君死にたもうことなかれ
[一時間後]
睡蓮の花が、沼を彩る。緑の浮き草に、桃色の花が添えられている。睡蓮は月光に照らし出される。夜闇の間に垣間見える花は幻想的な色を放つ。睡蓮の花は綺麗だ、みんな美しい花だけを見るから。誰も睡蓮の花の下にある、汚物まみれの泥は見ない。都合のいいように綺麗なところだけを切り取る。綺麗な花の宝石は、汚いドブがあるからその身を輝かせることができるのだ。桃色の睡蓮に一雫の赤い泥が塗られた。俺の腹から落ちた赤い液体が睡蓮畑にアクセントを与えた。
俺は痛みで膝から崩れ落ちる。猿は俺の傷口から手を引き抜くと、光の方を見た。
「さあ。ヒロイン様。こちらに」
「すぐに終わらせるから、待っていて」
光が心配そうに俺を見つめる。俺は痛みで何もできない。
光と猿は睡蓮の沼の中央で対峙している。お互い見つめ合い、覇気を投げかけ合う。音のない牽制があたりの空気を騒がせる。その沈黙を光が割いた。
「私は小説の悪役が大嫌い」
「どうしてですか?」
猿が不思議そうな顔をしてみせる。
「悪役さえいなければ、主人公とヒロインが苦しむことなんてないからよ」
「でも、悪役がいないと物語が成立しませんよ?」
「ええ。そうね。だから嫌いなのよ。物語の都合のためだけに設定される悪が!」
光の剣は、轟音を奏で始める。輝きを増して、沼を浚う。
「僕のことが嫌いか。でもいいんです。嫌われるのも悪役の仕事だから」
そして、猿は真の姿を現した。躯体はみるみる巨大になり、毛が針のように太くなる。武器のような針は艶と光沢を増す。月光が針に反射して、あちこちに反射光を飛ばす。周囲を駆け回った光のつぶては、水面をさらに跳ねた。月光の欠片が宙を泳いでいる。放たれた光線は激しい乱舞。優雅な光と、猿の体毛は互いに比例し合い高め合う。やがて猿の体は三メートルほどに膨らんだ。膨張した悪意が、殺意を振りまく。
猿の手からは、巨大な漆黒の鉤爪が反り返っている。人を切り裂く狂気は、一撃で首を切断できそうだ。きっとこれで、伝説の剣士の首を刎ねたのだろう。鈍重な刃には黒い血がこびりついている。乾いた血は、黒い刃にその身を隠す。黒に黒が重なり、その色をより一層濃いものに変えた。
猿の体が膨張するに従って、光の目線は上へと滑る。互いに睨みを効かせながら、隙を伺っている。光の持っている剣は溢れる輝きを留めきれなくなっている。剣はもうほとんど透明に近い色をしている。黒い夜の闇とその中に浮かぶ睡蓮が、剣と透過して見えている。やがて、剣は液体となった。液体となった剣は光の手から泥の中に溢れた。飛沫と水音が舞っている。
「勝ってくれ。光」
そして、俺は痛みで気を失った。
[一時間前]
「あなたたちにお話があります」
「え? 猿が喋った?」
光が目を丸くして驚いている。
「話ってなんだ?」
俺は、驚きを押し殺して猿に問いかけた。
「移動しながら話しましょう」
猿はそう言うと、城の大広間の中心を叩いた。すると、床が動いて隠し通路が現れた。俺たちは城の一番下に飛び降りて城外に出た。夜の森の中を、主人公とヒロインと一匹の猿が闊歩する。歩きながら猿が、口を開いた。
「このエリアに足を踏み入れてから急に強くなりましたね?」
「ええ。それがどうかしたの?」
「あれはあなたに活躍の機会を作るためです。ここではヒロインさんにメインで活躍してもらいます」
猿の言葉は俺たちを困惑の海に迷い込ませた。
「どういう意味?」
「ここではあなたが主役です。水の都では女の子にサインをねだられましたよね?」
「ああ、確かに。あの時、俺のサインは無視して光のだけもらっていった子がいたな。さやかちゃんだったかな?」
今、思い出してもすごく残念な気分になる。
「あれは、あなたがこれから活躍するぞ。という兆候です。これからこの小説はヒロインメインのパートに入ります。主人公ではなくあなたの勇姿を作者が描きます」
森の中を歩くたびに、不穏な葉音があちこちから聞こえてくる。
「小説が完結したと思ったら、次はヒロインの話か! 作者も、もういい加減完結させてくれよな。これじゃ登場人物も疲れるよ。一体いつまでこの物語を続ける気なんだよ!」
スピンオフで金儲けをしようとしている魂胆が見え見えだ!
「着きました」
俺たちは幻想的な場所に来た。綺麗な睡蓮が先ほどの凄惨な惨劇を忘れさせてくれる。だがその一方で、俺の目にはこの睡蓮畑が嫌に不気味に映った。
「ここは?」
「新エリアです。同じような場所でずっと戦闘をしていると読者が飽きるので場所を変える必要がありました」
猿の黒い目が怪しく光る。吸い込まれそうな瞳、その瞳がまっすぐに俺の姿を捉えている。
「やはり俺たちと、戦うのか?」
「ええ。どちらかが死ぬまで殺し合います」
やはり、と言ったところだろうか。だがこの戦闘は避けられない。スピンオフの物語を描き切るまで俺たちの戦いは終わらない。
「あの伝説の剣士はどうして殺したの?」
「小説のバランスが崩れるから殺しました。それが作者の意志です。未回収の伏線は、回収されずに終わります」
「何? 伏線の回収をするんじゃないのか?」
「いいえ。作者は伏線を完全に放置することにしたようです」
「伏線の放置? 何を考えているんだ! そんなことをしたら、作品の質が下がる! 荒い脚本は読者に不信感を与え、物語をチープなものにする」
「そうよ! 適当に執筆なんかしたら打ち切りになっちゃうわよ!」
「そんなことを僕に言われても困ります。そして、そろそろ戦いましょう。あまり説明を長引かせると読者が退屈します」
俺は生唾を飲み込んだ。場の空気が一気に変わる。重く粘つく空気が俺の肌にまとわりついてくる。
「主人公さん。今からあなたに攻撃します。この攻撃は躱せません。物語の都合上、ヒロイン様が一人で戦うシーンが欲しいのです。よろしいですね?」
俺は光の方を見た。光が頷く。俺は覚悟を決めた。俺は目を閉じた。黒い世界がまぶたに浮かぶ。まぶたの裏に浮かんだのは、虚無の空間。こうしていれば現実と向き合わなくて済む。そして、俺の体に電流が走った。脳髄を通り過ぎ、痛みが全身に伝播する。脳が沸騰する。体が痙攣する。俺はもう一度目を開けた。俺の胸に猿が手を突っ込んでいる。そこは、元いた色とりどりの世界だった。虚無の空間は痛みによって消えて無くなった。
「心配しないでください。この攻撃であなたは死にません。主人公補正が働きます」
俺は痛みで膝から崩れ落ちる。猿は俺の傷口から手を引き抜くと、光の方を見た。
「さあ。ヒロイン様。こちらに」
「すぐに終わらせるから、待っていて」
そして、俺は痛みで気絶した。再び真っ暗な世界に足を踏み入れた。
[ヒロインメインパート ヒロイン視点]
私は剣を液体に変えて、水の中に溶かした。剣は水の中を泳ぐ。月光が水の中を明るく照らす。私が足を動かすたびに水面は揺れる。揺れた水面が水の中の世界を歪ませる。
私は水中の剣を泥とともに持ち上げた。液体となった剣と泥が空気に汚い模様を描く。私はそれらを回転させる。巻き起こる渦は悲鳴をあげる。泥と剣の濁流が空に向かって立ち上る。トルネードとなった濁流は猿に向かって矛のように伸びた。
「私がこの小説のヒロインよ! ヒロインは絶対に悪に屈しない。どんな時も主人公を支えるの! こんなところで負けるわけにはいかない!」
液体の矛は猿の体に当たった。派手な音を立てて水しぶきが空気を濡らす。
「その意気です。ですがまだ僕には勝てません」
猿の体には傷一つついていなかった。代わりに猿の全身から突き出ている棘が輝きを増している。猿の棘は大小さまざまな形をしている。大きい棘も小さい棘も月光を砕いて、光の破片を空気に混ぜる。
「一撃で終わったらここまで読んでくれた読者に申し訳が立たないでしょう?」
猿の棘が音を立ててざわめきだす。夜が震えている。まるで猿に怯えているようだ。猿の棘が透明になっていく。棘が蠢きだす。そして、猿の体が勢いよく縮んだ。もうそこに猿の姿はなかった。代わりに一人の人間がいた。その人間は私に黒く光る殺意を飛ばす。
「気をぬくと、本気で殺すぞ!」
その人物は、伝説の剣士は、私に向かって走ってきた。
「あなた、伝説の剣士だったのっ?」
私は動揺しつつ、相手の剣を往なした。派手な音が火花とともに飛び散った。音は水面を揺らし、火花は水に溶けて消えた。
「誰でもいいだろっ! 俺はこのシーンでのお前の敵だ! お前の大嫌いな悪役なんだよっ!」
伝説の剣士は、剛撃の蓮撃を叩きつける。銀の剣が私の武器とその身を重ねる。熾烈でどう猛な連続攻撃は、私の体にいくつもの切れ込みを入れた。血流は私の肌を引き裂いて、体表を滑る。零れ落ちた血は、泥の上に赤い模様を描く。
「なぜ私たちの敵になったのっ?」
私は攻撃を弾く。伝説の剣士は大ぶりの攻撃を叩きつける。大きくしなる剣筋は、巨大なアーチを空に描いた。
「さっさと反撃をしてこい!」
剣と剣がぶつかり合うたびに火花が生まれる。黄色い閃光、赤い光、オレンジの灯り、それらすべてが綺麗な夜景を生み出す。遠くから見ればまるで綺麗な花火のようだ。
「攻撃をやめて! もうこの物語は完結したのよ!」
「いや、ダメだ。まだこの物語は終わってなどいない。作者がそう決めたんだ。俺たち登場人物はまだ戦わないといけない」
伝説の剣士は、少し私と距離をとった。明らかに優勢だったのに、あえて私から距離をとった。ということは近距離では、自分も巻き込まれてしまうような攻撃をするつもりだ。
伝説の剣士の攻撃。私は彼が何をするつもりなのかわかった。わかったところで勝てるかどうかわからない。だけどやるしかない。私はこの小説のヒロイン。逃げるという選択肢も、負けるという選択肢もない。ヒロインは主人公を支えて、助ける。私がいるから主人公は戦ってくれる。
「みんなヒロインが死ぬところを見たいんだ!」
伝説の剣士は、力を溜めている。
「何っ?」
「ヒロインの役割は、主人公を支えるだけじゃない。主人公の前で死ぬということもヒロインの役割の一つだ!」
彼の剣が大きく胎動を始めた。
「何を言っているっ! ヒロインは死んだりしない! 最後まで諦めない!」
「ヒロインが主人公の目の前で死ぬことによって、主人公にさらなる力を与える。ヒロインは物語のおまけなんだよ! 生きていなくても物語は進む! ヒロインが死んで完結する物語だってあるんだ!」
彼の剣は鼓動に合わせて、巨大化する。天に高くそびえる剣は、今にも月に届きそうだ。
「お前が死んでこの物語は完結するんだ!」
彼の剣は醜く汚れている。汚れた聖剣は、夜の闇を吸収して黒ずんでいる。巨大な剣は鈍く輝き、睡蓮の沼をその体に写し取っている。綺麗な桃色の睡蓮が泣いているように見えた。
「さあ! 諦めて死ねっ!」
伝説の剣士は剣を私に向かって勢いよく叩きつけた。伝説の剣士が放つ悪意の斬撃は、空気を切り裂いて私の方に向かってきた。その瞬間、風の流れる方向が変わった。雲がちぎれて、夜の景色を変えた。残光がまばらになって夜を飛ぶ。そして、黒の斬撃は私の体を引き裂いた。
「死んだか?」
伝説の剣士がつぶやく。そして、少しずつ雲が消えていく。雲の切れ目から私の躯体が露わになる。私の体には、亀裂が走っている。体の中央から少し右にずれた箇所にまっすぐな裂傷を縦に負った。赤い亀裂から、滴る水滴は、泥の中に溶けていった。私の口からこぼれる吐息は荒い音をたてた。
「流石はヒロイン。これくらいじゃ死なないか」
伝説の剣士がそういうと、彼の姿が揺らめき始めた。彼の体表の下に何かがいるみたいだ。皮膚が凹んだり尖ったりし始めた。緩急をつけてさざ波が生まれる。彼の体がうねりをあげて蠢いている。まるで皮膚のすぐ下に寄生虫を飼っているみたいだ。
「何をするつもりだ?」
伝説の剣士はその姿を変えた。一人の見覚えのある女性が出てきた。その手には先ほど伝説の剣士が持っている武器が握られている。
「久しぶりね。元気にしていた?」
女性は私に声をかける。その声は聞き覚えのあるものだった。
「お母さん?」
私はその女性に声をかけた。
「ええ。私よ。母さんに我が子の顔をもっとよく見せてちょうだい」
女性はこちらに向かって歩を進める。
おかしい。私の母親は、この物語にほとんど登場しない。娘を送り出すと、あとはずっと自宅で待機しているはずだ。スピンオフの世界だから詳細に私の過去を描きたいのだろうか? 一体何が目的だ。
「お前は一体誰だ?」
私は問いを投げかけた。
「私はあなたの母親よ」
女性はこちらになおも近づいてくる。
「止まれ! なぜ私のお母さんがここにいるの? 絶対におかしい」
「そんなことどうだっていいじゃない。それに父さんだってここにいるわよ。ちょっと、あなた? 出てきて、娘の顔くらい見ていきなさい」
女性は何もいない空間に向かって喋りかけた。
「なんだって? 光が帰ってきたのか?」
なんと、その女性が男性の口調で喋り出したのだ。戸惑う私をよそに、女性の姿が揺らぎ始めた。皮膚に波が立ち、体が揺れる。歪んだ体型が私のことを戸惑わせる。明らかに人の体ではない。一体なんなのよ、こいつは? 何がしたいのよ?
その生物は、歪んだ体を整え始めた。
「ちょっと待ってなー。今行くから!」
完全に男性の低い声になった。
体は次第に人の体になってきた。背が高くなり、逞しくなる。そして、一人の男性の体になった。
「今度はお父さんの姿か? 一体お前は何をしたい?」
私はそいつに話しかけた。
「何って? これが俺の役割だ。俺だってこんなことをしたくない」
そいつは、お父さんは私のそばに来ると私のことをそっと抱きしめた。優しくて暖かい。いつかお父さんに抱っこされたことを思い出す。うんと小さかった時、こうやって私のことを守ってくれた。頭の中に美しい音色が響く。家族は私の心の依り代。ヒロインという立場は辛い。メインキャラクターとなって悪と戦わないといけない。逃げることは許されない。それを支えてくれるのは周囲の人間だ。守りたい人がいるから私は戦える。そして、誰かのために戦う姿勢は、読者に勇気と感動を渡す。私は父親の思い出を心に満たした。久遠の時を遡る。優しかった父親、私のことを愛してくれる。私の心の中を清々しい風が駆け抜けた。そして、私は父親の胸に剣を突き立てた。
「あなたの能力は、殺した人間の姿を奪い取る能力なのね」
私は絶望的な真実を口にした。悲しみが頬からこぼれ落ちる。青い水滴は沼に溶けて、泥を掻き回す。
剣を引き抜くと、そいつは数歩下がった。
「ああ。その通りだ」
「なぜ私の両親を殺したの?」
震える声が喉から絞り出される。熱くなる心と対照的に、心は真っ青に冷え切っている。赤と青が織りなす感情の乱舞は私の心を不気味に飾った。
「作者がいらないと判断したんだ。ヒロインの両親はほとんど使われていない設定になった。だから物語をより良くするために俺に殺させたんだ」
そいつは、私の父親の姿から元の巨大な猿の姿に戻った。身体中から鋭利な棘が飛び出ている。手から不気味に伸びる鉤爪は黒い血がこびりついている。それが誰の血なのか、私は想像してしまった。
「そんなことのために、私から両親を奪ったの?」
私の口から悲しみがこぼれ落ちる。苦痛は睡蓮の花の隙間を通った。水中を進み、やがてドブと一体となった。
「そうだ。小説の脚本とはそういうものだ。血の繋がったもの死を目の前に叩きつけることで盛り上がるのだ。読者はみんなそれが見たいんだ」
巨大な猿は大きく振りかぶった。轟音と共に鉤爪が振り下ろされる。鉤爪から繰り出される黒い光が夜の闇を切り裂いた。そして、鉤爪の攻撃は私の前で止まった。
「何をしている? ここで諦めるのか? ヒロインだろ?」
私は抵抗をやめた。私の体の横には力のない腕がだらりと垂れている。
「ダメだ! ダメだ! ダメだ! そんなことは許されない! お前はこの小説のヒロインだ! こんなところで諦めてはいけない!」
ここで自ら悪に殺される。それが私の精一杯の抵抗。私は黙り込んで俯いた。
「あの女の子を思い出せ! お前にサインをねだりにきた子だ!」
猿は頭を抱えて、苦悶する。
「あの女の子は君のことを信じている! あの女の子は、もう死ぬ。残りわずかな寿命で、死ぬ前に最後に自分の中の憧れの存在であるあなたに会いたかったんだ」
「私はあの子なんて知らない。サインを書いただけなの。私には何の関係もないわ」
私はヒロインであることを放棄するような台詞を言ってしまった。読者であるあなたは、私に対して少しだけ嫌悪感を抱いた。
「いや! ダメだ。お前はあの子にとってヒーローなんだ! 小説の途上人物は誰かにとってのヒーローだ!」
この猿は私に一体何を求めているのだろう? 私はわからなくなってきた。
「今も読者が君の活躍を見ている! 君には諦めない義務がある。君は戦わないといけないんだ! 君はあの女の子の生きる希望なんだ! あの女の子は君の背中を追っているんだ! 小説の登場人物は、誰かの目標になっている。君は気づいていないかもしれないけど、小説は読んでくれる人に希望を与えるんだ」
私は剣を構えた。
「やっと戦う気になったか? さあ! 来い! 俺を殺せ!」
そして、私はその剣を自分の喉に突き立てた。
剣はその瞬間、タイミングよく砕けて沼の泥に沈んだ。私の手には、半分になった剣が留まっている。
「なにっ? 自殺なんてできるわけがないだろ! ここで君が死ぬという脚本ではないんだ! お願いだ! 諦めないでくれ」
私は、諦めた。私は半分に折れた剣で、手首を切ろうとした。だが手首に傷なんてつかない。死ねないようになっているのだ。登場人物に自刃する権利などないのだ。
「やめろっ!」
猿が私の右手を掴んだ。
「君はここでは死なない。ここで死ぬのは俺だ。これはもう作者によって決められたことなんだ」
そういうと、猿は右手を自分の胸に突き立てた。鋭い鉤爪が猿の体の中を泳ぐ。傷口から大量の血液が流れ出る。血液の滝は激しい音を立てて、沼に吸い込まれる。池に浮かぶ睡蓮は幻想的でとても華やかに見えた。
「お願いだ。何があっても君は諦めないでくれ。あなたは俺の、いえ、私のヒーローなのよ」
猿は、右手で心臓を引きずり出した。絡まった血管が体内に続いている。脈打つ心臓は最後の輝きを放っている。まるで消える前の花火のようだ。一瞬の刹那にそれに消える花火。それは生物の死を暗示しているように綺麗だった。
猿は、掴んだ私の右手を思いっきりひねった。私の右手の剣を自らの心臓に突き刺した。まるで私が、自分の意思で猿を殺したようだった。
「まさか、この俺が負けるとはな。敵ながら天晴だ」
悪役が死ぬ時の台詞のようなものを言うと、猿は沼にその身を沈めた。猿の姿はみるみる変化していく。微睡むその姿は、水に溶ける。揺らめき、煌めき、別の人間の姿に変わっていく。そして、猿は真の姿を取り戻した。
「あなただったのね? 自分のことを言っていたのね」
その猿は、サインをもらいにきた少女の姿に戻った。少女は力なく頷いた。きっと戦いたくなかったのだろう。私は自刃した自分のファンに手を触れた。死体からは温度が消えていく。彼女の体温はそっと泥の中に溶けていった。
「作者がスピンオフなんて作らなければこんなことにならなかったのにね」
私はそっと、少女に話しかけた。もうこの少女は助からない。ここで死ぬのだ。そういう脚本なのだ。
少女は最後の力を振り絞って私の方を見た。
「スピンオフ? スピンオフなんてこの小説にはありません」
そして、少女はドブの中に沈んでいった。その姿はまるで枯れた睡蓮のように綺麗で、残酷だった。
[沼のほとり しばらく後]
綺麗な星々の煌めきが夜空の黒に色を付け加える。夜空は綺麗だ。昼の空とはまた違う顔を私たちに見せる。黒い空は鈍重な漆黒の塊。今にも私の上に落ちてきそう。私の小さな体を押しつぶしてぺしゃんこにしてくれる。そうなればどれだけ楽なのだろうか。
その時だった。そばにあった焚き火の中で何かが弾けた。空気を切り裂くような鋭い音が鼓膜に刺さる。私は、焚き火の方を見た。この黒い夜の世界でこの燃える炎が最も目立っている。黒い煙が空に落ちていく。煤と灰の焼けこげた臭いが鼻につく。私はこの匂いが好きだ。血と悲しみの匂いを感じなくさせてくれるから。
不意に風が強くなる。タオル一枚しか纏っていない今の私にはとても寒い。鋭い冷気がタオルの中まで入ってきて私の体を舐め回す。冷気に切り刻まれて私は、身をより一層縮めた。震える体は泣いているようだ。
そして、震える体に上着がそっとかけられた。
「眠れないのか?」
「ええ。上着ありがとう。ユウ」
「震えている女の子に上着をかけるのは主人公の役目だからな」
ユウは作ったような笑顔を見せた。きっと私のことを心配して眠れないのだろう。ユウはこの物語の主人公。だから、困った女の子を放ってはおけない。
「そうね。ちゃんと主人公できているわよ」
「ヒロインも大変だな、事あるごとに脱がされて」
ユウは冗談めいたことを言った。きっと雰囲気を変えたいのだろう。そんな彼の気遣いが私にとってすごく心地のいいものだった。
私の服は、沼の泥と血で汚れたから洗って干してある。だからタオル一枚なのだ。ちなみにユウの服はすぐに乾いた。怪我もすぐに完治した。きっと男性のサービスシーンなんて誰も得しないからね。羨ましいわ。
「そうね。でもこの小説ではマシな方なんじゃない。他の小説だと揉まれたり、触られたりするのよ?」
「そうか。ヒロインは大変だな。主人公でよかったよ」
「この小説の読者は大半が十代の男性だからしょうがないわよ」
「ならもっと過激にしたほうがいいんじゃないのか?」
「そしたら今度は発禁になっちゃうわよ」
明らかにさっきより雰囲気が和やかになった。猿との死闘の話をユウにしたら、ユウは黙って聞いてくれた。彼は主人公としての責務を立派に果たしている。困っている人のことを自分のことのように心配してくれる。責任感があって、正義感に溢れている。誰もが求めるヒーロー像。それが今の彼。この小説の主人公であるユウ。
それに比べて私は一体何? さっきの戦いでは、戦いを放棄した。あろうことか自分を傷つけようとした。そして、それを敵キャラクターに救われてしまった。私はヒロイン失格だ。こんな重役勤まりっこない。
私の自滅的な言動は、読者であるあなたを少しがっかりさせた。
「ねえ。私、ちゃんとヒロインの仕事をできているのかな?」
気づいたら、口から本音が溢れでた。震える声が冷たい空気をより一層凍らせる。お願い! 私に優しい言葉をかけて! 君は立派なヒロインだと言って! 嘘でもいいから。
そして、ユウは口を開いた、優しく私の目を見つめて。
「わからない」
彼の台詞は、私が求めるものとは随分と違った。
「そう」
私は少しがっかりした。
「でも、今は光がこの小説のヒロインだ。君以外いない。俺は君がいないと戦えない」
「いかにも主人公って感じの台詞ね!」
そして、しばらくの間沈黙が流れた。風が木々を撫でる音が響く。爽やかな自然の音が夜空にアクセントを与える。楽器が奏でる美しい音色とはまた違う心地のいい音だった。
「ねえ。私ヒロインなんて本当はやりたくないのよ。本当の私は、強くないし、戦いたくないの。とてもじゃないけどヒロインなんて柄じゃないの」
私は胸の内に抱える不安を吐露した。口から吐き出された不安は空気を泳いでユウに届いた。
「そうだな。光はあんまり強くないし、戦いが好きじゃない。ヒロインなんて柄じゃない」
ユウははっきりと私に言った。本当は否定して欲しかったけど、主人公だから嘘をつきたくないのだろう。私の心にほんの少し影が過った。
ユウは私の頭に手をそっと当てた。
「俺だってそうだ」
彼の口から出た台詞は思ってもいないものだった。
「俺もあんまり強くないし、本当は戦いたくない。主人公なんて大役俺に勤まりっこないよ。だから俺と一緒に戦ってくれ」
「仕方がないわね」
胸の中がもどかしい気持ちでいっぱいになった。目からこぼれそうになる液体を必死で瞳の中に押し留めた。
「さ、そろそろ小説の視点を俺の視点に戻すぞ? ヒロインの活躍パートは終わりだ」
「うん! また明日から一緒に頑張りましょう!」
私は精一杯の笑顔をユウにあげた。ちゃんと彼に届いただろうか? 私には知るすべがない。
夜の風は、さっきまでと違って少しだけ暖かく優しいものに感じた。
[主人公視点]
『うん! また明日から一緒に頑張りましょう!』
彼女は精一杯の笑顔を俺に向けた。戦いで身も心をすり減らしているのに、俺のことを気遣ってくれている。君の笑顔はしっかりと俺に届いている。
今なら聞けるような気がする、この物語の冒頭から俺の胸の中にあるアレを!
「君に聞きたいことがあるんだ!」
「何?」
俺は勇気を振り絞った。口を開きかけたその時だった。光は俺の腰に備えている剣を引き抜いた。そして、思いっきりそれを振りかぶった。
「誰っ?」
疑問とともに剣は俺の背後に飛んだ。まるで剣に疑問を乗せて飛ばしたみたいだ。
「少年よ! 力が欲しいか?」
光の疑問は疑問で返された。その疑問は新たな疑問を生み出した。こいつは一体誰だ? 俺と光の目の前に現れたのは一人の少年だった。フードを目元までかぶっていて顔は判別できない。戸惑う俺にそいつは再び疑問を投げかける。
「もう一度聞こう。少年よ。力が欲しいか?」
「力? なんの話だ? お前は一体誰だ? 答えろ!」
俺は語気を強めた。風が揺れた。夜の森は不気味に轟く。
「力はいらぬと申すか。ふむ。まあよかろう。私の正体はいずれ分かる」
仙人のような喋り方をする少年は言った。台詞の内容と口調がかみ合っていない。不自然な調和は、少年をより謎めいた存在にした。
「何が目的だ? ここで子供が何をしている?」
おかしい。こんなところに子供がいるわけなんてない。
「お主たちに会いに来たのじゃ」
「俺たちに会ってどうする?」
「この物語の主人公の顔を一目見ておきたくての。それより、もう一度聞くぞ。力が欲しいか?」
「力なんていらない。子供はさっさと帰れ! ここは危険だ!」
俺は少年に詰め寄った。少年に近寄ると、少年は反対側が透けるくらい半透明だった。
「力はいらぬと申すか。それも良い」
そういうと、少年はゆっくりと夜の闇に消えていった。
[翌日]
俺たちは沼で一夜を過ごした。昨晩はほとんど眠れなかった。交代で見張りを立てたが何も起こらなかった。ただただ疲労だけが蓄積していった。液体になった疲労が空の容器を満たしていく。俺たちの体は疲労で一杯になった。
「確かこのまま道なりに進めばエリア五ってとこに着くんだよな?」
俺たちは泥道をゆっくりと進んでいく。泥には二人分の足跡が浮かび上がる。深く刻まれた靴の跡は、二人きりの旅の孤独さを強調している。
「ええ。そのはずよ。でもエリア五なんてこの物語に存在したかしら?」
「俺の知る限りでは、そんな場所はないはずだ」
その時だった。突如、光が頭を抑え込む。泥に刻まれた足跡は、ここで一時停止を迎える。
「痛いっ! 頭が割れるっ!」
「どうした? 戦闘の傷か?」
慌てた俺は、光の側に行く。俺の靴は泥に不規則な足跡を描いた。
「いいえ。作者が説明口調で説明しろって言ってきたわ。私に青竜伝説が何か聞いて!」
光は頭を両手で抱えながら言った。必死の表情から頭の中を賑わす苦痛が目に見える。
「わかった。青竜伝説? なんだそれ?」
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