第4話 ふたりだけの海
打ち上げ会場のイタリアン風居酒屋にはすでに私たち以外の全員が集合していた。
「あら、美乃里先生と高梨さん、一緒だったんですね!」
「ええ、駅で偶然会って」
そう言って私は純玲を振り返り、「ね」と添えた。純玲も笑顔で頷いている。
純玲と共有する秘密が少しずつ増えていく。胸の内側をくすぐられるような喜びがあった。
私は中心に用意してもらっていた席に座り、純玲は端に座った。
オーダーしたドリンクがすぐに届き、乾杯になる。
いつもは飲まないけれど、乾杯くらいはとシャンパンを頼んでいた。純玲はビール。意外と飲めるらしい。
メッセージをいくらやり取りしても、まだまだ知らない純玲がいる。
何に傷つくのか、何を気にするのか。
早くもっと知りたい。もう純玲を傷つけたり、気持ちを引かせたりすることがないように。
発表会の話、他のチームの話、スポーツクラブの噂、どのコーチがイケメンか……酒の量が増えるに従い、話の内容が下世話な方向に流れ、いつしか夫婦関係の話になっていた。
「先生っていつまでも綺麗だから、旦那さんともラブラブなんでしょうね」
純玲の前で夫の話はしたくなかったし、それ以上に純玲の夫婦関係の話も聞きたくないと思った。
「全然。夫とは寝室も別、会話もほとんどないですよ」
できるだけ感情を込めずに言うと、中心的な存在のママが大笑いしながら手を挙げた。
「うちも寝室別です! だからもうすっかりレス」
「実はうちはまだ、たまにしてる」
アルコールで顔を赤くしたママたちの告白のたび、大げさな笑いが沸き起こる。
このまま純玲に話が及ばないでほしいと思っていたが、一人が
「高梨さんは可愛いし、旦那さんと仲良しでしょう?」
と純玲に聞いた。
動悸を感じながら純玲を見ると、彼女は困ったような表情を浮かべていた。
「……私はそういうのあまり好きじゃなくて。私も娘達と寝ていますし」
わかる、という同意の声の中、ほっとした私はウーロン茶を飲み干した。
――私は何にほっとしたのだろう。
*
〈最近、あまり食べられないし眠れないんです〉
そんなメッセージが純玲から届いたのは飲み会から数日後の夜半過ぎだった。
〈寝ても起きてしまうんです〉
既読がついているから彼女も私が起きたことは気づいているのだろう。
私も純玲からの着信がいつでもわかるようスマホを握りしめて寝るのが癖になり、無意識の中でも常に純玲を探しているかのように眠りが浅くなった。
〈私もそう。今も起きてしまいました〉
〈起こしてしまいましたか? ごめんなさい〉
〈ううん、こうして会えて嬉しい〉
〈私も〉
一日の終わりと始まりの狭間に、ふたりだけの海に沈み込んでいく。
唯一息ができる場所かのように、私はこの時間を待ち焦がれた。
よくない方向に向かっているとも思うのに、暗い部屋に純玲からのメッセージを映し出す画面の光が灯ると、私は深海魚のように引き寄せられていく。
抗うことなどできない。
画面の先には同じように暗い海の底に横たわる純玲がいるのだから。
こうして約束などしなくても私たちは毎晩スマホの中で会い、さまざまな会話を重ねた。
ある晩、純玲のバレエ経験について聞いた。
彼女は幼稚園年長からバレエを習い始めたという。父は反対していたが、バレエに憧れていた母がパートをして月謝をまかなってくれた。
しかし、中学生になった兄の塾代を母のパート代から出すと父が決め、純玲のバレエは小学三年で終わった。
〈そもそも私に才能がなかったんです。うまければきっと父も納得したし、母も何が何でも続けさせてくれたと思う。私は努力も足りなかったかもしれないけれど、下手でした。身体も重たかったし〉
私はどう言葉をかけたらいいかわからなかった。
確かに、本人のやる気がいくらあっても上達しにくい子もいる。やがてそういった子どもたちはバレエや自分に失望し、教室を去って行ってしまう。
〈バレエだけじゃないんです。私はいつも中途半端。大学でも目標が見つけられず、なんとなく卒業して。
仕事は楽しかったけれど、夫の転勤で辞めてしまったからキャリアもなく、技術もなく、その場その場でパートをするくらい〉
〈どんなお仕事だったの?〉
〈小さいメーカーの広告宣伝をしていたんです。センスもないし、広告論もわからないし、仕事が多くて終電になったりして大変だったけれど、少しずつできることが増えていってやりがいを感じていました。
でも結婚して一年で夫の転勤についていくことになって辞めました〉
純玲に仕事を諦めさせた「夫」を私は憎く思った。
私なら、純玲が思う存分やりたいようにさせるのに。
〈だから私は、バレエ一筋に打ち込んできた美乃里先生が眩しいんです〉
〈でも私は結局夢だったバレエ団にも入れず、主役に選ばれたこともない。子どももできず、夫とも破綻して年齢だけ重ねてしまった〉
私は今まで母にも話したことがない、不妊治療の経験までも明かした。
どうしても子どもが欲しかったという気持ちに純玲は深く共感し、もっと早くに真剣に取り組んでいればという後悔をただ受け止めてくれた。
それだけでも私は救われた。
〈子どもを諦めるのは本当に辛かったと思います。でも子育てにかけるエネルギーの分も、先生はバレエに打ち込めたのだと思います。眠りの森の美女で、先生はプリマよりも美しかった。ひとつひとつの動作をまるで慈しむように踊っていました。あんな踊り方ができるのは先生だけ〉
私が弱音を漏らすと、純玲は言葉を尽くして励ましてくれた。
〈そんなこと純玲さんしか言ってくれないわ。お花に添えてくれたメッセージも手帳に挟んで時折見返しているの〉
〈本心ですから何度だって言います。美乃里先生は誰より綺麗で、素晴らしいダンサーだって〉
純玲の文字がぼやけて涙となり頬を流れていった。
明日もレッスンがあるのに、こんな夜中に泣いたら目が腫れる。
そう思って拭っても拭っても涙があふれた。
きっとずっとそう言われたかったのだ。
私にバレエの才能があると喜んで私以上に熱心だったのに、だんだんとその才能が有限であると気づいて失望の色を深めていった母に。
コンクールに出場しても結果を出せない私を哀れむような目で慰める明美先生に。
私を幸せにする、バレエも応援すると誓ってくれたのに、私に無関心になっていった夫に。
どうして私がずっと求めていた言葉を、知り合ったばかりの純玲はくれるのだろう。
〈それに主役になれなかった先生だからこそ、いろんな子ども達の気持ちが分かるんだと思います。真弥は今でも美乃里先生に話を聞いてもらってよかったって言っているし、果弥も先生のおかげでバレエが大好きになりました〉
純玲の言葉を読んでいると、霧の先に道が見えていくような気がしてくる。
この先いつまで踊れるのか、講師としていつまでやれるのか不安しかなかったのに。
〈純玲さん、ありがとう。私だから出来ることを探していきたい〉
〈先生をずっと応援していきたいし、私も私自身が出来ることを探したいです〉
〈私も純玲さんを応援する〉
〈嬉しい〉
出来るならば純玲のすぐ横で、こんな会話をしたかった。
どんな顔をして私への言葉を書いてくれているのか見たかった。
透き通るビー玉がいくつも転がるような純玲の声で、直接聞きたかった。
――会いたい。
心の底から思いがあふれてくる。
そう送ったなら、純玲はどんな反応を示すだろうか。
何言っているの、と笑う? それとも、引く?
もう二度と純玲に引かれたくない。
でも、伝えたい。どうしても。
胸で生まれた思いが指先に、髪の毛の一本一本にまで広がり、無数の火花となって暗闇に放たれるように思えた。
〈会いたい〉
迷いながら、震えながら送信ボタンを押した。
画面に私の言葉が刻まれる。
すぐに既読がつくのに、なかなか純玲からの返信は来なかった。
引いた? 頭がおかしいと思った?
心臓が体中に散らばったように全身で鼓動を感じ、息が苦しくなった。
その時、ぱっと画面に言葉が現れた。
〈私、美乃里先生が好きです〉
――ああ。
〈私も純玲さんが好き〉
考えるより先に指から言葉が流れ出ていた。
そう、これは恋だ。私は純玲にまぎれもなく恋をしていた。
女性である純玲に。
既婚者同士なのに。
どうにかして彼女を自分のものにしたいほど狂おしく。
そして純玲も私を想ってくれていた――。
*
それからも私たちは毎晩のやり取りを重ねた。
レッスンで顔を合わせた時は思いを込めた目線を交わし、帰りは車で本教室まで送ってもらうのがお決まりとなった。
後部座席の果弥が気づかぬよう、偶然を装ってシフトレバーに置いた純玲の手にそっと触れたりもした。
好きという思いが通じ合うだけで私たちは幸せだった。
それ以上望んではいけないことを、お互いわかっていたから。
しかし、その全てに不意に終止符が打たれることになった。
〈夫が私の行動を怪しんでいます。スマホを触りすぎだし、夜中に起きた時にも私が誰かとやり取りしているのを見たと。先生とのやり取りは全て消してなんとかごまかしています。
そして急ですが、来月、泉北市への転勤が決まりました。もうここにはいたくないと夫が希望して、出身地に戻る権利を使ったんです。美乃里先生ともう会えなくなります。私、どうしたらいいんでしょうか〉
純玲の誕生日が間近に迫る、10月のことだった。
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