第3話 住む世界が別の人

 発表会の翌週末、私は純玲母子を自宅に招待した。

 真弥と話すため、そして「私も美乃里先生の発表会が見たかった」と拗ねた果弥に、本部で撮影した動画を見せることを口実に。

 来客があると告げると、夫は朝から外出していった。


 純玲からは、最初に車で送ってもらった後、いつでもどうぞと連絡先をもらって以来、時折メッセージのやり取りをしていた。

 他愛ない内容でも純玲が感心してくれたり共感してくれるのが嬉しくて、会話が途切れない時もある。

 でも、贈られた花のお礼は伝えられても、添えられていたメッセージについては触れることができなかった。


〝美乃里先生が誰よりも綺麗でした。美乃里先生から目が離せませんでした〟


 純玲はどんなつもりであのメッセージを書いたのだろう。

 深い意味はないのかもしれない。

 だけど、名もない登場人物の一人に過ぎない私を、誰よりも綺麗だったと純玲が言ってくれたことがいかに大きなことだったか。

 大げさではなく、バレエを続けてきてよかったと思ったし、重ねてきた努力が報われたとすら思えたのだ。

 きっとこの先、あのメッセージはずっと私を支えてくれるだろう。


 このままどんどん純玲と親しくなっていってもいいのだろうかという迷いもある。

 でも、心が純玲に向いていくのを止めることができない。

 もっと私を知って欲しい。純玲のことも知りたい。

 純玲の姿が何度も脳裏に浮かび、またメッセージが来ていないかと頻繁にスマートフォンを確認する自分に気づいて驚く。

 

 きっと、友達づきあいをほとんどしてこなかったから、うまく距離感をつかめないだけ。

 わかっている、これは一時的な熱。ドラマにはまるようなもので、やがて落ち着いていく感情だ。


 それでも、もしかして純玲が初めての親しい友人になるかもしれないという想像は甘やかに私を締め付けた。


 *


 玄関に現れた純玲は、胸元から袖にかけてフリルがついた白いブラウスがよく似合っていた。髪をふんわりとアップさせた首筋が白く艶やかに光り、またあの甘いラムネのような香りが漂った。

「わー! 美乃里先生のおうち、きれー! ホテルみたい!」

 果弥が無邪気に声を上げながら廊下を進んでいくのを、真弥が慌てて追いかけていく。

「すみません、しつけがなってなくて。これ、少しですがクッキーです」

 純玲が菓子店の紙袋を渡してくれた。

「ありがとうございます。さあ、どうぞ入って」


 リビングに先に入った純玲はその場で立ったまま部屋を見渡していた。

「本当にホテルみたい……」

「ここでストレッチや練習もするので、あまり物は置いていないの。殺風景でしょう」

「いいえ、家具もみんなこだわっている感じで素敵です」

「夫がデンマークの家具が好きなんです。ソファはフリッツ・ハンセン、ダイニングテーブルはヤコブセンとかで、私はよくわからないのだけれど。うちは子どももいないし夫の数少ない趣味だから任せているの」

「果弥が汚さないように気をつけさせなきゃ」

「古いものばかりなので気にしないで」

 そう言っても、純玲はうつむいてあまり目を合わせようとしなかった。


 かすかな引っかかりを感じつつも、紅茶をいれ、テレビで発表会動画を映し、朝焼いておいたチーズケーキと純玲からのクッキーを出した。

「このケーキ、もしかして美乃里先生の手作りですか?」

「そうなの、体型のために炭水化物をあまり摂れないから低糖質のケーキをたまに作るの。おからパウダーで作ったのだけれどお口に合うかしら?」

 純玲ははっとしたように口元に手をやった。

「私、そこまで考えていなくて……クッキーなんて持ってきてすみません」

「いいのいいの、発表会も終わったし、私もいただくわ」

 純玲はまたもや眉根を寄せてうつむいてしまう。

 余計なことを言ってしまったかと思ったが、どう取り繕えばいいかわからず、真弥の肩をそっと叩いた。


「真弥ちゃん、紅茶のおかわりをいれるのを手伝ってくれるかな」

 純玲が気づいて小さく会釈をするのに頷き返して、真弥と共にダイニングに向かった。

 ポットにお湯を注いでいると、真弥がティーカップを並べて置いてくれた。


「先週は発表会に来てくれてありがとう。真弥ちゃんも幕物を踊りたいと思わなかった?」

 真弥は困ったような顔をして目を伏せている。

「真弥ちゃんはお顔が小さくて手足も長いから、本気で踊ったらとっても綺麗なバレリーナになれると思う。でも、何よりも必要なのはバレエが好きって気持ち。真弥ちゃんはバレエが好き?」

「――私、バレエよりも絵を描くのが好きなんです」

 真弥は私をまっすぐ見つめて言い切った。

「バレエは綺麗だとは思うけれど、踊りたいとは思いません。私、絵画教室に行きたいんです」


 ああ、この子はすでに見つけたんだ。

 自分が心から打ち込めるものを。


「そうなのね。絵を描くのもとても素敵なことだと思う。その気持ち、お母さんに話した?」

 真弥は唇をきゅっと噛みしめ、首を振った。

「ママは、バレエが大好きだったのにおじいちゃんに反対されて続けられなかったから、バレエを辞めたいって言いづらくて」

 純玲がバレエを断念した理由を初めて聞いた。

「でもお母さんは、真弥ちゃんに無理にバレエを続けさせるつもりはないと思うな。真弥ちゃんの本当の気持ちを知りたがっていたから」

「ママ、がっかりすると思う」

「大丈夫、お母さんはがっかりなんてしないよ。先生が先に言っておくから、あとで真弥ちゃんも話してみたら?」

 泣きそうな顔をしていた真弥は、ほっとしたような顔で頷いた。


 三人が帰った後、真弥と話した内容について純玲にメッセージを送った。

 喜んでくれると思ったけれど、純玲からは〈先生の貴重なお時間を取らせてしまい、申し訳ないです〉という堅苦しい返信しか来なかった。

 今朝までの明るいやり取りとは全く違う。

 何か気に触るようなことをしてしまったのかと思っても、友達づきあいをほとんど経験してこなかった私には、どうしたらいいのかわからなかった。


 翌日以降も、何かメッセージを送れば、純玲から返事は来た。

 私に失礼にならない程度の、講師と保護者という範疇での短い言葉。

 引き潮のように静かに、純玲が私から遠ざかろうとしているのがわかった。

 胸が痛くて、メッセージを送ることを辞めたら、純玲からも途絶えた。


 親しい友人になるなんて、私だけの夢に過ぎなかったのだ。


 *


 7月中旬に開催されたスポーツクラブ合同のダンス発表会は無事に終了した。

 この発表会を最後に真弥は辞めることになり、吹っ切れたのか笑顔で踊りきることができたし、果弥はバレエを始めたばかりなのにミスなく踊った。

 純玲は母親グループに紛れ、話すことはできなかった。


発表会数日後、母親グループが企画した打ち上げに純玲が出席すると聞き、私も初めて参加することにした。

 どうして私を遠ざけたのか、純玲の気持ちを聞いてみたかった。

 でも、このまま母親たちの前で顔を合わせても気まずいだけだ。

 意を決して〈打ち上げの前に少し話せませんか?〉とメッセージを送ると、わかりましたと返事が来た。


 待ち合わせのカフェに入ると、すでに純玲が席に着いていた。

 注文したアイスコーヒーを持って向かいに座ると、純玲が緊張した顔で会釈をした。

 甘いラムネのような純玲の香りを久しぶりに感じ、涙が出そうになるのをこらえて、言葉を絞り出した。

「……私、何か高梨さんを傷つけるようなことをしてしまったのかしら」

 純玲がびくっと身体を震わせ、大きな瞳で私を見て、すぐまたうつむいた。


「美乃里先生は何も悪くありません。――ただ、改めてわかっただけなんです。やっぱり私とは住む世界が違う人なんだって」

「どうして」

 と言いながら、私も最初は純玲のことを遠い人だと思っていたことを思い出す。

 私が諦めた何もかもを手にした幸せな人なのだと。


「先生は家具も食器も高級なものばかりの洗練されたお家で、素敵な旦那さんと暮らしている。狭くてごちゃごちゃした我が家とは全然違います。その上、私ときたらバレリーナの先生に気遣いもなく甘い炭水化物のお菓子を持って行ってしまったりして。

 もしかしたら美乃里先生と仲良くなれるかもって舞い上がっていた自分が、本当に恥ずかしくなったんです」


 私と仲良くなれるかも――純玲もそう考えていてくれたのか。


「こんな私なんかが先生の時間を使うなんて申し訳なくて、メッセージも遠慮しようと思いました」


 違う、あなたは何もわかっていない。


「私は、た……純玲さんともっと仲良くしたい」

 純玲が目を丸くして私を見つめた。

 そのまま一息に続ける。

「私、バレエばかりしてきたから、友達づきあいをしたことがなかったんです。純玲さんと仲良くなって、友達がいるってこんなに楽しいのかと思いました。

 でも急に距離を置かれて、どうしていいかわからないくらい寂しくて悲しかった」

「……私なんて、何も取り柄もないのに」

 純玲の瞳が潤んでいた。


「純玲さんじゃないとだめなんです」


 どうにかして彼女を繋ぎ止めようと必死だったあの時、すでに私は自覚のないまま、純玲に恋をしていたのだった。

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