第5話 光

 空気は日に日に透明度を増していった。

 太陽は金色の粒子を大気中に散りばめ、風が吹くたびに落ち葉がアスファルトに舞い降りて、黄色や赤に染めていく。

 秋とはやがて来る冬にばかり気を取られ、あっという間に過ぎていくだけの季節だったのに、今年は違った。

 こんなに色鮮やかな美しい季節に純玲は生まれたのだと思うと、短い秋を物語るひとつひとつが愛おしかった。

 たおやかな微笑みが、豊かな優しさが純玲と秋を結びつけていた。

 たとえこの先純玲と会えなくなっても、毎年秋が来るたびに私は純玲を恋しく思うだろう。 


 出会って最初に迎える純玲の誕生日が、私が直接祝える最後の誕生日かもしれないと思うと、ありとあらゆることをしてあげたかったが、夫の監視下にいる純玲には連絡を取ることも簡単ではなかった。

 夫は普段は物静かだが、純玲や娘たちが自分の決めた通りに行動することを強く求め、少しでも反すると激しく気分を害する人物だった。 

 なんとか純玲は夫の追求をかわしているものの、夫は執拗に純玲を責めているらしい。純玲の人間関係全てを疑う夫に命じられ、純玲は引っ越しを待たずにパートを辞め、娘たちの習い事も早々に辞めた。もちろん、バレエも。

 純玲の夫の帰宅時間は予告なく早まったりするので、夕方には連絡を切り上げる。メッセージはすぐに消去。夫は帰宅するとすぐに純玲のスマホをチェックするらしい。就寝時はリビングにスマホを置くよう言われている。

 私が夜までレッスンがある曜日は、連絡を取り合えないまま終わることも多かった。

「父の反対でバレエを辞め、夫の都合で仕事を辞め、今回もまた夫のいいなり」

と純玲は言ったが、彼女には夫についていく以外の選択肢はないことは純玲も私もわかっていた。

 

 私たちはなんとか秘密裏に連絡を取り合いながら、純玲の誕生日の準備をした。

 運良く当日はバレエのレッスンが夕方からだったので、私は知り合いに見られないよう、純玲の自宅から離れた、静かな住宅街にある一軒家のイタリアンレストランのランチコースを予約した。

 そこなら知り合いに見られることもないだろう。

 その日が私たちが会う最後の日になるのだ。


 *


 15分前に到着すると、花がふんだんに飾られたテーブルにすでに純玲は座っていた。 落ち着かない顔で入口を凝視していた純玲の顔が、私を見てぱあっと明るくなり、すぐにくしゃりと歪んで大きな瞳に涙が揺れた。

 私は慌てて近づき、細くなった肩にそっと手を置いた。

 最初に純玲に会った時、何不自由ない幸福な主婦の象徴のように見えた背中の柔らかなたるみもなくなっている。

 私を好きになり、食べられない、眠れないと訴えた純玲。夫に責められ、よりいっそう細くなった純玲は、以前に増して可憐さを際立たせていた。

 

 純玲がどうにか涙をこらえ、落ち着きを取り戻したのを見て私も向かいの席に座る。

 襟ぐりが大きく開いたグレーの薄いニットが純玲に似合っていた。

「会いたかった」

と私が言うと、純玲も何度も頷いた。

 オーダーは済ませているので、すぐに前菜が運ばれてくる。

「お誕生日おめでとう、純玲さん」と言いながら、車で来ている純玲のために選んだ炭酸水のグラスを合わせた。

「ありがとうございます。まさか美乃里先生と二人きりでお祝いしてもらえるなんて」

「40代へようこそだけれど、40歳にはとても見えないわ。あなたは本当に少女みたい」

「そんな……私なんてただの取り柄もない地味な主婦です」

「私がどれだけ純玲さんの言葉や、あなたの存在に救われたか。それにあなたは誰より綺麗だわ」

 私はバッグから小さな紙袋を出して純玲に渡した。

「ささやかだけど、プレゼント」

「わあ、ありがとうございます……! 開けていいですか?」

 私は頷き、純玲の綺麗な指先が紺色の箱にかかった白いリボンをほどくのを微笑みながら見つめていた。


 純玲の指に華奢な金のチェーンが絡め取られ、そっと持ち上げられる。それには金の留め具に縁取られた雫型の乳白色の石が揺れていた。

 純玲の琥珀のような茶色い瞳が喜びで輝く。

「嬉しい……こんな綺麗なネックレス、初めて」

「純玲さんの誕生石のオパールよ。純玲さんは、ダイヤやルビーのようなきらびやかさはないかもしれない。でもオパールのような、奥深くてたおやかな美しさがある。きっと似合うと思う」

 そう言って私は自分の首元から純玲に贈ったものと同じネックレスを引っ張り出した。

「あっ、お揃い……?」

 私は笑顔で頷いた。

「オパールって光の当たり方で輝きが変わって、まさに純玲さんそのものだと思った。あなたは最初の印象からどんどん違う面を見せてくれたから。お店で見ていたら、私もお揃いのものが欲しくなったの。あなたもつけて」


 ――もう二度とあなたに会えなくても、あなたが私を忘れたとしても、あなたが照らしてくれた道を私が歩いて行けるように、お守りが欲しかった。

 この先の会えない日々にも心のよりどころになるような、形あるものが欲しかった。

 

 嬉しそうに頷いた純玲がネックレスを首にかけようとするのを制し、私は席を立って純玲の背後に回った。

 察した純玲が私にネックレスを渡し、柔らかなカールがかかった肩までの髪を片手であげて、白い首筋をさらした。

 純玲のラムネのような甘い香りがふわっと舞い、めまいがする。

 その首に唇をつけたいという衝動と必死に戦う。


 やはりここで――人目のある場所で会うことにしてよかったと思った。

 純玲を再び自宅に招くことも考えたが、衝動のまま後戻りできない関係になりそうで怖かった。

 そうなれば、別れがもっと辛くなる。


 震える指でなんとか金具を留めた。

 再び席に戻って正面から見ると、涙型のオパールが純玲の美しい鎖骨の下にかかり、なめらかな白い肌の上で虹色に光っていた。


 ずっとあなたの胸で、鼓動のたびに私を揺らして。

 私の涙を閉じ込めて、私を忘れないで。      


「母親として二人の娘を育てているだけであなたは素晴らしい経験を積んでいるし、人を励ます思いを言葉にできる。40代はまだまだ可能性がたくさんあるわ。純玲さんにも自分の人生を生きていって欲しい」

「私の人生……」

「自分にも言い聞かせるつもりで言ってるんだけれど。私も頑張るわ。いつかまた会えた時に、胸を張って報告できるように」


 純玲の目に再び涙の膜が張って揺れた。

「私もそうできるように、自分にできることを見つけます」

「ええ。その日まで、何か大きな事がない限りはもう連絡しないようにするわ。引っ越し先であなたがどんな生活になるかわからないし、危ない目に遭わせたくないから」

 胸を痛めながら私はようやく言った。


「でも、心からあなたが好き。あなたのおかげで私は自分の今までやってきたことを肯定できた。この先の希望も持つことができた」

 涙がこらえきれず、声が震えた。

「本当にありがとう。あなたの幸せを願ってる」

「美乃里先生がいなくて、私は幸せになれるでしょうか」

 純玲も涙をこぼしていた。

「幸せになって。そのネックレス、いつも持っていてね」

「もちろんです……」

 そのまま私たちは料理を食べることが出来なくなり、しばらくして店を出た。


「ごちそうさまでした。でも、残してしまってもったいなかったですね」


 一人になった時から本当の寂しさ、悲しさが来ることがわかっていたから、私たちは店の前で少しでもその時間を遅らせるかのように立ち話を続けていた。


「そのプレゼントの紙袋や箱、帰るまでにどこかで捨ててね」

「そんなこと……できません」

「じゃあ、私が代わりに処分するわ」

 純玲は唇をとがらせながら私に小さな紙袋を渡した。


「バースデーカードもなくてごめんなさい」

 カードは購入済みだったが、私の筆跡のものが見つかったら夫がまた疑うだろうと思い、止めたのだ。

 純玲はデコルテに揺れるネックレスを手で押さえた。

「美乃里先生の気持ちはわかっています。プレゼント、本当に嬉しかったです」

「怪しまれるようならしまっておいていいから」

「……じゃあ、箱は取っておかなきゃ」


 私は紙袋から箱を取り出し、純玲の手に乗せた。

 指先で純玲の手のひらや指にそっと触る。

 純玲はそんな私をじっと見つめていた。


「もう果弥ちゃんが帰る時間ね。私は地下鉄で帰るから」

 駐車場に停めた純玲の車まで送っていく。

「今日はありがとうございました」

「それじゃあさようなら。元気でいてね」

「また、いつか」


 さよならは言わない、という純玲の心の声が聞こえてくるようだった。 

 私は頷き、もう一度純玲を目に、脳裏に、全身の細胞に焼き付けるように見つめ、そして背を向けて駅へ向かって歩き出した。


 一度引いた涙が再度私を津波のように覆った。喉から嗚咽が漏れ、足がふらつく。

 でもきっと純玲はまだ私を見ている。

 立ち止まったら、振り向いたら、純玲が歩き出せない。

 私は指を噛んで堪えた。

 流れる涙はそのままになんとか歩く。

 こんなにも愛しいあなたから、自ら離れていかなくてはならないなんて。


 *


 ともすればあふれそうになる涙と共になんとか過ごした一週間後。

 レッスン前にひとり、スタジオでストレッチをしていると、美乃里先生、と小さな声がした。

 信じられない思いで振り向くと、入口に純玲が立っていた。

 純玲は目に涙を溜めながら微笑んで近づいてきて、私の近くにぺたりと膝をついた。

「明日が引っ越しです。もう一度どうしても美乃里先生に会いたくなった時のために、最後のレッスンの時にわざと忘れ物をして、受付で取って置いてもらったんです」

 そう言って手にしていた果弥のバレエ用タイツを見せる。

「誰も来ないうちにすぐ帰ります。少しでいいから会いたくて」

 言いながら唇が震えている。純玲の琥珀色の瞳からは止めどなく大粒の涙がこぼれ、ぱたぱたと床へ落ちた。


「美乃里先生をどうしても好きなこの気持ちは、すでに罪なのですか?」


 純玲が私へと細い手を伸ばす。


「それとも美乃里先生に触れたら、そこから罪が始まるのですか?」


 高い位置にある窓からオレンジ色の光が向かい合って座り込んだ私たちを照らし、板張りの床に長く暗い影を描いていた。


 ――これが罪だと言うのなら。

 あなたではなく、私がその罪を被ればいい。


 純玲の腕を掴み、身体を一息に引き寄せる。

 私の胸に納まった純玲の顎を指で上げ、口づけた。


 全身が純玲の甘やかな香りに包まれる。

 唇を離すと、純玲が目をそっと開けて私を見つめた。


「時間がかかっても、どうにかしてあなたの元に行きます」


 そう言って再び口づけた。

 ――これで私も耐えられる、と思った。

 いつかわからないその日に向けて歩いて行ける。

  

「あなたが照らしてくれた道を歩いて行きます。会える時が来たら、あなたにわかる方法で伝えます」


 私を見つめる純玲の瞳に夕焼けが映り込み、琥珀の粒のような涙が絶え間なくこぼれ落ちていた。

 すがりついてくる指先が痛いほど私の腕に食い込む。


「私、いつまでも待てます。美乃里先生が歩くその道を、私側からも歩いて行きながら」

 そう言うと、純玲が細い腕で私をぎゅっと抱き締めた。

「もうレッスンが始まりますね。私、行きます」

 涙をはらって純玲は立ち上がった。

 私は唇を噛んで嗚咽をこらえた。

 スタジオを出て行く純玲の細い肩が震えている。

 後ろ姿が涙で揺れて霞んだ。


 ――あなたを構成する全てからあなたをこのまま奪い、自分のものにできたなら。


 でもそれは今するべきことではなかった。

 純玲の人生を守り、純玲から光をもらった私の人生を守るために。


 愛している。

 純玲を愛している。


 どうにかして私は、再びあなたの元へ行く。

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どうにかして おおきたつぐみ @okitatsugumi

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