく、ただ……。


 ため息をついたことに気が付いたのは、鼓膜が震えたから。

 耳に飛び込んできた。心のガス抜き。

 お弁当は半分。まだ半分? もう半分? そう言えば新人の頃の研修でやったな。半分のコップを見てまだ半分あると思うか、もう半分も減ってしまったと思うか、なんてこと。

 あれから時間は……と考えてやめた。意味がない。価値がない。過去を振り返っても。未来を見据えても。今に生きるしかない。分かってる。分かってはいるけれど、多分、明後日もこうして。未来を憂いて、過去を悔いて、現実に打ちひしがれて、生きていく。

 弁当を食べ終わってから、頭上の木を見つめた。君は何を考えて生きている? 君は何を思って揺れている? 問いかけても、返ってこない。



 家は散らかっていた。

 多分、このところ疲れているからだろう。洗濯物はとりこんだまま。タオルやら下着やら靴下やらが散乱している。ソファなんてほとんど洗濯物置き場だ。座卓の上には……空き缶がいくつか。それが何日前のビールだったかはもう忘れた。洗い場には皿、丼、茶碗、何本もの箸。たまに思い出したように、スプーンとフォーク。


 片付けねば。

 その日は比較的元気があった。自分が司会のミーティングが上手くいったから、というのもあるだろう。帰りの電車で座れたから、というのもおそらく関係している。何にせよ家事に向き合う余力があった。頭の中のエンジンがかかっている内に、手を洗い、スーツを脱ぎ、仕事にかかる。


 洗濯ものを畳む。無心で。次にソファの上にコロコロをかける。引くほど自分の髪の毛が取れた。座卓の上の缶を片付けるといくつか残っているものがあって少し顔をしかめた。何日前かの私。飲むならきちんと飲め。蝿が湧くぞ。缶の中身を流しに捨て、その勢いで洗い物。洗剤とスポンジでシンクの奥底に潜む魔物たちを退治していく。

 一通り、家事をやっつけて。

 本でも読もうと思った。積んである本がいくつかある。週末の楽しみに、と買ったものだ。本棚に向かう。どれだったけ。どこに置いたっけ。隅から隅まで見渡す。それが目に留まったのは、もしかしたらほぼ運命的なものだったかもしれない。


 一冊のノート。古い。擦り切れたノート。

 胸の奥で何かが破裂する。中学時代のノートだ。交換日記……ではなかったはず。勉強に使っていたノートなんてとっくの昔に捨てている。落書き帳……その可能性はある。絵は今でもたまに描く。でも記憶が確かなら、少ないお小遣いを叩いてスケッチブックを買っていたはずだ。だからノートなんかでは……そんなことを思いながらそれを手に取る。

 そこに記されていたのは。


 小説だった。読んでいく内に思い出す。そうだ。国語の授業で扱った物語の主人公の気持ちになると、どうにもいたたまれなくなって、彼が幸せになるにはどうしたらいいか、と考えた末、彼が幸せになる結末の小説を書けばいいんだ、と思い立って書いたのだ。

 そんなノートを大事にとっていたとは。実家を離れ町の中で一人暮らしをしている今、引っ越しの最中に何かの弾みで紛れ込んだとしか思えないそれと、私は久方ぶりに再会した。ページをめくった。思わず笑った。


 ふと、思い立つ。

 私には趣味らしい趣味がない。学生時代は絵を描いたり、友達と色々な趣味に首を突っ込んだり、ということをしていたけれど、本格的にのめり込んだ趣味はなかった。唯一趣味だと言えるのは絵くらいのものなんじゃないだろうか。その絵も、最近は……この五年くらいは……描いていない。

 小説。これを趣味にしてみたらどうだろう。


 思い立つと私は早かった。妙なところでの行動力の早さはあるのだ。

 中学時代のノートに続きを書くのは何となく気が乗らなかったので、適当な紙を十枚くらい、かき集めて机に向かった。ペンを持つ。手で字を書くなんて何年ぶりだろう、と思った。とりあえず物語を綴ろう。そう思って、悩んだ。

 誰の、どんな、何をする物語だろう。

 振り返る。本棚。漫画本がいくつか。

 そうだ。この漫画の登場人物を動かしてみよう。

 私の小説の始祖はそこなのだ。ある作品の登場人物が可哀想で、その子に幸せを与えたかった。だから、そう。

 ペンの先が紙の上を引っかいた。そうだ。あの子の話を書こう。私が好きなある漫画の主人公。私の好きな男の子。その子の話を書こう。

 アイディアがとめどなく溢れた。あの子ならきっとこうする。あの子ならきっとこう言う。そんなことを書きまくっている内に時間は過ぎた。気づけば私はお風呂に入ることも、食事をとることも忘れて書きまくっていた。ちょっと疲れた頃、時計を見て驚く。

 こんな時間。早く寝なきゃ。


 ペンを置く。慌ててお風呂に入って、雑に化粧を落として雑に肌の手入れをして、髪の毛に適当にドライヤーを当てて歯を磨きベッドに入った。目覚まし時計をセットする時、思い出す。

 時計の音が、心地よい気がした。


 翌朝。

 何もかも忘れたように会社に行き、仕事をこなす。この日は調子が良くて淡々と業務をこなせた。昼休みも、話しかけてきた他の女子社員と雑談しながら過ごすことができた。残業もなし。定時きっかりに帰り、家に着くと、机の上を見る。

 昨日書きかけた小説。

 手を洗う。いつもより水流が強い気がした。タオルを揉みこむようにして手を拭く。真っ直ぐ、机に向かう。

 それからはあまり覚えていない。

 夢中で書いた。夢中で頭の中であの子を動かし、夢中でその一挙手一投足を綴り、そしてついに、完成した。私の私による私のための物語は、ついに完結の時を迎えた。


 書き終わって、思う。

 どうせ誰も、見やしないし。

 しかし見やしない、ということは。

 好きに書いていい。好きなことを綴っていい。私の好きな子、いわゆる推しを好きに動かしていいし、何なら、私自身が、推しを作ることだって……。


 ……推しを作ることだって? 


 それは悪魔的発想だった。私が、私のための推しを作る。私が一から、その子のDNAから作ることができる。それはすごい発想だった。そうか。私が「私が最高に好きになれる存在」を作ってしまえばいいのか。

 半ば小躍りしながら紙の束に向き合った。そうだ。もっとちゃんとしたものがいる。もっと書きやすくて、もっと思ったことをそのまま形にできて、もっと自由に綴れて、もっと自由に、もっと自在に……。


 私の部屋は狭い。一人暮らしには十分だけど、都会の部屋は総じて狭い。でも私は自由だった。狭さなんて気にならない。私は想像の翼でどこまでも飛べる。月までも、太陽までも、宇宙の彼方、大海原の向こう、地球の裏側にだって……。そう思うと興奮が止まらなかった。



 特に趣味らしい趣味もないまま何年も働いていたので、お金はあった。そして、昨今の社会でバーチャル・リアリティが大きなウェイトを占めるようになってきたことも知ってはいた。

 電子空間上に自分の分身を作り、その分身が買い物をしたり、趣味を楽しんだり、仕事をしたりする。

 私の会社は時流に乗り遅れている。旧世代の端末を使って仕事をやらせているような会社だ。でも大手企業なんかは既にこのバーチャル・リアリティを利用して在宅ワークを実践しているところもあるらしい。それまでは特別な施設が必要だったVR装置も、今や一家に一台置けるくらいコンパクトかつ高性能になっているようだ。


 二週間ほど悩んだ。右から左に出る金額じゃない。しかし、ボーナスが近かった。多少無理しても、すぐにお金は補填される。それに、私には新たな趣味があった。小説の執筆も、バーチャル・リアリティの世界で行えることのひとつだった。何でも自分が描写したものがそのまま現実にあるかのように表現されるらしい。すごく魅力的な話だった。


 家庭用VR装置の購入を決意したのはある日曜日の夕方のことだった。口の上手い店員さんに勧められて、最新型からはひと世代前の、型落ちの小型のやつを買った。安い買い物ではなかったけど、想定の金額よりは安く買うことができた。配送まで一週間。私はそわそわしながら一週間を過ごした。

 次の日曜日。装置が届いた。初期設定に苦労するか、と思っていたが、どうやら配達員のお兄さんが接続までやってくれる契約になっていたようで、意外に楽に装置の使用環境が整った。私は装置の中に入る。緊張した。繭型の、美しい流線型のマシンの蓋が開く。中にある椅子はふかふかだった。内側のボタンを操作して、繭を閉じる。チュートリアルに従って操作をする。途端に視界が、白く染まった。



「よう」

 仕事終わり。会社の入り口で同期の男性社員に声をかけられたのは、私がVR装置を買ってから、約ひと月が経った頃だった。

「今夜暇か?」

「うーん」

 暇ではない。電子空間で小説を書きたい。私はあの魅力にすっかり囚われていた。

 書いたものがすぐに現実になる。描いたものが形になる。その喜び。その興奮。何物にも代えがたかった。そんな趣味が家に帰れば待っていてくれるのだが、その日、同期の男性はどうにも様子がおかしかった。

「何かあった?」

 私の方から訊く。男性は少し、自分の足先を見る。


「ハッキリ、言うか」

 彼がそうつぶやいたのが聞こえたのと同じタイミングで、彼は私の目を真っ直ぐに見据えた。

「デートして欲しい」

「えっ」

「デートだ。して欲しい」

 ここは会社の入り口。人通りも多い。何なら私のデスクの傍に座っているおじさんだって今そこを通った。そんな状況下で、告白。私に、デートして欲しい……? 

 情報を整理する間も与えずに彼は続けた。

「君と過ごしたい。一秒でもいい。突然こんなことを言われても迷惑だとは思う」

 彼が一歩寄ってくる。私は一歩下がる。

「このところ、生き生きしている君を見て思ったんだ。君はこんなに魅力的だったんだ、って。君は最近よく笑う。君は最近よく話す。以前は、何だか長いこと水を与えられていない観葉植物みたいだった……怒るなよ? 今が魅力的だ、って話をしているんだから」

「ちょ、何でそんな、急に……」

 言葉に困る私に彼は続ける。

「実は前から気になっていたんだ。君をどうしたら笑顔に出来るだろう、って」

 彼は同期の中でもリーダー格だった。いつも同期のみんなを気にして、誰かが落ち込めば励ましの言葉をかけに行き、誰かが仕事で上手くいけば宴会を企画し、常に同期の中心にいて、常に誰かを助けて生きてきた。そんな彼が、私を気にしていた……私を笑顔にしたい、と思っていた。


「君は変わった。それもポジティブな変化だ。嬉しかった。君が生き生きと過ごしてくれていること、君が前向きに生きてくれていること、それが僕には嬉しかった。気づいたら、恋していた。いきなりこんなこと言ったら、引かれるかなぁ?」

「えっ、いえっ、そのっ、全然……」

 一応、小説を書いている身だから、分かる。

 全然、の後に続くのは「ない」だ。カジュアルな言い方だと全然、の後に肯定的な文章を入れてもいいが、ビジネスシーンや、言葉の使い方に慎重になる文芸の場面では全然の後には否定文を入れた方がいい。そしてそんな、小説を書いている私が使った「全然」の後に続く言葉は……。


 私の目の前で、彼はにっこり笑う。

「引かれないなら、よかった」

 彼はポケットに手を突っ込んだ。何だかその男らしい恰好に一瞬、ときめく。追い打ちをかけるように彼は続けた。

「今夜が無理なら明日でもいい。飲みに行かないか。いいバーを知ってる」

「ば、ばー?」

 人生で一度も行ったことがない。素敵なバーテンがシェイカーを振るって、お洒落な酒を飲む空間。そんな場所、私には……。

 と思って、考え直す。

 小説のネタにできる……? ダンディな人物や、ハードボイルドな作品を書く時の参考になるかも……。それに経験を増やしておけばいつか何かに使えるかもしれないし……。なんてことを考えた時には、口が動いていた。

「行く」

 彼がまた、にっこり笑う。

「今から行くか?」

 私は頷く。

「じゃ、行こう」

 彼が私の背中に手を添える。他の人にそれをされたら、心底不快というか、げんなりしていたことだろう。でも彼の優しい手は何だか嬉しかった。ビルのドアが開いて入ってくる、夏特有の湿気の多い風さえ心地よく感じられた。私たちは連れ立って会社を後にした。夜の街灯が私たちを歓迎した。



 そんな彼と結婚して、もう十年くらい。

 子供が二人。仕事は辞めなかった。仕事に育児に家事に、とにかく忙しい日々だった。子供はしょっちゅう宿題と連絡帳を忘れてくるし、夫は夫で大きな赤ちゃんみたいで手がかかる。自分の時間なんてほとんどとれない。毎日生きていくのがやっとだ。でも続けていることがあった。

 VR装置に入る。既に三台くらい買い替えている。でもやっぱり型落ちの、市場で出回っているものの中では一番安いやつを使っている。

 子供はもう寝ている。夫はリビングで酒を飲んでいる。お互い一人の時間。私は今から約一時間くらい、あそこで過ごす。


 創作電子空間「カクヨム」。

 小説を書きたい人が集まって、無料で作品を書いたり、読んだり、交流したりすることができる場所。自分で書いたものが形になったり、自分の作品の登場人物の能力を使って生活ができるこの空間で、私は自分の時間を楽しむ。

 指を鳴らす。変身だ。

 リアルの私は背が低い。スタイルも決して良くない。でも、VRの世界ではどんな姿をしてもいい。「カクヨム」内での私はすらっとした女性だ。ライダースーツが似合うような。リアルではバイクなんて乗ったこともないのに、「カクヨム」ではバイクに乗っている。自分が描写したバイク。機械系の描写は苦手で、多分バイクマニアが見ればそこかしこがおかしいであろうが、私にとっては理想の具現化であるバイクに跨って、「カクヨム」内を駆け抜けている。


「おうい!」

 カフェゾーン。「カクヨム」ユーザー憩いの場だ。

 少し離れた場所からジャケット姿の知り合いが声をかけてくれる。彼は私の作品のファンで、いつも私と私の作品を褒めてくれる。

「あら」

 メットを外し、彼に笑顔を向ける。彼も嬉しそうにこっちに近づいてきてくれる。その姿は何だか子犬というか、子猫というか。まぁ、とにかく、私にとってはかわいい弟分のようなものだ。

「ファンを自称しているからさ。昔の作品を読んでみたんだ」

 彼は嬉しそうに語る。

「『呼吸している』。あれすごくよかった。『スポンジとスポンジの間に挟まれたイチゴが、苦しそうに潰れている』なんて表現、何食べたら出来るようになるんだ? イチゴか? ケーキか? チーズケーキが好きなんだがそれでも問題ないか?」

 私はくすくす笑う。

「私の書き癖かも。心境を直接言わないの」

 彼は「参ったね」と額に手を当てる。

「いっぱい勉強させてもらうよ」

「褒めてくれるのは嬉しいけど……」

「褒める以外にどうこの気持ちを表現すればいい?」

 外国人みたいに両手を広げる彼に、私は笑う。


 私はここで、フルパワーで道楽をしている。

 私の居場所はここ。もちろん、家庭や仕事場も居場所のひとつかもしれないけど、やっぱり私が私らしくいられる場所は、ここ。


 私が「小説」を書き始めた頃。私はこうなることを想像すらしていなかった。

 私が「小説」を書き始めた頃。今思えば、あの時から、運命は動いていたのかも、しれない。

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私が「小説」を書き始めた頃。 飯田太朗 @taroIda

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