ここからは私(ヒロイン)メインパートが始まるわよ! みてね!


[ヒロインメインパート ヒロイン視点]

私は声を大きく張り上げる。ただでさえ足りない水分が体から消えていく。さっきまで迸る熱に全身を焼かれていた。熱せられた砂の海でひたすら歩いていた。だけど今は全身を夥しい冷気の粒が舐め回す。

「後ろよ! 後ろに誰かいる! 気づいて!」

私の声は、熱砂の中を泳いでいく。虚しく空に吸い込まれる。だけど私はかまわず声を荒げる。

「ユウ! あなたの後ろに誰かがいる! なんで聞こえないのっ!」

だだっ広い砂漠の真ん中で、私は喉を震わせる。喉から発せられた音の波は、砂に弾き返されて私の耳に刺さる。

「う! し! ろ!」

お願い! 早く気づいて! 誰かがあなたの背後から近寄ってきている!

「う! し! ろ!」

ようやく私の意図を理解したらしい。だけどもう遅かった。ユウは何者かに襲われた。そして、次の瞬間何も見えなくなった。私の体を砂漠の熱より暑い焦燥感が襲った。

「落ち着け! 落ち着け! 落ち着け! まだ助かる! 私はこの物語のヒロイン! 絶対に大丈夫よ」

私は頭の中から熱とともに、嫌な想像を追い出した。頭の中を冷たい論理で覆った。ここは砂の海の上。物語のクライマックス。こんなところで物語が打ち切られるはずがないわ。必ずどこかにこの状況を打破するきっかけがあるはず。私は作者が作った伏線を拾わないといけない。絶対に諦めてはいけない。それが、私の、ヒロインの役目よ!

私は周囲を見渡した。右、左、後ろ、その全てが真っ白な砂畑。上には大空が巨躯を横たえている。私は、足元を見た。そこには二人分の足跡があった。三人分ではなく二人分だ。

さらに前方に視線を滑らせる。地面の上を次々と網膜に写し取る。そこには、一人分の足跡だけが続いている。見つけた! これが逆転の糸口だ!

「そういうことか」

私は、足跡を追って死に物狂いで走った。空中に巻き上げられる砂煙が、透明な空気を淀ませる。息を大きく吸い込むたびに、私の肺が小さな粒子を飲み込む。むせ返り、砂の混じった空気を吐き出すと、少しだけ肺に痛みが走った。


[主人公メインパート ユウ視点]

体が宙に浮いている。視界は真っ暗だ。冷たくて不気味だ。肺の中に空気はない。頭がクラクラする。宇宙空間のような場所に、規則的な音が漂う。なんだ? なんの音だ? 何かが一定のリズムで音を刻む。俺はその音の方向に手を伸ばした。湿った流動体をかき分けて俺の手は進む。俺はなぜその方向に手を伸ばしたのかもわかっていない。脳に酸素が足りないのだ。だけど、俺は必死で音に向かって手を伸ばした。すると、手に何かが触れた。気づくと、さっきまで聞こえていた音はもう消えていた。あれは誰かが俺に向かって走ってきていた音だ。

そして、その手に掴まれて砂の海から引きずり出された。

「ごほっ! ごほっ!」

口と肺から大量の砂が吐き出される。口から出た砂は、砂の上に小さな山を作った。その瞬間俺の肺の中に新鮮な空気が飛び込んできた。目には太陽の光線が突き刺さる。

「大丈夫? しっかりして!」

目の前には、俺と一緒に旅をしてくれた女性がいる。この人は一体誰なのだろう。俺は酸素の回っていない頭をフル回転させた。きっと俺のことを助けてくれたのだ。

「君は一体誰?」

「私よ! 光よ! この物語のヒロインよ! あなたがモンスターに襲われたから助けにきたのよ」

「そうだ! 俺は突然後ろから何かに襲われたんだ」

あれは、人じゃなくてモンスターだったのか。

「ええ。そうよ。さっそくで悪いけど敵モンスターよ! しっかりして!」

俺はしびれる体を無理やり起こすと周囲を見渡した。そこには、人よりも大きい二足歩行のワニがいた。俺たちの周囲を取り囲んでいる。ワニは人間と同じように二足で直立している。彼らの体表は滑らかで艶(つや)やかで艶(なまめ)かしい。体表は鏡のように輝いている。ワニの体表の銀幕は周囲の風景を切り取り、その身に移す。砂漠の中に、溶け込んでいたのだろう。

「どうしてここがわかったんだ?」

「足跡よ」

「足跡?」

俺は、彼女の言葉をおうむ返しした。

「あなたが襲われた後、あなたがいた場所から一人分の足跡がずっと続いていたの。もしあの場所であなたが襲われたなら二人分の足跡があるはずでしょ? でもそれがないということは、あなたが襲われたのはあの場所ではない」

ワニたちが俺たちの周りを旋回し始める。ギラつく太陽が熱を俺たちに浴びせる。

「つまり、俺たちは位置を錯誤させられていたんだな? それなら、俺が君に触れられなかったことも納得できる」

俺の声が彼女に届かなかったのも同じ理屈だ。俺たちは目の前にいるようで、実際はかなり遠い位置にいたのだろう。

「そうよ。あとは私があなたの足跡が途切れるまで、走ったの。途切れた箇所まできたら、あなたの腕が空に向かって伸びていた」

ワニが砂の海に潜る。砂から背中の一部だけが見えている。きっとこうやって移動する生物なのだろう。これなら獲物に気づかれずに距離を詰められる。

「さ、解説はそろそろ終わりよ。敵が反撃してくるはず」

「解説が終わるまでしっかり待ってくれるなんて律儀なモンスターたちだな?」

俺は冗談めいたことを言った。ワニたちが距離を詰めてくる。

「ま、それがフィクションの小説よ。さあ! 構えて!」

焼け付く炎が身を焦がす。ワニの体表に反射した光の波が、俺の顔を濡らす。そして、砂漠の海の真ん中で、命のやり取りが始まった。狩るか狩られるか。殺すか殺されるか。食うか食われるか。暑い砂漠の真ん中で、最も熱いのは小説の主人公の、俺の心臓だ。燃えるように赤く熱を放つ勇気の塊は、激しく大きく脈動している。


砂の水を切り、一匹のワニがこちらに泳いでくる。鱗で周囲の光と熱を乱反射させている。乱れる光は、周囲の砂埃を嫋やかに撫で付ける。ワニは砂から飛び上がり俺に噛み付いてきた。狙うのは俺の右腕。俺はすぐに左に避ける。体躯をひねり、ワニの横長の体を真正面に捉える。俺は右手で剣を叩きつけた。

鈍い音とともに剣が弾かれた。

「なんて硬さだ!」

剣から刃の一部が溢れる。さっきまで綺麗な左右対称だったのに、刀身はその対称性を失った。

「何か方法があるはず! 作者が何か伏線を張っているはずよ! 落ち着いてそれを探して!」

こんなところで作者が無敵のモンスターを出すはずがない。それはわかっている。そんなことをしたら小説のゲームバランスが崩れ、崩壊する。どこかにヒントがあるはずだ。思い出せ! 思考を止めるな! 絶対に諦めちゃダメだ!

そして、何の糸口も見出せないまま一方的な狩りが始まった。


俺も光も全身に大小様々な裂傷を負っている。貴重な水分が鉄分とともに乾いた砂に溶けていく。痛む傷口に、日光が追い打ちをかける。炎のように熱を持った傷は、太陽の刃で抉られる。

俺と光は背中合わせになって、敵の連撃を往なし続ける。牙と爪と鋭い殺意が俺たちの体を弄ぶ。右からの牙を弾く。左からの口撃を避ける。下からの殺意を飛んで躱す。正面からの体当たりを押し返す。後ろを振り返ると光がいる。何も言わずに、ワニと対峙している。その時だった。俺は異変に気付いた。さっきからワニたちは何をしているんだ? 俺たちの体力が尽きるのを待っているようには見えない。左右や上下から、場所を変え、方法を変えて攻撃してくる。何かを狙っている。俺は必死でワニの攻撃を防いでいた。自分の位置を把握できないくらいの攻撃だった。俺はもう一度光に手を伸ばした。すると、俺の右手はまた光の体を透過した。しまった! ワニたちはこれを狙っていたんだ。先ほどの光の解説には漏れがあった。どうやってワニたちが俺たちに幻覚を見せたのかわからなかった。これは蜃気楼だ。ワニの体表が光の屈折率を変えて、徐々に気づかれないように俺たちの立ち位置をコントロールしていた。俺のすぐ後ろには光はいない。きっと離れた場所で一人で戦っているのだろう。

「俺たちを分断するのがワニの狙いか!」

ということは、俺は光の蜃気楼の奥を見つめた。じっと目をこらすと俺は銀鏡のワニに囲まれていた。完全に包囲されている。そして、そのワニたちがトドメだと言わんばかりに一斉に襲いかかってきた。


砂の粉塵が巻き上がり、小さなキノコ雲を作り出す。砂漠の真ん中に咲いた一輪ののバラのように儚く美しい。ワニたちは俺の躯体にめがけて牙と爪を振り下ろす。熾烈な攻撃は手や足にめがけて繰り出される。餌に群がる肉食獣たちは、もみくちゃになりながら攻撃を続ける。絶え間のない牙と爪の葬送曲は、ひどく不恰好な音を砂漠に植え付ける。

やがて、ワニたちは攻撃が当たっていないことに気付いた。ワニの群れの中心には、確かに俺がいる。だけど攻撃は全て俺の体をすり抜ける。

「うまくいったようだな。小説の主人公には幾度となくピンチが割り当てられる。それは避けることができない。だけど、それと同じ様に逆転のヒントも与えられるものなんだよ」

俺は、剣に唸る剛炎と斬冷を纏わせる。

「比率は一対四、比率は一対四、比率は一対四!」

一匹のワニが砂の中を潜り、こちらに突っ込んでくる。悲鳴にも似た鳴き声が砂から撒き散らされる。銀鏡のワニは砂を切り裂き、地中を滑る。そして、猛る牙を反らせた。太陽の光が牙に反射する。銀色の牙は日光を反射しながら砂漠の中で鋭く光る。勢いよく振り下ろされた野生の凶刃は、俺の体を再び素通りした。

俺は、俺の形をした蜃気楼に向かって攻撃をしたワニに対して攻撃を与えた。狙うはウロコの無い部分。鎧と鎧のわずかな隙間。俺の剣は、剛炎と斬冷で赤く、そして同時に青く光る。相反する二つの性質をその身に宿した直剣は、幻想的な色合いを放つ。俺は、剣をワニの右目に力一杯突き立てた。一つの目的のために熱気と冷気は互いに協力をした。熱い部分と冷たい部分を同時に有する俺の剣はまるで、ファンタジー小説の勇者そのもの。頭はいつだって冷静に逆転の糸口を探す。だけど心は常に燃えるような炎が灯っている。

俺の剣はワニの右目を貫き、脳髄を通り抜け、左目から切っ先が貫通した。鏡のワニから溢れた血液は、つまらない赤色だった。その赤は砂漠の砂に吸い込まれて、地面に赤い絨毯を生み出した。絶命したワニから俺は勢いよく剣を引きずり出す。剣の切っ先には少しだけ脳の一部が引っかかっている。

「かかってきな! 主人公補正を見せてやる!」

一番最初は、一本の剣に熱対冷の比率が、一対一から一対五までの箇所を作って同時に光の屈折を試みた。その結果一体四の比率の時がもっとも効率よく光を屈折させることができた。作者が何度もワニを使って俺たちに蜃気楼攻撃を仕掛けさせていたのはこのためだったんだ。何度も蜃気楼攻撃をその身で食らわせ、その効果と仕組みを体で覚えさせたんだ。ヒロインならともかく、小説の主人公がいきなり知りもしない能力を発動させることはできない。突然そんな技を発動させたら読者が混乱するし、勝ち筋にも納得しない。修行して得た能力か、戦いの中で獲得した経験を使って勝たないといけないのだ。

今の俺にできる蜃気楼は、真正面に俺の姿を写すものだけ。これを使ってこの場を切り抜ける。蜃気楼で隙を作り出し、ワニの弱点を正確に射抜いていく。それがこの状況における唯一の突破口だ。

俺は右手で剣を回転させる。大きく空に描かれたアーチは円の軌跡を描いた。迸る熱気と冷気が空を滑る。辺りに光の屈折が始まる。そこから先は、どう猛な肉食獣が弱い人間に狩られるシーンになった。


俺は常に頭を冷静にさせながら戦った。絶対にゴリ押しや力押しはしない。一匹ずつ孤立させて背後から攻撃する。蜃気楼を次々と生み出し翻弄する。危なくなったらすぐに蜃気楼を生み出し、一旦引く。俺は冷静沈着に、淡々と、作業をするように、ワニを仕留めた。

「よし! あと一匹!」

ワニは、最後の一匹を残した。後の五匹は全て砂の大地に沈んだ。辺りの乾いた砂は、血を吸って赤く湿っている。俺がトドメを刺そうと近寄ると、ワニは急に方向を変えた。砂の原っぱを勢いよく泳いでいく。

「しまった!」

ワニの狙いがわかった。ワニは恐れをなして逃げ出したのではない。次の獲物に狙いを変えたのだ。ワニの先には光がいる。まだワニに苦戦している。その背後からワニが迫っていく。光はこちらに気づいていない。まだ俺が背中合わせで戦っていると思っている。まずい。このままだと彼女が危ない。主人公が旅の途中で死ぬことはあり得ない。物語が成立し得ないからだ。だけどヒロインは死ぬ可能性がある。いなくても物語に支障はないのだ。

「そんな。ダメだ!」

俺の胸のうちに、過去の記憶が蘇る。灼熱の熱砂の上に影が差す。黒い影は俺の心の中にまで入り込んで俺の心臓を締め付ける。声にならない声が溢れる。

「光、もう二度と君を死なせない!」

もうあんな思いはしたくない。今度こそ、必ず君と一緒にハッピーエンドを見るんだ!

俺は右手に全ての神経を集中させる。

「比率は一対四だ! 落ち着け、落ち着け! 俺ならできる!」

炎のように熱く光る剣を、同時に氷で冷ます。ここでミスすることは許されない。絶対にダメだ! ここまで読んでくれた読者のために、そして、何よりも自分自身のために!

俺は、光との距離を調整した。

「ここだ! この角度だ! この位置で間違いない!」

自分を信じろ! 蜃気楼を習得したのはついさっき。だけど、ワニとの死闘の中での経験は、凄まじい速度で俺を成長させた。俺ならやれる! 俺ならヒロインを救える!

そして、全てを賭けた蜃気楼を飛ばした。光の屈折が織りなす幻は光の目の前に現れた。俺は光に向かって口を動かした。声なんてもちろん届かない。だけど“この単語”だけは初見でも通じるはずだ! “この単語”だけはわかるはずだ! 打ち合わせなんてしていない。作戦会議もしていない。だけど頼む! 気づいてくれ!

そして、光は俺の蜃気楼をまっすぐ見つめた。俺の口から発せられる三つの文字を唇の動きから読み取る。

「わかった! “後ろ”ね!」

光はノールックで振り向きざまに剣を背後に突き刺した。剣は深々とワニの腹に突き刺さる。剣は大きな音とともに食道を切り裂き、肺を飲み込み、心臓を破いた。光は剣を根元から一気に引き抜いた。恐ろしいほど大きい断末魔が上がり、砂漠に血飛沫の間欠泉を生み出した。仲間を残酷に殺されてワニたちは一斉に後ずさる。

「大丈夫か?」

俺は光の元に走っていった。

「ええ、今度は幻影じゃないみたいね!」

「ああ。本物だ!」

そして、ワニたちは戦況の悪さを理解して、そそくさと退散していった。その後俺たちは休憩を挟みつつ砂漠を進んで行った。


俺たちはひたすら歩いて、歩いて、歩いて、歩き続けた。読者のみんなにはわからないだろう。でも俺たち登場人物は実際にこの砂漠をひたすら歩いた。本当に大変だった。でもただ砂漠を歩くだけのシーンなんて退屈だからカットだ。わかっている。しょうがない。

そして、俺たちは砂漠のど真ん中に不自然にそびえ立つ建物の前に着いた。絶対に砂漠に存在するはずのない建物は、異様な雰囲気をその身に纏う。不可解な光景は、俺と光に不安感を叩きつける。不安と恐怖が俺と光の体に当たって、砕ける。

「これってコンビニ?」

「ああ。みたいだな。でもなんで砂漠のど真ん中にコンビニがあるんだ?」

コンビニは、砂漠のど真ん中に孤独に立っている。さっきコンビニのくだりがあったのはこのためだったのだろう。

「わかんない」

俺は戸惑う光をよそに、コンビニに入ろうとした。自動ドアが左右に開き、コンビニは大きく口を開ける。それはまるで獲物を丸呑みにしようとする巨大な化け物の口のように感じた。

扉の間からは爽やかなエアコンの風が吹く。砂漠に溢れた心地よい冷気は俺の肌を喜ばせた。冷たい風が俺の体表の汗にぶつかる。風が当たった箇所は、やけに冷たく感じた。砂漠のど真ん中で遭難したら、目の前に何が欲しいだろうか? 読者の皆はきっとこう思うだろう、『コンビニに行きたい』と。え? そんなこと思わないって? ここは、ひとまずそう思ってくれ。頼むよ。話が進まない。


読者であるあなたは、『砂漠で遭難したらコンビニに行きたい!』と心の中で呟いた。


皆はきっとこう思うだろう、『コンビニに行きたい』と。だが、実際に砂漠のど真ん中に存在するコンビニを前にすると、足がすくむ。恐怖が俺の背中を這い回る。気持ちのいいはずの冷風が不快に感じる。だが俺は勇気を出して一歩前進した。


どうもありがとう。皆の協力のおかげで、砂漠のど真ん中にあるコンビニの不気味さを描けたよ。作者に代わって礼を言うよ。ありがとう。


「ちょっと待った!」

勇気を出した俺に、横槍が入る。

「おい! 今度はなんだよ?」

「あんた、この中に入る気? 気は確か?」

せっかく読者と協力して、いいシーンを作ったのに、邪魔をするな! まあ、そんなことは俺の心の声だ。実際に言うわけにはいかない。

「ああ。入るしかないだろ? ファンタジー小説の主人公は無鉄砲でバカで行動力だけはあるって言う設定が多いんだ! それに、ヒロインを危険な目に合わせられない。ここは主人公である俺が行くよ!」

「わかったわ。でも気をつけて」

「ああ。光は外から俺の様子を見ていてくれ。俺に何かあったらすぐ逃げてくれ!」

「そんなことしないわよ。ヒロインが主人公を見捨てたらヒロイン失格でしょ!」

正直そう言ってくれると思っていた。『俺に何かあったらすぐ逃げてくれ!』って言うのも、主人公の役目だ。自分の命を顧みずに仲間の安全を優先する。それでこそ立派な主人公だ。

そして、俺はようやくコンビニに足を一歩踏み入れた。


不気味なコンビニに入るとそこは天国だった。心地のいい冷風が俺の矮躯を抱きしめる。その瞬間俺の体表から滲んでいた汗は止まった。俺が店内を見渡すとそこは通常のコンビニだった。レジには女性の店員がいる。

「いらっしゃいませ〜」

営業スマイルを貼り付けて、気さくな挨拶を俺に飛ばした。俺は軽く会釈をすると、店内を回った。どこにでもある普通のコンビニだった。レジの横には惣菜やら、パンやらが売っている。再奥には飲み物コーナーがある。俺は店内を一周すると外に出た。

「どうだった?」

目に不安の影を浮かべながら光が走り寄ってくる。どうやら本気で心配してくれているようだ。光はヒロインにふさわしい優しい子だ。

「普通だった」

「は?」

光はキョトンとした顔になった。

「普通のどこにでもあるようなコンビニだった。なんなら入ってみるか?」

そして、二人でコンビニに入っていった。


店内をしばらくウロウロしていると、再び女性店員が声をかけてきた。

「おい。あそこから入れ」

店員はドスの効いた低い声で言った。指差す方向には従業員用の入口があった。彼女の台詞の後は、静寂の中でエアコンの機械音だけが音を紡いでいた。モノクロの機械音は読者の恐怖感を煽った。

俺と光は、顔を見合わせた。

「どうする?」

「どうするって入る気なの? 私は嫌よ!」

「わかった。なら俺一人で行くから待っていてくれ」

「それはもっと嫌よ!」

そして、結局二人で従業員入り口から得体の知れないどこかに足を踏み入れた。


その瞬間、目の前が真っ暗になった。世界が漆黒の闇に覆われて俺一人だけがその闇の中に佇んでいる。俺自身が闇に溶けてしまったかのようだ。

「この先は地獄じゃよ?」

頭の中に声が響く。視界に飛び込んでくるのは永遠の黒。黒一色の世界が輝きを放つ。光のないつまらない単調な闇。その中に、フードを被った少年がいた。

「誰だお前は?」

「それはいずれ分かる。それより地獄に行くのか?」

「地獄?」

「うん。君の見たくないものを見ることになるのじゃ」

「俺はそれでも進まないといけない」

それが主人公の責務だ。

「そう言うと思った」

「何が目的だ?」

「力が欲しいか?」

「いらない」

「もう一度聞く。力が欲しいか?」

「いらないと言っているだろ!」

「そう言うと思った」

次の瞬間、視界がひらけた。俺は夢の世界から現実の世界に戻る。目の中に飛び込んできたのは、黒一色の世界を綺麗な深い青が塗り替えた瞬間だった。


そこは海中だった。

「ここはどこだ?」

隣には光がいる。さっきのは一体なんだったのだろう? 俺はひとまずさっきの少年のことは忘れて先に進むことにした。おそらくなんらかの伏線だろうが今の俺にできることはない。

「さっきまでコンビニの中にいたはずよね? と言うよりなんで会話ができるのかしら?」

「さあな。小説のストーリー進行に支障が出るからだろうな。会話も呼吸もできなければ小説が成り立たないだろ」

俺が振り返ると、通って来た道は潰えていた。どうやら前に進むしかないようだ。俺たちはサンゴ礁でできた草原を横断し、七色の水が流れる海の中の川を渡った。星の砂でできた天の川を通り、熱帯魚の大群を避けて進んだ。息を飲むほど美しい情景は読者の頭の中で想像された。

歩いて歩いて歩き続けて、俺たちは海底に建てられた小さな小屋にたどり着いた。

「新王国ってここかな?」

「みたいね」

光は建物の横の表札を指差した。そこには『新王国』と書かれていた。新王国っていうから大きな国を想像していたんだけど、小さな小屋だったとはな。俺はそんなことを想像しながらドアノブに手をかけた。冷たいドアノブが俺の手の温度を奪う。

その瞬間、中からドアノブが開いた。ドアから出てきたのは銀鏡のワニだった。二足歩行で直立している。まるで俺たちが来ることを事前に知っていたようだ。

「主人公様ですね。弟様がお待ちです。どうぞこちらへ」

ワニの口から出たのは流暢な日本語だった。身構える俺たちをよそにワニは建物の中に進んでいく。

「喋った?」

「なんで今まで喋れないふりをしていたのかしらね? それよりどうする? ついていく?」

「いくしかないだろ」

そして、俺たちは建物の奥へと進んだ。建物の中は外観に反してとても広かった。物理法則なんて完全に無視している。俺たちは廊下を無言で進んだ。警戒は一切怠らなかったが、驚くほどあっさりと奥へ通された。建物の大広間に着くと、そこには大きな椅子があった。そこには見覚えのあるキャラクターが座っていた。

「お前はあの時の?」

俺の目の前には、序盤で俺に手紙を渡した仮面を被った猿がいた。その猿の周囲には猿型のモンスターと銀鏡のワニと芋虫型のモンスターがいる。

「こんにちは。遠路はるばるご足労おかけしましたでございます」

猿の無表情の仮面の下からは甲高い声が聞こえた。

「お前喋れたのか?」

こいつ、人間だったのか。仮面を被っていたから何かあるとは思っていたが、モンスターのふりをした人間だったとはな。ここはこの物語の終盤だ。こいつの正体を晒してもいい頃だ。

「はいでございます」

「序盤で喋ると、読者の意表をつけないから黙っていたんだな?」

わざわざ手紙という手段を用いて俺にコンタクトを取った頃からも、これは裏付けられる。

「その通りでございます」

「お前は一体誰だ?」

小説に仮面を被ったキャラクターが出ると言うことは、その仮面の奥には意外な存在がいるはずだ。それが小説のエンターテイメント性を高めるための鉄則だ。そうでなければ仮面など付ける必要性がない。

「私が一体誰か? よろしいです。今からお教えいたしましょう」

仮面を被った人物はゆっくりと仮面を外した。その仮面の下からは、なんと見たこともない人物が出てきた。顔は少し俺に似ている。少し年下のように感じる。体は痩せ細り、不健康そうだ。まるで鏡に映った俺をそのまま敵キャラクターに移し替えたようだ。

「お前は一体誰だ? どこかで俺と会ったのか?」

俺は念のため剣を鞘から抜いた。

「私は主人公様の弟です。洞窟で会った時が初対面でございます」

俺はやや警戒を緩めた。こいつからは敵意を感じられない。少し下げられた剣の切っ先が薄明かりを弾いている。

「俺に弟はいない。天涯孤独の設定のはずだ」

「ええ。あなたに弟はいませんでしたでございます。私はこの物語における後付け設定です」

「あなたがこの物語の悪役なの? もしそうなら容赦しないわよ!」

光が言った。彼女は悪役が嫌いだと常々言っている。悪と対峙するその姿はどこか華麗で美しかった。

「いいえ。悪役は私ではありません。私ではないのです。そう、私じゃない」

そして、誰かの斬撃が光の体を捉えた。光の体は背後から切り裂かれた。裂けた肉と肉の間から血が流れる。血は彼女の白い太ももを伝い、地面を目指す。その瞬間、凄惨な痛みが彼女を襲う。苦痛が少女を飲み込んだ。彼女は後ろを振り返った。その目は恐怖で満たされている。まっすぐにこの物語の悪役を見つめている。主人公であるこの俺を見つめている。


「ユウ! どういうつもり? あなたがこの物語の主人公じゃないのっ?」

光は怒号を飛ばす。彼女の声には、ありったけの怒りがこもっていた。その激しい怒りの中にはほんの少しだけ悲しみも混じっていた。

「いや、違う! 光! 聞いてくれ! 俺の手が勝手に!」

そして、俺の手は俺の意思と関係なく、動き始めた。勇者の剣を掴んだ右手はまるで誰かに乗っ取られているようだった。俺の水晶体を通り勇者の剣が網膜に映る。表情を持たない剣は、どこか悲しげだった。

俺の攻撃が光を襲う。右から二発。連続攻撃が彼女を急襲する。光は両撃ともなんとか剣で弾いた。だが、彼女はこちらに攻撃をしてこない。戸惑いを隠しきれていない。戸惑い、怒り、悲しみ、失望、様々な感情が濁流になり、混線し、頭の中をかき乱しているのだろう。

続けて俺の攻撃が彼女を襲う。左から右下に勇者の聖剣が振り下ろされる。光はそれを防ごうとするが、切っ先が彼女の柔肌を少しだけ舐めた。彼女の体に新たな傷が生み出された。

「やめて! お願い! あなたがこの物語の主人公よ! 悪役なんかじゃないわ!」

「手が勝手に動くんだ! 次は右から三発突き攻撃だ。左に避けろ!」

俺は光の右手に回り込んで、突き攻撃を三発入れた。光は左に避けた。

「操られているみたいね! 手加減して攻撃するわ!」

光は俺に向かってカウンターを打ち込んだ。峰が俺の延髄に迫る。一撃で気絶させるつもりだろう。彼女はこの物語のヒロイン。主人公を殺したりなんかできない。だがその優しさが仇となった。時として、優しさは悪意になって返される。

光の峰打ち攻撃は俺の蜃気楼に当たって、幻影を砕いた。

そして、俺は隙を見せた光を背後から突き刺した。俺の勇者の剣は深々と根元まで突き刺さる。音を立てて光の体に沈み込む。痛々しい肌を裂く音が鼓膜を震わせた。

俺は勢いよく剣を引き抜いた。

「大丈夫かっ?」

俺が攻撃したにも関わらず、俺は光に声をかけた。光は何も答えない。俯いて痛みに耐えている。彼女の震える肩が呼吸に合わせて激しく上下している。

「お前! 一体何をしたっ!」

俺は弟に向かって言い放った。鋭い語気が刃となって飛んでいく。

「私は何もしてないでございますよ。お兄様。これがあなたの運命なんでございます」

俺はコントロールの効かない体を必死で動かした。全身の力を込めて光から少しでも遠ざかる。もう一度光の方を見ると、光は傷んだ体を必死に動かして回復魔法を使っている。

「運命とはどういうことだ? お前が俺の体を操っているんだろ!」

「いいえ、違います。ヒロイン様を攻撃したのはあなたの意思でございます。そういう脚本なのでございます」

弟は懐から一冊の分厚い本を取り出した。本の表紙には大きな文字で『台本』と書いてある。台本は、本というより百貨辞典に近い。見るものの読む気を失せさせるような分厚さは、その本の重要性を物語る。

「それはなんだ?」

「この物語の全ての脚本です。あなたは自分の意思でその子を攻撃したのですよ? 私は何もしていないでございます」

「いや! 俺は操られている! 体が勝手に動くんだ!」

「いいえ。あなたは父親の仇を討ったのです」

「光が俺の父親を殺した? お前は何を言っている? 俺に父親などいない。父親どころか弟もいないはずだ。絶対におかしい!」

「あなたの言い分は正しい。あなたに父親や弟はいなかった。設定されていなかったのです。だけど今は違う、このリメイクされた脚本だとね!」

弟の顔は無表情だった。仮面が隠していたのは、本当におぞましい彼の感情のないお面のような顔だったのだ。


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