第31話 ペンギン担当の一日2

 昼休みの時間は、美作さんに合わせている。習慣みたいなもので、いまでも一緒に昼を食べにでかける。飼育員室の美作さんのデスクに誘いにいくか、いなければイルカのプールへ迎えに行く。イルカの世話をしている場面に遭遇することもある。そんなとき、美作さんが神々しく見える。イルカになりたいわけではない。

「久保田、元気ない?」

 店にはいって、イスに腰かけるところだ。

「そうかな」

 いろいろガンバってしまったから燃え尽き症候群かもしれない。

「絶滅危惧種の彼女となにかあった?」

「まあ、いろいろ」

 メニューを見て注文を思案する。店員が水とおしぼりを置いて注文をとって行った。

「相内さん、保護の必要がなくなって帰ったんだ」

「なんだ、それで会えなくてションボリか」

「そうなのかな」

「久保田が保護の必要ありになりそうだな」

「いや、まだ大丈夫です」

 壮介は手をつきだして手のひらを見せ、拒否した。

「女性恐怖症なん?」

「女性は、好きだと思うけど」

「あー。まえの失恋から立ち直れないんだ」

「ぐぅ」

「え、本当に?もう三年か四年たったんじゃないの?」

 ちらと美作さんの顔を見ると、驚いたという顔をしていた。

「いやもっと、六七年かな」

「そんなの付き合ってた時間より長いでしょ」

「長いね」

「忘れられないの?」

「忘れるというのがどういう状況かわからない」

「そうだな。いま会ったら、ほかの同窓生と同じように接することができるかってことかな」

「無理かな」

「うへぇー。男ってやつは。女と違って引きずるっていうけど。まさにそれだね」

 美作さんに心の底からあきれられてしまった。

「面目ない」

「付きあえばいいんだよ。彼女ができれば、別れた女の存在が小さくなるよ」

「そうかもしれない」

「わたしと結婚する?」

 壮介は飲み込もうとしたグラスの水を吹き出した。鼻に水がまわって盛大にむせた。

「なななな、ななな」

「ああ、もう。動揺しすぎ」

 美作さんが壮介の顔やら手やら、テーブルやらにかかった水をおしぼりで吸い取ってくれる。

「うーん。正直、美作さんとうまくやっていける気がする」

「でしょう?」

「でも」

 いまはまだ。

「でもは言わないで」

 今度は美作さんが、手をつきだして拒否した。

「わかってるから。友達に男をダメにする女だっていわれてんの」

「美作さんには、強い人がいいんじゃないかな。ダメにされない」

 それかダメ男。

「ちょっと、そいつ連れてきて」

「ごめん。アテはない」

「じゃあ、今日から毎日腕立て百回、腹筋百回ね」

「そういう強さ?」

「ごめん冗談だから気にしないで。じつは、わたしも動揺してる」

 食事が届いた。食べ始める。

「久保田の前の彼女ってどんな子だったの」

「うーん。普通かな」

「ひどいな。引きずってる割には」

「はじめは付き合いたくて付き合いはじめたわけじゃないんだよね。なんとなく?そういえば、お互い告白らしきものなかったな。でもさ、二十四時間三百六十五日のほとんどの時間を一緒に過ごしてたから。それも四年くらい。人生の一番いい時期だったはずだし」

「特別な存在ってわけだ」

「一生一緒に過ごすんだと思ってた。別れるときは自分が半分死んだような感じだったな。なんか自分の中では一心同体みたいになってた。本当に死ぬかと思ったし」

「でも、彼女の方はそうは思ってなかったんだ」

「うん。おれに合わせるのが大変だったみたい」

「なるほどね。久保田が恋バナ聞かせてくれるのはじめてだな」

「あまり、みっともない話したくないからね」

「わたしには弱いところ見せてくれるんだ」

「結婚申し込まれたから」

「それは、あれだよ。まあ、冗談ではない」

 将来の可能性をちらっと思った。ダメ男か。

 あとは黙って食事した。

 飼育員室へもどって自席についたら、金子さんがコーヒーをもってきてくれた。

「なにシケたツラしてんだ」

「シケてますかね」

「じっとりジトジトだな」

 コーヒーにふうふうと息を吹きかける。

「さっきまで美女と食事してたんですけどね」

「美作だろ」

「美女です」

「うちのには負けるけどよ。同期だったか」

「そうです」

「フラれたのか」

「いや、普通に食事してるだけです。デートでは」

「じゃあ、芸大生か」

 なぜ核心に斬りこんでくるのか。すこしは気を効かせて遠慮したらどうなんだろうか。

「自覚はあまりないんですけどね」

「何の」

「シケていることと、それが相内さんにフラれたせいであること」

「完璧に図星じゃねえか」

「だったら、すこしはそっと見守るとかいう選択肢はないんですか」

「そういうデリカシーをもった人間は、飼育員にはいねえ」

「ですよね」

「とうとう男らしく告白したんかい」

「いえ、してないですね」

「なのにフラれたのか?フラれる以前の問題か」

 深く斬りこみすぎだ。恋の斬りこみ隊長に任命しよう。

「気がかわって告白したくなったら、おれに言え。どうにかして告白できるようにしてやっから」

 そんな腕力が金子さんにあったのか。ジェットコースター三百回の男は違う。大佐に昇格した方がよいかもしれない。

「はあ、ありがとうございます」

「なあに、お安い御用よ」

 本当かな。いまの一言で一気に嘘っぽくなった。

「金子さんは、どういうときに奥さんのこと好きだって思ったんですか」

「そりゃ、おめえ、存在に気づいたとき、顔を見たとき、声を聞いたとき、料理をもってきてくれたとき」

「ウエイトレスだったんでしたっけ」

「そうだ。とにかくどんなときも好きだーって心の中で叫んでたな」

「なるほど、それはわかりやすい」

「おめえだって、わかりやすいだろが」

「どこがですか」

「スケッチしてるところに自分から話しかけに行ってたじゃねえか」

「それは、一生懸命描いてるから気になっただけです」

「その、気になっただけっつうのが好きってことだろうが」

「そうなんですか、隊長」

「隊長?ああ、そうだ久保田二等兵」

 そうか。はじめから相内さんのことが好きだったのか。じゃあ、なんであんなに消極的だったのか。

 相内さんが積極的だったからか?

 歳が離れているからか?

 まだ二十歳だからか?

 自分が二十歳のときには同棲状態だったのに?

 考えてもよくわからない。

 いや、嘘だ。また女の子を好きになんかなりたくないのだ。ぐじぐじと過去を引きずって、二度と女の子を好きになれない自分でいたいのだ。

 コーヒーをグイと飲んだ。濃くて苦かった。これが男の人生か。


 終業のときが近い。

「おい。久保田」

 課長だ。

「はい。久保田です」

「なんだ、元気ないのか」

 課長まで。死相でも出ているのか。壮介は顔をさする。

「そんな風に見えます?」

「メシちゃんと食ってんのか?」

「そういえば、最近夕食が貧相かもしれません」

 ずっと相内さんがいいものを食べさせてくれていたのが元に戻っただけだ。

「それはいかん。いや、いいのか?夕食は軽くして朝昼ガッツリ食うのがいいっていうな」

「いいますね」

「生活はちゃんとしろよ?病気になってぶっ倒れたら大変だ。みんな心配するからな」

「そうですか?」

「久保田、この間ぶっ倒れておいてそれはないぞ」

「その節はご迷惑をおかけしました」

「みんな心配したんだぞ。迷惑は全部金子に押しつけたけどな」

「それは聞きました。金子さんが全部まかせろって言ってくれたそうで」

 やっぱり頼りになるのかもしれない。金子隊長。

「それで、用件なんだが」

「はい」

「南極の件、話は出しといたから」

「南極の件?なんでしたっけ」

「南極に行きたいっつってただろ」

「そんな話しましたね」

「日本と合同で調査隊編成してるのに、久保田も応募しておいた」

「なんですかそりゃあ。そんな話だったんですか。バカンスって」

「まあ、行けるかどうかはわからんけどな」

「はあ。ありがとうございます。で、いいのかな」

「そういうわけだ」

「はい、うけたまわりました」

 自分の知らないところで話が動き出していた。果報は寝て待て?いまの状況をどう言い表していいかわからない。


 水曜日、壮介の休日だ。バケツをもって海に出かける。クラゲのために海水を汲む。おじいさんは山へ柴刈りにみたいなものだ。週に一度水槽の水をかえている。用事があって海水を汲みに出かけられないときは、人工の海水を使う。海が近いのだから汲んでくれば経済的だ。

 堤防に腰かけて、紐を取手に縛りつけたバケツを海におろす。適当に紐をゆすっていると、海に浮かんだバケツが横向きになって水が入るようになる。バケツを引き上げて横に置く。

 関東平野が、だだっ広い遠浅の海になって目の前に広がっている。広大な墓場だ。砂が運ばれてきて、以前は舗装された道路だったり建物だったりした場所もわからなくなった。スカイツリーは倒壊したらしく、海面から一部が突きだしているということはない。

 多くの人が、直下型地震がくるとわかっていても普通に暮らしていた。みんな海に沈んだ。いまだに日本人の多くが、海に沈んでいった人たちと同じメンタルをもっている。日本はタイヘンらしい。本人たちに自覚はないかもしれないけど。独立したグンマの人は違うメンタルをもっている。日本とグンマでは、すでに異なる文化といっていい。グンマはまだ若い。元気がある。

 相内さんのことは、あれでよかったのだと思う。相内さんは若い。将来がある。これから多くの出会いがある。この二箇月ほどのこともいい思い出になるだろう。傷がのこるような深いかかわりはなかったと思う。

 自分のことだ。壮介は自分について考えたことはあまりなかった。金子さんは壮介がその気なら相内さんに告白させてやるなんて言っていた。相内さんとどうにかなりたいだろうか。そういう気持ちはある。でも、相内さんにとってそれがいいのかと考えてしまう。自分の気持ちをなかったことにする。

 だだっ広い海をまえにして、頭を垂れて考えごとに耽っていた。ジーンズにはいった縦縞をずっと眺めていた。愚かなことだ。なにも考えずに海を眺めるということができない人間になってしまった。

 立ち上がるとき、遊園地のフリーフォールとジェットコースターが目にはいった。心の傷を感じた。男の心はガラス細工のように繊細なのだ。

 帰って水槽の水を交換した。

 夜、餌をやってクラゲを眺めた。

 ふわりふわり。

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