後編

 それは寝耳に水のニュースだった。でも実は、一年少し前にさーや姉ちゃんからおめでたの報告があったものの、直後にそれが駄目になるという悲しい出来事があった。繊細な事であり、当時は私のお母さんだけが、入院した病院に駆けつけ、身の回りの事等手伝った。雅也さんは、さーや姉ちゃんが病院に運ばれた時、遠くにいて連絡がつかず、両親の会話の端々でかなり非難されていた。もしかしたら、それが関係あるのかなと私は朧気おぼろげながら考えていた。


「内緒にしてて悪かったけど、もう分かる事だし、由香ももう子どもじゃないから話すけど」という前置きで、お母さんは話し始めた。

「沙也加とこ夫婦は、もう上手くいってないのよ。それで離婚する事になったの」


「生まれなかった赤ちゃんの事が原因なの?」と私がくと、それは否定された。


「ううん。それだけじゃないと思う。それも関係あるかもしれないけど。元々、妹は蝶よ花よと育てられたの。ちょうど我が家の事業が上手く波に乗った頃、生まれてるものね。それなのにあの若さで結婚して、色々我慢していたのよ」


 私は子どもの頃、あの家で、年に数日しか過ごさなかったけど、子どもの眼には、二人は幸せそうにしか見えなかった。だからにわかには信じられなかったし、事実と分かってからは、両親の思っている以上にショックが大きかった。


 お父さんの話でこんな新たな情報が追加された。さーや姉ちゃんは短大を卒業した後、ピアノ留学を目指して、飲食店で弾き語りのバイトをしていたらしい。その頃、演奏を聞いてファンになったのが雅也さんで、二人は主にさーや姉ちゃん側、つまりうちの母方の家族の反対に会い、もう少しで駆け落ちという所までいったのだそうだ。


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「うちのオカンは、由香にまた会うの、楽しみにしててさ。昨日ホームセンターで新しいカーテン買っとった。模様替えするのかと思っとったら、家のゴチャゴチャしたとこを隠すためだってさ。このサンド美味いよな」

 とカレシ。私達の仲は両親公認だった。ただ自分の中では大学を卒業して間もないし、将来についてはまだ何も考えられず、未来の自分の姿も見えてなかった。


「ふうん。気にしなくっていいのに」


「は? 何を?」


「ゴチャゴチャしてる所。私、たぶんそれ見てもがっかりしたりしないよ。でもホント、健太ってお母さん似だよね」


「そう? どこが?」


「えっと……明るくっていいなって」


「よく言われるな。明るさだけだ、オカンには。でもオトンにも似とるって言われるけどな」

 


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 高校生だった私は、そのショッキングなニュースを聞いた後、当の二人に確かめるすべもなく、時が流れた。さーや姉ちゃんに会う機会が久々に訪れたのは、私が大学に入った年の春だった。さーや姉ちゃんは昔のような清楚系ではなく、厚化粧で、デパートに入った時に外資系の化粧品売り場から漂うような甘い香りがした。昔のさーや姉ちゃんとはまるで別人だ。あえてそうしていたのかもしれない。

 そして私はその日、さーや姉ちゃんの言った一言をたぶん永久に忘れられないと思う。


「彼ってそう言えば元々、子どもが苦手だったのよ。今、思い出した。由香ちゃん、ウチで退屈だったんじゃない?」と。


 「いいや、退屈なんかしなかったよ」と私。

 心の中で「なんでそんな事言うの? 今さら」と疑問符が立った。何だか夏休みにあの新しい小さな家で過ごした日々まできずつけられた気がした。私が楽しそうだったかどうかも、もう憶えていないのだろうかと。


 私は、その後、一度だけ雅也さんに会った事がある。正確には偶然すれ違った。

 大学生の頃、就活の一環で、懐かしいあの海辺の町を訪れた時の事だった。季節は春で、心地よい風に吹かれ、盛りを過ぎた桜並木からは花びらがはらりはらりと舞い降りていた。

 私はその日、懐かしさで半日、独りで色々な場所を散策していた。昼下がり、そろそろ駅に戻ろうとした時、街なかで向こうから来る雅也さんに気が付いたのだった。中年期に入り、以前より少し落ち着いた感じがわびしさを感じさせる程だった。

 向こうもはっとした表情でこちらを見た。私は軽く会釈をするかしないかの微妙な感じ。相手も会釈をしたかどうか分からなかった。でもはっきり認識したと感じた瞬間、その表情がこわばったのは確かだった。こわばったというより、辛そうな表情だった。赤い血が出るような切り傷でなく、透明な滲出液しんしゅつえきが出るような、うずく傷をした時の表情。

 後で、私は鏡を見て気が付いた。鏡の中の私は、もう昔の鼻がペチャンコで平面的な顔の作りの女の子とは違う。夢は叶い、少しはその年齢なりの美しさみたいなものを手に入れた。そしてもう一つ気が付いた事。それはその時の私がまさにさーや姉ちゃんが結婚した時と同じ年齢で、顔もあの頃のさーや姉ちゃんと瓜二つだという事実。

 それで何となく私を見た瞬間の雅也さんの悲しそうな表情の意味が分かった気がした。もしかしたら雅也さんの眼には、私でなく、さーや姉ちゃんの幻影と映ったのかもしれない。一度は心から愛し、そして離別した人の幻影と。


 私は、その後、さーや姉ちゃん、いや叔母に会いに行く機会を持たなかった。悲しみにうずく思いをしたのは、当人達だけじゃなかった。でも自分なりに冷静に昔を振り返ってみて、確かだと思える事がある。子どもの頃の雅也さんの自分への対応は、苦手な相手、嫌いな相手に対するものではなかった。いつも精一杯の誠意があった。子どもだってその位は分かる。思うに、彼は子どもが苦手なのではなくて、自分を理解しようとしない人間が苦手なだけなんだろう。


 昔、観覧車でした会話を思い出した。


「世界の中でも、みんながみんな仲良しになるわけじゃないからね。色々な国に見た事もない動物だっているけど、たいていは会う事もなく暮らしているよ」だとか。


「宇宙人は僕達地球人の事を知ったら、関わりたいと思うかな? 関係を持ちたくないって思うんじゃないかな。地球では争い事も色々起こっているしね」だとか。


 そして私は、一時期には大切な人達でもあっても、いつか無関係な人になって、宇宙に住むどこか遠い星の人みたいに二度と人生に関わらないって事もあるんだと学んだ。そしてたぶん私の気持ちは初恋だったんだろうなあと振り返り、思う。苦い終わり方ではあったけど。でも今では大切な思い出だ。


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 今、見上げる透明なゴンドラには、遠い日に星空を見つめた三人が乗っている気がした。


「乗りたいって思わん? 観覧車。あんまし乗り気やなさそうやけど。子どもの頃は好きやったんやろ?」


 私は健太の方に向き直り、言った。

「あのね、大人になると、高所恐怖症になるんだよ。高い所から落ちるとペシャンコになるって知ってるから。高い所、怖いと思わんの?」


 頭上で回るは観覧車。まるで一つだけ欠けたみたいな。誰かさんの心みたいな観覧車。でも健太は続けた。

「高い所、好きだけどな。ほら星も見えてきた。観覧車に乗ると、あの星にも近付くしさ!」


 私はため息をついた。「もう……。星がどれだけ遠くにあるか知ってる!?」


 観覧車のてっぺんに行ったからと言って、近付けるわけもない距離だと言おうとしてやめた。何だかんだ言って、その言葉は私の今の凹んだ心を救ってくれる。


 私は健太と腕を組み、観覧車に向かいながら言った。

「どうせ乗るんなら透明なゴンドラ、待とうよ。幸運が訪れるって言う……」


 観覧車に上るステップからは星空に負けない街の灯りも瞬き始めているのが見えた。





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頭上で回るは観覧車/距離感 秋色 @autumn-hue

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