ゼロゴーの正体は……なんと……
ゼロゴーは、倒すべき敵として玉座に座った。空っぽだった玉座は、主人を再び迎え入れた。
「お前、最初から裏切るつもりだったのか? 答えろ!」
「ええ。だって、そういう設定なのよ。どうしようもないでしょ。私たち登場人物は作者の設定に縛られて生きている。自分の人生を、自分で決めることはできない。それが運命なのよ」
「何が運命だ! そんなもの俺は信じない! 運命は自分の力で切り開くものだ! 運命という言葉を、逃げるための言い訳に使うな!」
光が抜刀する。
「お前は手を出すな! このクズは俺が殺す!」
「でも!」
と、光が叫ぶ。
「こういう最初から諦めたような奴が大嫌いなんだよ! いいから俺に任せて下がっていろ!」
俺は敵意を剥き出しにして、仲間に怒号を放った。
「あはは。威勢がいいね。でもそれは君の本心じゃないんだ。そういう設定なんだよ。熱くて、正義感がある。感情移入がしやすいように個性を削ぎ落としてある。まさに、よくある主人公の設定じゃないか!」
俺は、ゼロゴーの言葉を無視して勇者の剣を引き抜いた。
「そんな力じゃ私には勝てない。悪の力を借りろ! 主人公が一度悪に堕ちて、立ち直る。定番の脚本だろ?」
と、俺と同じような口調でゼロゴーは言った。
「黙れ! 脚本も運命も全て乗り越えてやる!」
そして、ゼロゴーも立ち上がった。
「没武器零参番発動」
そういうと、禍々しい歪な武器を空中に生成した。黒い剣におびただしいほどの棘が生えている。突き出た狂気は、獲物を求めて舌舐めずりをしているように見えた。
没エリアの一番底にある寺の、一番奥のそのまた奥の部屋で、今まさに剣戟が繰り広げられている。
敵の右からの斬撃を、下に避けた。俺は、右手に持った剣でゼロゴーを突き刺した。深々と突き刺さった剣に手応えはない。剣を引き抜いて半歩下がった。出血もない。
「どういうことだ?」
「よそ見していると死ぬぜ!」
俺と同じ口調のゼロゴーが斬りかかってくる。
上からの剣で頭を狙っている。一撃で頭を割るのが狙いだろう。
俺は、左に体をひねって躱した。そして、すれ違いざまに、ゼロゴーの脇腹を一文字に引き裂いた。
「もらった!」
だが、手応えは無い。ゼロゴーへの攻撃を外した俺に大きな隙ができた。その瞬間、周りがスローになった。これが走馬灯ってやつか。今までのいろんな思い出が浮かんでは消える。自分の周りに思い出を写したシャボン玉がいくつも見える。俺が初めて光に会った時の思い出。そして、裏切り者のゼロゴー。そんな、数々の思い出は儚い泡沫となって弾けて飛んだ。
「もらった!」
俺と同じ口調で、同じセリフをゼロゴーが言った。
ゼロゴーは俺の脇腹を一文字に引き裂いた。皮を裂かれ、肉を断たれ、中から赤い体液が床にこぼれた。切られた部分が熱を帯びて畝りだす。痛覚の火花が頭の中で踊った。視界が揺らいで、体から体力と気力が溢れでる。
「おかしい。なんでこちらの攻撃が当たらない。それに、なんだこのダメージは? そこまで深い傷には見えないのに!」
「あなたの攻撃は当たらないわ。でも、私の攻撃は一方的にあなたに当たる。なんでだろう? 不思議ね!」
俺は、肉体の悲鳴を無視して剣を振りかざした。剣の軌道は、ゼロゴーの剣によって阻まれた。金属と金属が重くぶつかり合った。鈍色の火花が一瞬だけ辺りを照らした。狙い通り! 俺のフェイントにゼロゴーは引っかかった。体をよじり、脚に力を込める。その瞬間、内臓が引きちぎれたのを感じた。よじった体の中身が、悲鳴を上げている。だけど、ここで引くわけにはいかないのだ。俺は主人公だ。逃げるという選択肢も、負けるという運命も無い。勝つ!
俺は、痛みをはねのけ渾身の力を入れて蹴りを放った。体重をかけた脚の一撃はゼロゴーの柔らかそうな腹に突き刺さった。
「なんで?」
その瞬間、俺は違和感を感じた。ゼロゴーの体にダメージはない。なぜこんなことが起きているのかわからない。だけど、ゼロゴーの肉体は鉛で満たされた袋のようにビクともしなかった。まるで巨木を小さい人間が蹴りつけたみたいだ。
そして、敵の反撃が俺の体に直撃した。
「ぐっ!」
胸から脇にかけて大きな裂傷を負った。攻撃は深くない。だけど立っていられないほどのダメージを食らった。
「なんで? って顔をしているね!」
と、勝ち誇ったような表情でゼロゴーが言った。
俺は、返事をしない。ゼロゴーは続けた。
「痛くて、悪態をつく元気もない? いいよ! なんで君が勝てないか教えてあげる」
ゼロゴーがうずくまる俺に近寄ってきた。
「これは“負け試合”なんだよ」
「負け試合だと?」
俺が問い返した。
「ははは。やっと喋った。そう! 君は脚本上ここで負けるの。これは作者が主人公に困難を与えて乗り越えされたいから、君に課された運命なんだ」
「どういうことだ?」
「だからお前はここで負けるんだ。そう決まっているんだよ」
と、ゼロゴーが言った。
「俺は負けたりなんかしない。俺はこの物語の主人公だ」
「聞き分けがないな〜。さっきから不自然だったろ? 君の攻撃は何発クリーンヒットさせても無効。だけど、僕の攻撃は全部即死級のダメージ。勝てないように調整されているんだよ。わかる?」
と、ゼロゴーが言った。
「運命だってことか?」
「そういうこと。君はここで死ぬんだ。僕は今ここで君を殺す。そういう役割なんだよ」
俺に顔を近づけてゼロゴーが言った。
「嫌だ」
「困ったな〜。いやでもなんでもここで死んでもらわないと話が進まないよ〜」
「ダメだ。俺はこの物語の主人公だ。こんなところで挫けるわけにはいかない」
「いやいや。話聞いていた? 脚本上勝てないんだよ!」
「俺は、こんなところで諦めちゃいけないんだ! 読者に勇気と希望を伝えるんだ! 読んでくれた人の期待に応えなくちゃいけない。例え、闇の力を使ってでも!」
俺の中に、残酷な黒雲が渦巻いた。体が痺れる。痛みも不安もかき消された。さっきまで、あれほどの激痛の中にいたのに、もう何も感じない。
「まさか! だめっ!」
と、光が言った。こちらに駆け寄ってくる。だがもう遅い。
「おい! こんなシーン脚本にないぞ! よせっ!」
と、焦ったゼロゴーが叫んだ。
そして、俺は脚本を無視して、闇の力を解き放った。
俺の体から黒い闇が染み出る。皮膚を溶かして、中から黒い液体が出てきた。具現化された殺意は、暴力の矛先を探している。誰かを傷つけたい。血を見たい。生者を死者へと変えてやりたい。生き物を、物言わぬ肉クズに変えたい。殺したい。殺したい。殺してやる!
俺は完全に闇の力に支配されていた。俺の体はもうこの闇のものだ。俺に意思なんてない。時が止まったように感じた。時間の感覚も空間の感覚も無い。闇が俺の体を操っている。闇が右に行けと言うなら右に行く。闇が左に行けと言うなら俺は左に行く。そして、闇の力がゼロゴーを殺したいなら、俺は躊躇う事なく殺す。
液状化した殺意に体を濡らしながら俺は走った。逃げる獲物の首を掴んで地面に押し倒す。さあ! ご馳走だ。はらわたを喰ってやる。
「お願い! やめて!」
と、光の口調で獲物が言った。
だけど俺はその言葉を無視した。命乞いも悲鳴も、今の俺に取っては俺を鼓舞する賛美歌だ。俺の戦いを盛り上げて、士気を高める。さあもっと鳴き叫べ! 逃げまどえ! そして、恐怖に歪んだ目を俺に見せるのだ! この物語も、主人公に与えられた使命もどうだっていい。ただ目の前の獲物を八つ裂きにしたい。血が俺を求める。暴力が俺を支配する。体が極度の興奮状態になっていくのを感じる。もう誰にも止められない。この俺自身でも、自分を制御することができない。いや、制御なんてしたくない。
ゼロゴーを殺すために大きく勇者の剣を振りかぶった。処刑道具は空中に掲げられた。俺が右腕を振り降ろそうと、右半身の筋肉に力を込める。
「お願い! 私がわからないの? 私よ? 光よ?」
俺は、左手で地面に組み伏せていた仲間の姿を見た。
「光?」
俺はゆっくりと剣を下げた。
「そんな。光。ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」
光は、恐怖に体を強張らせている。
「ゼロゴーはもう死んだわ」
俺は後ろを見た。床のタイルがあちこち剥がれ落ちて黒い壁が見えている、さっきまで床があったのに。かろうじて破壊されていない床の部分に、血で赤く染まっていない箇所は無かった。
「もう帰りましょう」
と、震える声で光が言った。顔に精一杯の笑顔を貼り付けた。作り笑いは少しだけ俺の心を溶かした。
「うん」
と、震える声で俺が返事をした。
次の瞬間、俺の体は背後から凶器で貫かれた。
床に俺の血が飛び散る。内臓が裂けた肉の間から零れ落ちた。背後にいる人物は、俺の体の中をかき回して内臓を一握りすると、内臓を掴んだまま手を引き抜いた。
「そんな。どうして?」
俺は、後ろを振り返った。
「残念だったね。ユウ、あなたはこの戦いに勝てないの。諦めて死になさい」
と、なぜか蘇生したゼロゴーが言った。
「脚本の都合で生き返ったのか?」
「そうよ。絶対に勝てないって何度も言っているでしょう?」
「その子供をあやすようなムカつく口調をやめろ!」
俺は勇者の剣を右手で高く掲げた。
「ユウ! やめて!」
と、悲鳴にも似た光の声が聞こえた。
そして、俺は光の顔を頭の中に浮かべた。闇の力を使って光を殺そうとする俺。そんな俺を見つめる恐怖に見開かれた目。俺は勇者の剣をそっと懐にしまった。
「お! それはもう使わないの? ただでさえ勝ち目がないのに、いいのかい?」
「ああ。もうこの力は使わない。こんなものがなくても俺は負けない」
「は? 言っている意味がわからないんですけど?」
「俺はこの物語の主人公だ。お前が不死身でも、これが勝つことのできない戦いでも、俺は絶対に諦めない」
「んでどうするの? 永遠にここで戦い続ける?」
「いや。お前に勝ってここから出る」
「バカなことばかり言ってないで、もう諦めなさい」
「いや、この戦いで俺は勝つ。そういう脚本にするんだ」
「脚本にする? 脚本を書き換えるつもりか? この小説を執筆している作者に物語の中から呼びかけるとでも言うのか?」
「そんなことをしなくても脚本は書き換わる」
なんでかはわからない。なぜこんなにも自信があるのか不思議だ。だけど、絶対に脚本は変えられる。確信している。
俺の周りの大気が震え始めた。
「主人公は絶対に諦めちゃいけないんだ」
大地が揺れて、建物が崩れる。
「読者の期待に応えなきゃいけない」
時空が歪んで、空間が捻じ曲がる。
「おい! まさか! この能力は? でもどうして使えるっ?」
とゼロゴーが言った。
「だから、運命ごときに負けるわけにはいかないんだ!」
「くそっ! その能力を使うなら、俺も全力を出す! 出さないと本当に負ける!」
と、俺と同じ口調でゼロゴーが言った。
次の瞬間、俺とゼロゴーの能力発動の声は、全く同時に重なった。
「「竜の伝説を見せてやる!」」
その瞬間、俺は精神世界に飛ばされた。真っ黒い空間に俺だけが佇む。矮小な自分がより小さく弱く見える。
「わしに何か用か?」
フードを被った少年が言った。
「お前が誰がか知らない。だけど俺に力を貸してくれ」
「わしがお前さんに力を貸すのはもっと後じゃ。今ではない」
「わかっている。だけど今、その力が必要なんだ。今じゃなければダメだ」
「そんなことをしたら小説に矛盾が生じてしまう」
「それでも構わない」
俺は、まだ見たことのない未来で習得する変身能力を、脚本を無視して無理やり発動することにした。
ボスの間には二つの巨大な影がある。片方は燃えるような赤。もう片方は、海のような綺麗な青色。さざ波の音が聞こえてきそうだ。
「いいでしょう。そこまで脚本に抗うならやってみなさい。私を組み伏せて、乗り越えてみせなさい!」
と。深紅の巨竜となったゼロゴーが言った。
青竜となった俺は翼を広げた。亀裂が走るような音を立てながら、狭い部屋を俺の両翼が覆った。翼を動かすたびに、綺麗な青色の鱗が床に零れ落ちる。海の塊が空気中を舞っているようだ。
「勝負は一瞬でつけさせてもらう」
俺は、どう猛な低い声で言った。
俺は、全身の細胞に渾身の力を込めた。翼が軋み、皮膚が泡立つ。足の巨大な爪は地面に食い込み、青色の体表の中で、ゼロゴーそっくりの紅蓮色の瞳が輝く。心臓が激しく歌いだした。まだ竜に変身してから一歩も動いていない。だけど、すでに勝利を確信している。
決着は一瞬でついた。太ももからふくらはぎへ力が伝わる。そして、最後に足首から地面に力は伝播し、俺は大地を蹴って全てを瓦礫に変えた。ほんの少し一歩前に進んだだけだった。だけど、周囲にあった全ての物はねじ切られ、砕かれ、塵と化し、寺は半壊した。
¬¬ そして俺は、青竜状態を解除した。もう寺は原型を留めていなかった。壁も天井も床も全てが黒一色になった。立ち入り禁止の文字があちこちに浮き出てきた。
この虚しい空間の中心で横たわる三人目の仲間の元へ近寄っていった。
「お前、結局一体なんだったんだ?」
「私の負けのようね」
とゼロゴーは力なく言った。
「答えろ。お前は没になる前はどんな設定だった?」
「私には、子供がいたの。でもその子供には会ったことがない。正確には会わせてもらえなかったの」
ゼロゴーは死期を悟ったのか、語り出した。
「どういうことだ?」
「わかるでしょ? 私というキャラクターが完成する前に、その子供に私は必要ないと判断されたの」
「そうか。気の毒に思うが、それが脚本なんだろ?」
「ええ。それが脚本。小説家の仕事は、予想を裏切る展開を生み出し続けること。その展開のために私は削除されたの」
「まあ、そういうこともあるだろ」
「別に小説家を、作者を恨んでいるわけじゃないのよ。でも一目会いたかったの、私の子供に」
「そうか」
「どうしても我が子に会いたかった私は、この没ステージから抜け出すと、その子供のもとに向かった。その子供は私抜きで幸せに暮らしていた。私は、どうしようもなく辛い気持ちに陥ったわ」
「なぜそんなことしたんだ? そんなことしても苦しいだけだ」
「ええ。わかっていたわ。でも、どうしても自分の子供に会いたかったの」
「今からでも間に合う。一緒に行こう。最後にその子に会わせてやるよ」
「いえ、いいの」
「何言っている? 良いわけないだろ?」
俺は、さっきからゼロゴーの口調が子供をあやす母親のような口調で固定されていることに気付いた。きっと、ようやくキャラクターの設定が定まってのだろう。なんのために、彼女が生み出されたのか、わかった気がする。彼女は最後に力を振り絞って、役目を果たした。
彼女は、筋が引きちぎれて骨がむき出しになった手で、俺の頬にそっと優しく触れた。
「そんな。そんなことって。嘘だ!」
俺は、すべてを理解した。物語の主人公は諦めてはいけない。どんな苦しい現実でも、向き合わないといけない。
「さあ。母さんに、その顔をもっとよく見せて」
と、ゼロゴーが俺に言った。
俺は今際の際の母親の頬に手を当てた。
「なんで今まで言わなかった?」
「言ったら私のことを殺せないでしょ?」
「なんで俺と歳が離れていないんだ?」
「あなたの過去編があったからよ。私はこの物語の過去から来たのよ」
母さんは少し笑うと言った。
「俺たちの目の前に現れたのは、俺たちを助けるためだな?」
「ええ。私は、脚本に、自分の運命に立ち向かう勇気はなかった。でもあなたならできる。あなたは、絶対に私を乗り越えられると信じていたわ」
「自分を殺させたのはなんでだ?」
「私が存在しないキャラクターだからよ。私は存在してはいけないの」
「嫌だ。もう一度脚本を書き換える。母さんを死なせない。本当に俺の仲間になるんだ。一緒に行こう」
「いいえ。私はもう死ぬ。あなたがとどめを刺して。とどめを刺したら、次のエリアへ向かいなさい。立ち入り禁止となっていない黒い壁が向こうにあるわ」
「そんなことできるわけないだろ!」
「いいえ。ダメよ。あなたは逃げてはいけないの」
「嫌だ。もう戦いたくない」
俺の台詞とは裏腹に、俺の体が俺の意思と関係なく勝手に動く。立ち上がり、震える手で剣を握る。
「な、なんだこれ? 体が勝手に動く!」
剣を構える。もう自分の意思で体を動かせない。作者に無理強いされているみたいだ。俺はまるで操り人形のようだ。作者の意思で勝手に動かされる。
「そういう脚本なのよ。登場人物が作者に逆らうことなんてできない」
「嫌だ。殺したくない」
自分の中の感情と行動が一致しない。体と心の不一致は、今まで感じたことのないような絶望感を俺に植え付けた。作者に無理矢理与えられた黒い感情が心を満たす。
「だめ。さあ、母さんを殺しなさい」
「嫌だ。俺は絶対に諦めない。母さんは絶対に殺したりなんかしない!」
そして、俺は母さんを殺した。あっという間だった。右手の勇者の剣で彼女の弱った体にとどめを刺した。深々と突き立てられた剣は彼女の呼吸を止めた。荒い呼吸音が消え、静まり返った部屋にさらに静寂を加えた。
俺は動かなくなった母親に話しかけた。彼女が死んでいるのはわかっていた。だけどそれを認めたくなかった。
「これから一緒に暮らそう。このエリアから一歩も出なくていい。戦いなんて忘れてみんなで暮らそう。俺がずっと一緒にいるよ。もうどこにも行かないよ」
俺は続けた。瞳が熱くなるのを感じた。
「そうだ。俺、母さんがいないところでたくさん冒険したんだ」
俺は続けた。目頭が焼ける。
「ヒロインの光は頼りない俺を何度も助けてくれたんだ」
俺は続けた。涙で目が潤う。
「他にももっとたくさん話すことがあるんだ」
俺は続けた。涙が俺の頬を滑る。
「俺は弱いのに、みんなが俺を頼ってくれるんだ。この物語の主人公だから、絶対に負けないんだ」
広い部屋に俺の声だけが響く。
「俺はこの物語の主人公だから、絶対に挫けないんだ。どんな困難でも立ち向かって最後には必ず勝つんだ!」
俺の横に光が来た。俺の肩にそっと手を当てた。
「もう、死んでいるわ」
俺は亡骸になった母親を冷たい褥(しとね、寝る場所)に寝かせると、次に進んだ。
没ステージを後にした俺達は、新王国へと続く階段を上った。階段は、真っ黒に輝いていて光を反射しない。黒い階段を一段また一段と登るごとに、体が軋む。この階段が崩れてしまえばいいのに。もう戦わなくてよくなればどれだけ楽なのだろうか。でも、俺の体は壊れたマリオネットのように前へと進んだ。自分の意思とは関係ない。物語のルールがそうさせるんだ。物語の登場人物は脚本に従うしかないのだ。俺は見えない糸で操られている。無理やり体を動かされ、進まされている。
ちょっとでも新王国へ遅く着きたい。俺はゆっくりと歩いた。俺のせめてもの抵抗だ。だけど、そんな抵抗が無駄なことぐらい分かっている。前に進むしかないのだ。
「ねえ。手を繋いでもいい?」
俺は光に聞いた。
「え? うん」
光は一瞬たじろいだが俺を受け入れてくれた。光の手は柔らかくて、暖かかった。血の気の引いた俺に、血液が流し込まれたようだ。触れている部分から、脈動する生気が流れ込む。さっきまで全ての世界がモノクロに見えていた。黒い階段に、白い空気。そして、色が抜け落ちた自分。だけど、光に触れた部分にだけ色が灯ったように感じた。触れられた一箇所だけが血と同じ赤色になった。
それから無言でしばらく階段を上った。無音の世界に足音だけが響いていく。乾いた靴音が沈黙を砕く。この世界に俺と光の二人しかいないみたいだった。沈黙は苦痛ではなかった。今はただ、誰かにそばにいてもらいたい。胸を激痛が焼いて、心臓が凍りつき、血流が止まる。俺は一人でそんな苦痛と立ち向かう勇気がなかった。
そして、俺たちは階段の頂点、大きな扉の前に立った。俺たちが目の前まで来ると扉は自動的に開いた。
「もう大丈夫?」
光が優しい声をかける。
「ああ。大丈夫だ。行こう!」
本当は大丈夫なんかじゃなかった。だけどそう言うしかない。主人公に泣き言を吐く権利などないのだから。俺は無理矢理心に勇気を灯し、新たなる一歩を踏み出した。
扉を通るとそこは見たこともないような世界だった。そこは空に浮かぶ砂の海だった。見渡す限りの黄金色の砂漠が空に浮かんでいる。だけどその砂は通常の水のようにさざ波をたてている。まるで、海水がそのまま砂の水の置き換わったようだ。風が吹くたびに弱い波が波紋を地面に描く。
俺たちが出てきた扉から向こう側、つまり俺たちの背後は崖になっている。見下ろすと、眼下には白い雲と青い海が広がっている。砂漠の上から海を見下ろすのは初めてだ。砂漠と空の境目からは、海に向かって砂つぶが落ちていく。時を刻む砂時計のように、ゆっくりと確かに。砂つぶは風に乗って、青空に綺麗な模様を生み出す。まるで、空に砂で絵を描いているようだ。空に描かれた絵は、綺麗だけど儚い。風に流された砂つぶは、雲に吸い込まれて消えてしまった。
「なんだここ? 砂漠?」
「のようね。でも空の上に浮かんでいるわ。一体どういう原理で砂漠が空に浮いているのかしら? それに砂がまるで水みたいに軽いわ」
光が真剣な顔で考察している。ファンタジー小説の設定を真剣に考えると頭がこんがらがる。摩訶不思議な設定のオンパレードで頭が沸騰する。
「さあな。架空の設定だし、作者もあまり考えていないんじゃないか?」
俺は根も葉もないようなことを言った。
「それもそうね。とりあえず、あてもなく進んでみる?」
そして、俺たちは太陽の光を反射する砂の海をあてもなく進んだ。
太陽から降り注がれる熱線が肌を焼く。熱を持った空気は、黄金色の砂つぶに反射して陽炎を空気に生み出す。揺らぐ景色は、まるで蜃気楼。見えないものが見えてくるような気がした。
久遠に続く、悠久の砂原。その中に二人分の足音だけが存在している。砂を掻き分けるような、音が耳を割く。砕けた砂つぶが音の粒子となって、耳の中に入ってきているようだ。紫外線は見えない刃物。柔らかい肌を音もなく傷つける。熱の刃で犯された素肌が、痛みを伴い発熱する。焼けた場所に触れると、神経に電流を流されたような痛みが走る。
俺と光は、一言も言葉を交わすことなく歩いた。右足と左足を交互に動かす。砂の海のなかで船を漕いでいるような気分だった。一歩進むごとに俺の体は溶けていく。俺は、熱砂の上に汗のしずくを垂らした。貴重な水分は音を立てて、瞬時に蒸発した。
「これいつまで続くんだ?」
俺は背後にいる光に声をかけた。だが返事はない。俺の独り言は虚しく熱砂の海に吸い込まれた。きっと口を開く気力もないのだろう。俺は振り返って光の様子を見た。
黙って下を向きながら歩いている。歩く屍の行進の様だ。ただ黙って砂に足跡をつけていく。機械の様に淡々と、黙々と足が砂を凹ませる。地平線の彼方まで二人分の轍が続いている。まるで二人の死人のみで行う百鬼夜行(妖怪が列をなして夜中に歩くこと)のようだ。
難しい単語を使ってごめんな。一応説明文も入れておいたから、読者のみんなはなんとなくこのシーンの雰囲気だけわかってくれ。
読者であるあなたは、このシーンの雰囲気を頭に描いた。そして再び小説を読み進めた。
「おい大丈夫か? 光?」
俺は光に再度声をかけた。だんだん彼女の様子が心配になってきた。だが、俺の声は再びむせかえる様な熱に溶かされて消えた。
「おい! 聞いているのか? 心配だから返事くらいしてくれ!」
俺が語気を強めると、光がこちらを向いた。
そして、口パクで何かを喋っている。なんだ? なぜ声を上げない? 何かがおかしい。
「聞こえないぞ? 光?」
俺はこの時初めて気づいた。光の口から発せられる音どころか、彼女からは一切の音がしない。すぐ目の前に彼女がいるのに、彼女の存在は虚ろの様に感じた。音が全くしないのだ。彼女の姿だけが俺の網膜に姿を写す。
「おい! そこにいるんだろ?」
俺はもう一度声をかける。
光はまた口パクで何かを喋っている。なんだ? 何が起きているんだ! 俺はしびれを切らして光の肩に手を伸ばした。すると、俺の右手は光の体を通り抜けて空を掴んだ。
光もその様子に驚いている様だ。光は自分の肩に触れている。俺に触れられたところを確認しているのだろう。どうやら俺の姿は認識できているらしい。
「くそっ! 一体どうなっている!」
俺は光にもう一度触れようと手を伸ばした。俺の右手が光の額に近づく。そっと右手を伸ばす。そして、俺の手は光の額に音もなく突き刺さった。もちろんそこに感触も何もない。光が何かを言おうとしている。一体何を言おうとしているんだ?
「なんだ? 何が言いたい?」
俺はじっと彼女の唇を見つめた。水分が足りなくて、乾燥している。小説のヒロインなのに全く、ダメじゃないか。俺はそんなことを思いながら、じっと彼女の唇の動きを追った。三文字で何かを伝えようとしている。目が必死だ。必死で何かを伝えようとしている。
彼女の口をじっと見つめる。
「最初の一文字目は、“う”?」
俺は光に問いかけた。どうやら俺の意図が伝わったらしい。光は首を大きく縦に振っている。“う”、であっているらしい。
光は口を大きく動かして、二文字目を伝える。
「二文字目は、“ち”か? いや、違う! “し”だ! そうだろ?」
光は首をさっきより大きく縦にふる。必死の表情が俺の熱した体を冷たく冷ました。続けて三文字目を伝える。緊張が高まる。体の内側から熱が溢れる。
「三文字目は、“ろ”か! “ろ”だな!」
俺は光が唇を動かして伝えようとした三文字を組み合わせた。次の瞬間、視界が真っ暗になった。熱も音も何もない。真っ黒い空間に引きずり込まれた。
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