第32話 哲学的なエピローグ
水族館の仕事を終えて壮介がアパートの部屋の前まで帰ってくると、中に人の気配がある。ドアノブを握ると、そのまま回せる。鍵が開いていた。そっと開けると、ソファでくつろぎながらテレビを見ているあずみがいた。
「あずみ、連絡してからこいな」
警戒を解く。
「ごめん。めんどくさかった」
テレビから顔をはなさない。なにか面白いことやっているのか。バッグを定位置に置く。
「めんどくさいって。大人なんだから、しっかりしろ」
「旅行先で足止め食っちゃって。向こうでひと仕事してきた。あー、疲れた。我が家がやっぱり一番だね」
「お前の家はもう少し先だろ」
疲れたアピールをしてソファからどかないつもりだ。ふと、壮介に顔を向ける。
「あ、音楽かけて。派手目のやつ」
あずみはリモコンを操作してテレビの電源を切った。
「はいはい。仕事して疲れて帰ってきたお兄ちゃんに言う言葉がこれだもんな」
素直にオーディオの電源を入れて、音楽を再生する。いつもなら壮介が音楽をかけると消せというのに。派手目というリクエストに応えてヘヴィメタルにしてやった。オジーのファーストだ。あずみの視線はすでにケータイに移っている。ちっ、反応なしか。壮介はキッチンで麦茶を一口飲んだ。
「芸大の事件はこの間終わったから、首突っこまないでくれ」
「沙莉ちゃんか」
「まあな。もう会うこともないと思うけど」
あずみが振り向く。
「うん、わかった。でも、泣きそうな顔してるよ」
「情が移ったかな」
「好きだったって、素直に言えないのかね」
「素直になるには、年とりすぎたんだろ」
「臆病なだけだよ。やっぱり素直になれないんだって、残念だね」
あずみの視線をたどると、泣きそうな顔の相内さんが玄関に立っていた。あずみにしてやられた。そりゃそうだよなと気づいた。
相内さんと並んで海の堤防の上を歩く。水色の空にピンクに染まった雲が浮かんでいる。
「まずは、合鍵返してください」
「あれ、気づいてました?」
「太田に送り出すとき、返してもらうの忘れてたんですね」
「ドジですね。何度も」
「二回目です」
相内さんが合鍵を壮介の差しだした手のひらにのせた。歩みを再開する。
「こっちにもどるの早かったですね。一週間くらいしか帰省してないじゃないですか」
「実家にいてもすることないので。親は仕事だし」
「そうですか」
「でも、よろこんでくれました。去年は帰らなかったので」
世の学生は帰省しないと仕送りがもらえないものだと思っていた。
「笹井さん、いろいろ誤解したり知らなかったりしてましたよ」
「その節は、どうも」
「降谷さんの死因を知りたがりました」
「咲名ちゃんが原因だって言いたくなかった」
「やっぱり。いろいろ考えられてるなと感心しました」
壮介は空を見上げる。もう水色から群青色にかわってゆく。
「おれに嘘つきましたか?」
「つきませんよ」
「本番のクジラ、彼女に渡ってるっていいましたよ」
「ちがうんですか」
「そうですか」
なるほど。笹井さんが彼女だってことを隠しただけで、嘘はついてないと。絵のモデルの件は、追及しても無駄だ。
「今日はなにしにきたんですか?鍵を返しに?」
「あずみさんに帰ってくるって聞いたので」
あいつ。
「ラインですか」
「そうですよ。若者の通信手段」
さっき相内さんが姿をあらわすときにも、あずみは買い物にでも出かけていた相内さんとラインをやっていたにちがいない。
『いまどこ?』
『アパートにつきます』
『鍵あけてはいってきて』
壮介は容易に想像できる。
「もうこないと思ってましたよ」
「そんなわけないじゃないですか。ふん、残念でしたね」
「くるなって意味じゃないですよ」
「当たり前です」
「いつでもきていいって言っちゃったんでしたっけ」
言った覚えがなかったけど、そういったと以前の相内さんは主張した。
「そんなの、取り消せばいいだけです」
「取り消せるの?」
「もちろん。拒否されてるのに、ずうずうしくやってくるような真似はプライドが許しません。どうしますか?」
ケータイが鳴った。メールの着信を知らせるメロディだ。壮介はケータイを取り出してメールを確認する。あずみから、おいしい肉を買って帰れという指令だった。
「肉を買って帰らなくちゃ」
「センスのいいストラップつけてますね」
「ダメですね、男って」
ケータイを振って、ストラップを躍らせた。美作さんの話題は、話すのを思いとどまった。きっと相内さんはいい気がしないはずだ。
「それが答えだと思っていいんですか」
「いや、保留で。でも、おれ全部わかってますよ」
「知ってます」
「なんでですか?大胆すぎじゃないですか」
「警察に嘘ついて、わたしをかばってくれたじゃないですか。警戒する必要ありません」
「あれは、お互い面倒が省けて最善の方法だったと自負してますが、気が変わるかも」
「もう手遅れです。それに」
「それに?」
「それに、わたしがいなかったら寂しいでしょ?」
「なかなかの自信ですね」
「芸術家はみんな自信家です」
「寂しかったですよ」
「本当に?」
素直に認めていいものかどうか。
先が怖い。
保留、ということにしたい。
シケてましたと逃げる手を思いついた。
でも、まあ、人生には諦めや、流れに身を任せることが必要なときもある。
「はい」
「その、恐ろしいほどの間はなんだったんですか」
「哲学的な思索の時間です」
国立水族館ペンギン担当 九乃カナ @kyuno-kana
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます