頭上で回るは観覧車/距離感

秋色

前編

「乗りたいって思わん? 観覧車」

 ベンチで隣に座るカレシが言う。手にはイートインで買ったホットサンドの包み。


 ここは五月のショッピングモール。子どもの日フェアで、至る所に色とりどりの風船が揺れている。広い敷地内には、イベントの開催されるステージや観覧車もあり、時々歓声が風に乗って流れてきた。

 イートインなんだから、中のテーブルで食べればいいのに、カレシは「外の方が気分いいよな!」と植込みのピンクの躑躅ツツジの側の芝生にどっかと座った。いかにも虫の出てきそうな場所。


 カレシはそんなところは気にしない。だから私も諦め、芝生に座り、ホットミルクティーを一口飲む。


 頭上の観覧車には、透明なゴンドラが一つだけある。それに乗ると幸運が訪れるというジンクス付きのゴンドラだ。


「子どもの頃何度か乗ったっきりで、大人になって乗った事ないな、観覧車」と私。


「夕暮れ時になったら乗ろうや。てっぺんから見る夜景、キレイやろうな。ホント今日は晴れてるからなー。釣りに行きてー!」とカレシ。


「……って、こないだ、あんなに船酔いしたくせに……」


「楽しい事しか覚えとらん性格やもん」


「ふうん。そうよね。牡蠣かきの食中毒でイタい思いしても、毎年牡蠣小屋に行くもんね。何かさ、あの観覧車……」


「観覧車が何?」


「透明のゴンドラは、目を細めて見ると、背景の空に溶け込んでまるで無いみたいに見えるよ。一つだけ欠けてる観覧車みたいに」


 そう言いながら、私は目を細め、観覧車を見上げた。


「詩人やん。オレには普通に観覧車が一個だけ透明に見える。最後に乗ったのはいつやったん?」


「さあ、憶えてないな。でも最初に乗ったのは憶えてる。小学二年生の時だったよ。ここじゃないけどね」



 ****************************************************



 眼の前に積み木で作ったような何件もの家が見え、潮の香りを感じた気がした。あれは七才の時、初めて叔母さんの新しい家に遊びに行った夏の事だった。それは海辺の町。新しい家と言っても、その春、叔母さんが結婚したの相手と住み始めた社宅だ。同じような一戸建ての小さな家が連なっている社宅で、どの家も新しくピカピカで、新築の良い匂いがした。そこには叔母さんの大切にしていたピアノもあった。


 私の妹が耳鼻科にかかっていてアデノイドの手術が必要になり、一週間入院する間、私は叔母さんの家に預けられる事になったのだ。

 

 預けられた理由はそうであっても、妹は手術の事は別として元気そうだったし、海辺の町には夏の観光シーズンを迎え、賑わった雰囲気があって、私の心は浮き立っていた。

 

 叔母さんと言っても、母とは十才も離れていたので、まだ二十二才。お姉さんと言っていい年齢で、そしてきりりとした美人だった。その頃はさーや姉ちゃんと呼んでいた。


 私はお世辞にも美少女とは程遠い、鼻もペチャンコで全体的に平面的な顔の作りの女の子。だからいつかあんな輪郭の女の人になりたいなぁと鏡を見ては、夢のような未来に思いをはせていた。


「あ〜あ、由香もさーや姉ちゃんに似たら良かったなぁ。どう見てもお父さんに似てるんだもん」と私。


 さーや姉ちゃんの旦那さんは、いつもにっこり微笑んでいる優しいお兄さんといった感じの細身の青年。さーや姉ちゃんより三才年上で、雅也さんという名前だった。

「お父さんに似たらいけないの? 由香ちゃんのお父さん、優しくていい人なのに」と雅也さんは言った。


「お父さんは好きやけど、似てるのはあんまりね〜」と私。


 お父さんは長距離専門のバスの運転手で、泊まりの事もあるし、翌日に備え、早くから寝室で休む事も多かった。照れ屋で無骨なタイプで、子ども思いではあるけど、心ゆくまでおしゃべりしたという経験はその頃なかった。


 私はこの家では、よく雅也さんを質問攻めにしていた。それは日頃お父さんにも聞けず、お母さんからもウザがられるような質問の数々。雅也さんはよくいる大人達とは違って、子どもを相手にしても、声色を変えたりはせず、大人相手みたいに話す。子どもの頃の私には信用できる人と感じられた。

 質問は、「空は何で青いの?」とか、「海の水はなぜ塩辛いの?」とか、「なぜ血は赤い時と透明な時があるの? そして透明な血の方が後までずっと痛いの?」とか、そんな他愛ない、いかにも子どもが日常感じるギモンで、相手にする大人にとっては本当にウザかったと思う。


 そんな質問でも雅也さんは一つ一つきちんと丁寧に分かりやすい言葉で答えてくれた。天体観測が趣味で、子どもの頃から理科が大好きだったそうだ。さーや姉ちゃんは、雅也さんは自動車工場で働くには勿体ない人だよとよくこぼしていた。

 そんな風だから、私にとっては、二人の大人と過ごす日々は全く退屈なものではなかった。短大のピアノ学科を出たさーや姉ちゃんは、時々、私達の前でピアノを弾いた。そんな時私はピアノの側へ行き、ピアノの音色とともに弾むさーや姉ちゃんの指先を見るのが好きだった。雅也さんは眼を閉じ、真剣に聴いていて、時折、ピアノに併せてギターを演奏したりした。雅也さんがそうやって聴いている時、たまに眼にうっすらと涙を浮かべているのを見る事があった。私は大人が泣くのをあまり見た事がなかったので不思議で、見てはいけないものを見た気がした。その時弾いていたメロディーに何かあるのか、それともさーや姉ちゃんのピアノが素晴らしいせいなのか……あれこれ考えても結局、七才の女の子には答えは迷宮入りだった。

 


 私がそこを訪れて何日目かに、さーや姉ちゃんは言った。

「明日は天気がいいみたいだから、遊園地に行きましょう。とても大きな観覧車があるのよ」


 窓から市街地の方を見ると、目立つ赤い輪っかが遠くに見え、それが観覧車という物だと教えられた。


「わぁ、行こう!行こう!」と私は観覧車がどんな物なのかもイマイチ分かってないくせに、一人で興奮していた。



 翌日、遊園地で一通りの乗り物に乗り、冷たいレモネードを飲み、遊園地のレストランでパンケーキセットを食べ終えた私は、すっかり遊園地に魅了されていた。が、あと一つ観覧車がある。

 遊園地の敷地にひときわ高くそびえ立つ観覧車に私は圧倒された。順番待ちをしている間に辺りには淡い夕闇が迫り、空にはうっすらと白い月が見えた。それを見て私は普段から疑問に思っていて、でも口にすると誰もまともに答えてくれない質問を雅也さんに投げかけてみた。


 「ねえ、何で月はわたしが歩くとついてくるの? 家や木は追い越せるのに」


 雅也さんは順番待ちの椅子に座ったまま、近くの芝生に転がっていたプラスチックのボールを手に取った。それはどこかの子どもが忘れていった物。

「月は近く見えるけど、本当はとっても遠くにあるんだよ。例えばこのボールの上にありんこがいるとしよう。その蟻んこが1ミリ進んだって蟻んこから見えるあのてっぺんのゴンドラの大きさや位置は変わると思うかい?」


「思わない」

 そう答えながら私はきっと蟻んこには、あの観覧車のような物がある世界を想像も出来ないだろうと思っていた。


 やがて順番が来て、私達三人はゴンドラに乗った。ゴンドラの上昇とともにふわふわ舞い上がる私の心。怖いという感情はまるでなかった。徐々に視界に入る海や反対側の田園風景に魅せられた。

 夕暮れに近付いてはいたけど、まだまだ外は明るく、その中でうっすら見える月や星の存在が不思議でならなかった。そして普段から疑問に感じていた事をまたもや口にした。

「ねえ、他の星には宇宙人が住んでるの? そしていつか地球に来て人を襲ってさらっていったりする?」


 それはテレビの特番で見て以来、私がとても怖く感じていた事だった。さーや姉ちゃんは、「由香ちゃんはまたそんな変な心配して。テレビの見過ぎよ」とあきれ顔。でも雅也さんは答える前に、深く考えている様子だった。

「他の星にも生物はいるかもしれないね。でも地球に来るというのはどうだろう? 世界の中でも、みんながみんな仲良しになるわけじゃないからね。色々な国に見た事もない動物だっているけど、たいていは会う事もなく暮らしているよ」


 なぜか私は、いつかテレビで見た外国の牧草地に群れる羊たちを思い出していた。確かにあの羊たちに私は一度も会う事なく、大人になって年をとっていくのだろうとか。


「それに、宇宙人は僕達地球人の事を知ったら、関わりたいと思うかな? 関係を持ちたくないって思うんじゃないかな。地球では争い事も色々起こっているからね」


 今度はテレビで見た、戦争で荒れたどこか遠方の地の様子を思い出した。また、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんの話も。二人が子どもだった頃、日本も戦争をしていたと、辛い体験だったと話していた。

 そんな事を考えながら見る、夕暮れつつある風景は何だか子どもながらに、いつもより切なくはかなげに見えた。


「夕焼け、綺麗だな……」私が言うと、

「ああ、綺麗だね」と雅也さんも言い、さーや姉ちゃんも「綺麗ね」と、これには同意した。


 そんな会話もありつつ、同時に普通に遊園地にはしゃぐ歓声も乗せ、観覧車は静かに一周を周り終えた。


 そして遊園地で過ごす夏の一日は大満足のうちに終わった。

 翌年からも私はさーや姉ちゃんの家に夏休みの度行くようになり、それが楽しみで仕方なかった。

 ただ遊園地は次の年には、改装のためしばらく休園していたため、その年は近くの牧場に行った。次の年には町の反対側にある水族館へ。こんな風に、私の年齢とともに三人で訪れる場所は変わっていった。

 

 ところが、小学六年生の夏休みには、クラスメート達と遊ぶ約束が出来て、地元のクリームランドに行ったり、学校の課題で班で放送局見学に行ったりしたので、さーや姉ちゃんの家には行けなかった。

 さらに中学生になると、吹奏楽部に入った私には夏休みに親戚の家を訪れる余裕はなくなっていた。たまにアルバムに貼ってある何年か前の夏休みの写真を見ては、あの海辺の町の家や観覧車から見た風景やさーや姉ちゃんのピアノの事を懐かしく思い出すのだった。


 そして高校生になったある日、いつものように部活から帰って来た私に、居間にいる両親の会話が聞こえてきた。


「本当なのか? 沙也加さんはもうやり直す気はないのか?」


「ええ。あの子も大体、我儘わがままなのよね。それなのに周りの反対を押し切って若くで結婚するからこんな事になるのよ。駆け落ちしようとしてまで一緒になったのにもう離婚なんて……」


 私は思わず二人の会話をさえぎった。

「お父さん、お母さん、何の話してるの? さーや姉ちゃんが離婚するの?」



    

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