後編

 ハラダは路上でいちゃつくカロリーナとチャドを引きはがすと、一刻も早くカンナ礁へと案内するよう要求した。二人は特に気を悪くしたふうでもなく歩き出した。若いカップルはなんだかヘラヘラ笑っているが、こいつら頭は大丈夫なのか。ハラダは二人を不審に思い感じはじめていた。親切とかお人好しとかを超えた異様さがあった。


 ふわりと風が吹き、あたりの木々の梢を揺らした。

 オパールの道には小さな草が縁取るように茂り、あちこちに白い花をつけている。花が咲くということは、今は春なのだろうか。そもそも火星に季節はあるのか? だいたい今は昼なのか夜なのか。太陽がないのでハラダには判断がつかなかった。

 青空には雲が浮かび、風に乗ってゆったりと動いていた。黒い穴だけが動かない。この星はツボの中に入っていることになっているが、なぜ空や雲があるのか。ハラダはもともと火星に興味がなかったので、火星の環境についての知識がなかった。鳥や虫の声はまったく聞こえない。あたりは奇妙に静まりかえっている。この星には火星人と地球人しかいないのではないかと思われた。


 しばらくオパールの小道を歩いていくと、ビーチに出た。目の前に砂浜と遠浅の海が広がっている。しかし、オパールの道は途切れることなく海の上をずっと続いていた。海に浮かぶ緑の桟橋が淡く輝いている。

「この辺りはね、陸地より海のほうが多いくらいなんですよ」とチャドが解説し始めた。

「海ばっかりのところに、島のような陸地がぽつぽつと浮かんでいる感じよね」とカロリーナ。「火星人は、小島同士をオパールの道でつなげてるのよ。私たち地球人が歩いて行き来ができるように」

 火星に海があるとは聞いていたが、ここも思っていたより普通の、つまり地球みたいな海だった。水深は浅く、ゆったりとした波がある。海底には白い砂がレースのように広がり、海中では濃い緑色の海藻がゆらゆら揺れていた。特段おかしなところはない。普通の南国の海だった。ハワイとかグアム的なやつ。ただ、魚はいないし、潮の香りはせず、かすかにオレンジのような香りがしていて奇妙だった。悪い香りではないが、何だか落ち着かない。まるで海ではないみたいだ。

「この匂いは何だ?」

「これですよ」

 チャドは桟橋に膝をつき、海中に手を突っ込んで海藻を引っ張りだした。ワカメのように見える。

「甘夏ワカメっていうんですけどね、これがオレンジの香りを海に出しているんですよ。味は普通のワカメだそうです。僕は食べたことありませんが、確かヤマモトさんの家族はよく食べるとかで……」

「それで、カンナ礁は?」

 ワカメには興味はない。早くサファイアが見たい。

「すぐそこよ。ほら、あそこ」

 カロリーナの指さすほう、100メートルほど先にワカメのないエリアがあった。ハラダはオパールの橋から海に飛び降りると、海中を走り出した。はやる気持ちを抑えきれない。早く早く! といっても、海水が腿のあたりまであるし、ワカメも走るのには邪魔でなかなか思うように走れなかった。強く蹴り出すたびに、オレンジのさわやかな香りが辺りに広がった。

 明日はきっと筋肉痛になること請け合いだ。ハラダはそう思いながらも笑っていた。すぐ目の前でサファイアが輝いているのだ。地球で売り飛ばされるのを今か今かと待っているのだ。

 だんだん近づいていく。鮮やかな色彩が波の間を揺れているのが見える。

 たどり着いたそこは――カンナ礁はサファイアの泉だった。イエローだけでなく色とりどりの星型サファイアが海底に転がっていた。ハラダは興奮してサファイアをすくい上げた。青、ピンク、黄色、オレンジ、紫……色のない透明なのもある。どれも澄んだ輝きを放っている。

「ははは、なんて美しいんだ」

 だが、ふと疑問が胸に沸き起こった。ここのサファイアはどういうわけかどれも星型をしており、まるで研磨されたかのように表面はなめらかなのだ。

「これは本当に天然か? こういうものは人工だとしか……」

 そのとき、水面が盛り上がった。次の瞬間にはハラダは海中に引きずり込まれていた。わけもわからずもがく。めちゃくちゃに動かした両腕から生まれた泡の中に、一瞬、何か動くものが見えた気がした。

 水中で頭をめぐらすと、目の前にふわりとオレンジ色の星が誕生した。とっさに手を伸ばして掴んだ。無意識の行動だった。星のとんがりが手のひらに食い込んむが痛くはない。その直後、腹から背中に向けて何かが貫いたような強い衝撃を受けた。背骨がしびれるような鈍痛に思わずうめく。しかし、声にはならず、口から空気が泡となって抜けていく。体に力が入らない。何だこれは、何が起きている?

 ――もしかして、これは、死ぬのかもしれない。

 そう思ったとき、誰かに腕を掴まれた。星を握っているほうの手だ。力強くしっかりとしたその手は、あっという間にハラダを海面まで引き上げた。

 海面に顔を出して、荒い呼吸をする。とても苦しかった。空気を吸っても吸ってもまだ足りない。

「大丈夫ですか?」

 ハラダを引き上げた手の主はチャドだった。

「落ち着いて、もう大丈夫ですよ」

 チャドはハラダを立たせると、背中をさすってやった。ハラダは自分に暗示をかける。大丈夫だ、助かったんだ。心を落ち着かせて、通常の呼吸を取り戻せとおのれに命じた。

「手間かけさせて悪かったな。もう大丈夫みたいだ」

 ふらつくハラダがむせながら強がりを言うと、チャドは安心したように笑みを浮かべた。

「良かった……。おや。それは?」

 チャドに言われて、握りしめていた手を開く。掴んでいたのはオレンジ色した星型のサファイアだった。

「ああ、妊娠したんですね。おめでとう、ハラダさん」

 チャドが突然とんでもないことを言った。

「なに、妊娠? 誰がそんな、いや、まさか、まさか……。言うな、頼むからもう何も言わないでくれ」

「まあ、ここではなんですから、一旦橋の上に戻ってから話しましょう」

 そう促されて、カロリーナの待つ橋まで歩き出した。なんとなく下腹部に手を当ててみた。妊娠? 妊娠って言ったよな? いや、地球とは違う意味の言葉なのかもしれない。きっとそうだ。



「ハラダさん、妊娠したんでしょ。橋の上からも見えてたわ」と橋に上がるなりカロリーナが声をかけてきた。

「実は私も昔ここで妊娠したのよ。チャドには出産のときに手伝ってもらったわね」

「ええ。懐かしいですね」

 出産という新たなキーワードに、嫌な予感がますます募る。ここは火星だ、地球とは違う。

「ちょっといいか。妊娠てのは、つまり、子供を身ごもる、あの妊娠なのか」

「そうよ」

「俺は男なんだが」

「ああ、それで驚いていらっしゃったんですね。いや、火星暮らしが長いといけないな。つい地球の常識を忘れてしまいます」

「ここにはそういう力が働いているって言うわよね。細かいことを気にしなくなる何らかのパワーが火星には発生しているとかいう……」

「地球人は性格が変わってしまうだなんて火星って不思議なところですねえ」

 話が脱線しつつある。ハラダは強引に話に割り込んだ。

「まじめに答えてほしい。俺は妊娠したのか?」

 二人は頷いた。

「誰の子だ」

 これはかなり重要な問題だ。相手の素性は何が何でも知っておきたい。なぜかそう思った。

「カンナさんよ。礁の主のカンナさんの子をあなたは身ごもったの。海中で卵を産み付けられたのよ」

 海に引きずりこまれたとき、ちらりと動くものが見えた気がしたが、あれがカンナだろうか。

「カンナってのは何だ、火星人か」

「違うわ。火星人ではなくて、火星生物ってところかな?」

「生物の卵って……。俺の体には得体のしれない生物の卵が産みつけられたのか」

 嫌悪感と恐怖で吐き気がする。

「まあ、失礼ね。カンナさんはちょっとシャイなだけで、人前には姿を見せないけれど、ちゃんとした生物よ。私だってカンナさんの子を産んだんだから。あまりおかしなこと言わないでくれる?」

 カロリーナはむっとした表情だ。

「こっちの意思も確認しないで、人の体に勝手に卵を産み付けるなんて、ちっともシャイじゃねえよ!」

「でも、あなた、星を受け取ってるじゃないの」

 カロリーナは俺が握りしめているサファイアを指さした。

「それって妊娠に同意しますってことよ。妊娠したくないなら星を掴まなければよかったのよ。自分で受精を望んでおいて勝手だわ」

「これが妊娠への同意だと?」

 ハラダは反射的にサファイアを海に投げ捨てようとした。しかし、チャドに阻まれた。

「いけませんよ。それはカンナさんからあなたへの愛情が自然と結晶化したもの、あなたへの愛そのものなんですから。捨てたらカンナさんが悲しみます。きっとあなたの子もね。実はハラダさんをここにお連れしたのは、妊娠の同意が得られず捨てられてしまった愛の結晶を分けてもらえばいいと思ったからなんですが、ハラダさん、いきなり走り出すものだから……。カンナさんも求愛だと勘違いしたのでしょう。あんなにも情熱的に走っていくんですからね」

 もう訳がわからない。何なんだ、ここは。俺は謎の生物の子を妊娠したのか。俺に産婦人科にでも通えってのか。そこで、はっとした。

「そうだ、病院だ! 病院に行って卵を摘出すればいい」

 俺は希望を口にしたが、二人は首を振った。

「礁の子の中絶手術をしてくれる医者なんて火星にはいませんよ。医者はいますが、何せ火星人の医者ですからね。人間と火星生物だったら、火星生物の味方をするでしょう」

「なら、地球へ戻る。それなら……」

「うーん」

 チャドは首をひねった。

「火星の生物が地球に行ったら、どうなるんでしょうね。卵が体内で破裂したりして……」

「体内でふ化して、体を乗っ取られちゃうかも」

ハラダは怒りに震えた。

「嘘だろう。おまえらは俺に出産させるために嘘をついているに決まっている。すっかり火星に染まって、頭がいかれているんだ」

 ハラダは二人を口汚く罵った。せきをきったように悪態をつきまくった。二人は何も言い返さずじっとハラダを見ていた。悪態はだんだん涙声になっていった。

「ハラダさん、妊娠したばかりでナーバスになっているんですね。でも大丈夫ですよ。初産というのは誰でも怖いものです。でも、礁の子は安産だと決まっています。何も心配せず、元気な赤ちゃんを産むことだけ考えればいいんですよ」

 チャドの優しく諭すような言葉に、ハラダは泣き崩れた。恥も外聞もなく声を上げて泣いた。妊娠も出産も怖かったのだ、とても。俺はちゃんと出産できるのだろうか。いや、なんで出産する前提で考えているんだ。自分まで頭がおかしくなってきたのか。訳がわからなくて、ハラダはさらに泣いた。こんな風に泣くなんて子どものとき以来に違いない。



 ――それからは、もう、夢の中にいるような日々だった。


 カロリーナとチャドの住んでいるアパートの1階の部屋で暮らし始めた俺は、出産に備えた。もうこうなったら産むしかないと覚悟を決めた。俺は男だ、度胸はあるんだ。

 時折不安におそわれると、カロリーナとチャドに助けてもらった。地球にいたときの俺なら考えられないが、今では人に泣きつくことを恥ずかしいとは思わなくなってきていた。俺も火星の影響を受け始めているのだろう。もっともカロリーナに抱きしめられそうになったときは、さすがに拒否したが。なんだか浮気しているような気がしたのだ。俺には妻が、いや、生物が、カンナというものがいるのだ、どんな姿かも知らないが。

 俺はカロリーナを見習って、星型のサファイアを身につけることにした。どういうわけか鎖を通すためのバチカンがいつの間にか星に付けられていた。知らぬ間にカンナがやってきて、星を持ち歩きやすいように加工を施して帰っていったに違いない。カンナは手先が器用で気が利くタイプなのだろう。俺はオレンジの星に金の鎖をつけ、ベルトに通して腰から下げている。愛のかたまり。つくりものではない、自然に生まれた心の結晶だ。

 火星では母子手帳がもらえないらしいので、かわりに日記をつけた。少しずつ下腹部が膨らんでいくので、腹囲をはかって記録した。これが何の役に立つかはわからないが、毎日書き込まれていくノートが何だか誇らしかった。


 そして、十月十日の後、出産の日がやってきた。

 あっさりと産めた。驚きの安産だった。陣痛が来てから、おそらく3分もかかっていない。

 いきんだとき、何かを産んだような気がしたが、何もなかった。ただ、腹が凹んだだけだった。このことは事前にカロリーナから聞いていた。母親同様に、子供もまた人間には姿を見せてはくれないのだ。


 俺は泣いた。我が子をこの手に抱けなかったことを泣いた。



 我が子はこの火星のどこかで元気に暮らしていくのだろう。どうかそうでありますようにと願った。


 俺はあと少しだけこの星に滞在することに決めた。宝石強盗は足を洗うことにした。妊娠中はどういうわけか自分の人生を振り返ることが増えた。そして、急に自分が恥ずかしくなったのだ。親が泥棒だなんて子供が可哀想だし、情けない親だと我が子に思われるのも嫌だった。

 泥棒はやめて、アクセサリー作りを始めた。俺はもともとアクセサリーの細工職人だったのだ。これで食っていけるほど腕がいいわけでもないし、センスがあるわけでもなかったから廃業したが。それなのに、暇を持てあました妊娠中に幾つか作ってみたいという気になり、いざ作ってみたらやはり自分にはこれしかないような気がした。デザインを練り、金属を加工するのがとても楽しかったのだ。しかしこれで食っていくのは難しい……。この道で生きていくのは既に諦めて過去に捨てた夢だった。現実はそう甘くはないのだ。何かほかに道を見つけるしかないのだろうが、今さら俺に何ができるだろう。

 チャドは「ハラダさんは漁師が向いてると思いますよ」と言っていた。なぜ漁師。理由はまったくわからないが、体力には自信がある。とりあえず地球に戻ったら漁師について調べてみるか。その前にチャドから頼まれた結婚指輪を仕上げなければならないが。

 

<終わり>

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夢かと思うほどファンシーでラブリー ゴオルド @hasupalen

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