第2話 誰よりも

 5月。

 私は来月に迫った二年ぶりの本教室発表会に向け多忙を極めていた。

 受け持ちクラスへの振り付けのほか、講師・生徒全員で取り組む幕物「眠りの森の美女」では「青い妖精」に配役され、振り付けを叩き込むように練習を重ねた。


 純玲の娘達は結局二人ともスポーツクラブ教室に入会したが、姉の真弥がほとんど笑顔を見せないのが気になった。

 近いうちに辞めるかもな、と予想する。

 

 レッスンは先に小学1年生までのキッズクラスがあり、その後に6年生までのジュニアクラスがある。

 娘達のレッスンが終わるまで2時間以上の間、純玲は他の母親達とはほとんど話さず、たまにストレッチを行う以外は背筋を伸ばした体育座りをして見学している。

 その美しい姿勢は目を引いた。

 正座は膝への負担がかかるし、いわゆるお姉さん座りは骨盤の歪みに繋がるので、バレエ講師は子ども達にしないよう教える。もしかしたら純玲も昔、バレエを習っていたのかも知れない、と思った。だから娘達にも習わせたいのだろうか。


 果弥たちのレッスン後、私は母親達へ発表会のチケット購入をお願いしたいと話した。講師になった当初こそ言いづらかったが、今や慣れたものだ。

 講師としての年数だけは重ねた私のノルマは多く、販売できない分は自分で持ち出しとなってしまう。出演者としての費用もかかるので、出来るだけ持ち出しは最小限に留めたかった。

「今回はメインで<眠れる森の美女>を演じるのでかなり見応えがありますし、同じ位の子ども達も出演するので、お子さん達にも表現の勉強になると思いますよ」

 キッズクラスは新規入会者が多く、発表会の話を初めて聞く母親達が多い。

 一人が聞き辛そうに口を開いた。

「ちなみに一枚おいくらになりますか?」

「五千円です」

 若い母親達が驚いた目をしてお互いを見た。その顔に<高い>と書かれている。

「買っていただけると私とっても助かります~」

 わざと明るくダメ押しをしてみる。

「あの、子ども料金は……」

「すみません、ないです。席を使う場合はみんな同じ料金です」


 確かに舞台はかなり本格的なものとはいえ、我が子が出る訳でもない。主婦にはなかなか出しにくい金額だろう。

「まずは主人と相談してみてから……」

と一人が言い、他の母達もほっとしたように頷き合う。

 純玲をさりげなく見ると、何やら思案顔をしていた。

 彼女も買うのは難しい、か。


 ジュニアレッスン後にも母親達にチケット販売について話した。このクラスは長年教えている生徒も多いので、訳知り顔で購入してくれる母達が数人いたのでほっとする。

 この後、本教室で講師の合同打ち合わせがあるため、急いで帰り支度をしていると純玲が近づいてきた。


「先生、私、2枚買おうかと思います」

 予想外だったので驚く。

「とっても助かります! ママと真弥ちゃん分かしら?」

「はい、果弥の分まではちょっと難しいけれど、2枚なら……」

「2枚でもありがたいですよ」

「お金は来週持ってきますね」


 純玲は言いにくそうに続けた。

「真弥がもう一度バレエが好きになるチャンスになったらいいなと思っています」

 

 ああ、真意はこれかと理解して、小声で返す。


「真弥ちゃん、バレエ嫌がってますか?」

「それが、楽しそうには見えないのにどう思っているのか聞いてもちゃんと話してくれないんです。

 ──美乃里先生、よろしければなんですが、真弥の気持ちを聞いてもらえないでしょうか? 思春期になったからか、私とあまり話をしたがらないんです。ただの無理強いになっているならもう辞めた方がいいと私も思ってきています」

「それじゃ、発表会後に話してみましょうか。舞台を見てどう思ったか、バレエを続けたいかどうか」

 純玲はぱっと笑顔になった。

 化粧っ気もあまりないのに綺麗に笑うなあ、と一瞬見惚れてしまう。

「そうしていただけると嬉しいです! ありがとうございます」


 ああ、彼女は娘のことに一生懸命な、いい母親なのだと改めて思う。

 きっといい妻でもあるのだろう。

 ──どちらにも私はなれなかった。


「ごめんなさい、ちょっと急ぐのでもう行きますね」

「引き留めてしまってすみません。まだこの後レッスンですか?」

「いえ、元町の本教室で7時から打ち合わせがあるんです。でもバスがギリギリで」

 荷物をまとめて持つと、純玲がまたもや笑顔で言った。

「私、車で送りますよ!」

 純玲にまとわりついている果弥も「先生も乗って!」と飛び跳ねる。

「ありがたいですが、もう旦那さんもお帰りでしょう?」

「元町ならそんなに遠くないし、夫はいつも遅いので大丈夫です。面倒なこともお願いしちゃいましたし」


 逡巡したが、遅刻は避けたかった。

 それに、もっと純玲と話せるなら嬉しい。──そう思った自分に驚く。

着替えを終えた真弥がやってきて、不思議そうに私たちを見つめた。

「……じゃあ、遠慮無くお願いします」

と、頭を下げると、果弥が「やったー!」と手を叩いた。


 スポーツクラブの駐車場に停められた純玲の車はベージュのアルトラパンで、内装も可愛らしかった。純玲の趣味だろうか。

 真弥と果弥が後部座席に乗り込み、私は助手席を案内される。

 小さな車内で運転席の純玲が思ったより近く、ふんわりとラムネのような甘く爽やかな香りが漂ってくる。柔軟剤か、シャンプーの香りだろうか。

 真弥と果弥は純玲が用意してきたおにぎりを早速頬張った。


「それじゃ、元町方面に向かいますので近くなったら道案内よろしくお願いします」

 純玲は運転すると性格が変わるのか、これが素なのか、物静かな印象が一変し、快活に喋りながらハンドルを操った。


「運転お上手ですね。私は運転免許も持ってないんですよ」

「え、そうなんですか? 私、美乃里先生って何でもできる完璧な人だと思ってました」


 純玲がそんな風に自分を見ていてくれたのが少しくすぐったかった。

 実際は全然違うのに。


「私は子どもの頃から自分の時間をみんなバレエに費やしてきたから、普通の人が普通にできることができないんです。かといって大した実力もなく、年だけ取ってしまったので、いつまで講師が続けられるのかも不安です」


弱音を誰かに話すのは久しぶりだった。

 講師仲間に弱みを話せばつけ込まれそうだし、教室では生徒が目指す存在でいなくてはならない。

 友達にも──と思いを巡らせ、うら寂しい気持ちになる。


 そもそも、本音を話せるような友達は私にはいなかった。


 友達が部活をしたり遊んで仲良くなっていく放課後も週末も、長い休暇も、私はバレエをやっていた。

 もちろんバレエ仲間はいたけれど、彼女達はライバルであり、馴れ合いになりたくなくて距離を置いて付き合ってきた。


「先生何歳ー?」

 果弥が無邪気に聞き、純玲と真弥が慌てるのがおかしくて笑ってしまう。

「いいのいいの、先生42歳よ。もう隠したい年齢でもないから平気」

「じゃあママと近いね! ママ、10月で40歳になるんだよ!」

 果弥の声に思わず純玲を見つめると、苦笑いをしている。

「30代前半かと思ってました」

「いえいえ、いよいよ大人の仲間入りです」

「それじゃ、お誕生日にはお祝いしなきゃ」

「ありがとうございます、そのお気持ちが嬉しいです」


 朗らかに笑う純玲は私の言葉を全く信じていないようだった。

 その表情を見て、実際に何かお祝いをして驚かせたい、と思った。


 純玲の運転はスムーズで、余裕を持って本教室に着くことができた。

 礼を言って車を降りようとすると、「これからもいつでも送りますよ」と純玲が微笑み、真弥と果弥が手を振ってくれた。


 そして実際に、レッスン後私が急いで本教室に戻る必要がある時に限り、純玲の車で送ってもらうようになった。



 6月、本教室の発表会当日。

 朝から髪を結い上げた生徒達が市民文化ホール控え室に集合し、まずは通常のレオタードに着替えてストレッチを行い、続いて楽屋で順番にメイクを施す。

 全員が終わったら本番衣装に着替えて舞台でリハーサル、戻ってくると衣装を汚さないようにまたレオタードに着替えて控え室でレッスン。

 時間を見て本番用のタイツに着替えさせ、シューズのリボンがほどけないように縫い付けていく。

 合間に自分のヘアメイクを行い、「眠れる森の美女」のリハーサルに参加する。舞踏会のシーンにはキッズ、ジュニアクラスも出るので係の母達が連れてくる子ども達を舞台袖で待ち構え、ステージへと送り出す。

 立ち位置などを再確認して舞台袖で生徒達に指示しているうちに客席が開場となった。

 

 ──純玲と真弥はどこに座っただろうか。

 一瞬そんな思いがよぎったが、慌ただしさと緊張感に流されていった。


 ブザーと共に重たい幕が開く。

 客席のざわめきが降りていく闇に吸い込まれていく。


 本番のステージが好きだ。

 太陽をいくつも散りばめたような目映いライトの向こうの客席は漆黒に沈む。会場全体に降り注ぐように鳴り響く楽曲に合わせ、この日まで積み重ねてきたダンスを踊る。跳躍し着地するたびに重力を確かに感じるのに、まるで宙を浮いているような高揚感。

 たとえ自分がパ・ド・ドゥを踊る主役でなくても、熱い視線や鳴り止まない拍手が自分に向けられたものではなくても、煌びやかな舞台の一員として踊るのはこの上ない幸せだった。私もバレエダンサーなのだと心から酔える魔法の時間。

 永遠にライトと音楽の中で踊っていられたらいいのにといつも願う。


 だがプログラム通りにフィナーレはやってくる。

 出演者全員で手を繋ぎ礼をする中、舞台の幕が下り、魔法は解ける。

 後に残るのはバレエ講師であるというだけの、42歳の現実。


 ──この先何度舞台に出られるのだろう。


 衣装のままゲストダンサーや講師、生徒達と一緒に写真に収まり、生徒達からお礼の花束を受け取った。

 そこで魔法の残滓もおしまい。

 楽屋の鏡に映った自分の顔は、舞台用メイクがすっかり乾燥し皺に入り込み、普段よりずっと年を取って見えた。

 メイクを落とし、回収した生徒達の衣装のアイテムが揃っているか確認して係に渡し、押し寄せる疲労の中、楽屋を片付けてから受付に回ると、観客達が届けた花やプレゼントが出演者の名前ごとに並べられていた。


 代表の明美先生や紗江子先生、主役級のダンサー達への花や風船などが面積を占める中、一応自分の名前をチェックすると、ベテラン生徒の名前でアレンジメントと、もう一つ、私の衣装と同じブルー系統の花でまとめられたアレンジメントに純玲と真弥の名前があった。習い始めたばかりの生徒から花をもらうことなど全く予想しなかったので、驚きながら添えられていたカードに目を走らせる。

 フラワーショップで印刷したらしい『徳井美乃里先生へ 高梨純玲・真弥より』というメッセージの下に、女性らしい文字でこう書かれていた。


<美乃里先生が誰よりも綺麗でした。美乃里先生から目が離せませんでした>


 ――心臓が、経験したことのない速さで高鳴っていた。


                               (続く)

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