掃除
@sesamemagnet
女、夜道にて武士を呼ぶこと
「もし、そこの若いお方」
山道を急いでいた所、急に女の声でそう呼ばれ、若い武士は1度は無視し、歩き続ける。しかし、
「あぁ、こうして夜、雨降りしきる山の中、女が傘も持たずに呼ぶのです。それを無視なさるなどこんなにご無体なことがあるでしょうか」
と女が言うので、仕方なく立ち止まり、振り返る。そこにはずぶ濡れで今にも倒れそうながら目だけはしっかりと保ち、こちらを見る中年の女がいた。同じ年頃でなかったことを残念に思ったのか、溜息をつき、武士は問いかける。
「無体とは言うが、逆に考えてみよ。このような状況において女が1人立っておるのだ。なれば尋常ならぬ身の上であるかお主が尋常ならぬ者であるかのどちらかであろう。寧ろ立ち止まる我のような者の方が少ないというものではないか。」
女は静かにその言葉を受け止め、だが引き下がるつもりは無いようではっきりと何か固い意志を持って言う。
「貴方様は私めが物の怪の類であるとお考えなのですね。それも仕方の無いこと。ですが、尋常ならぬのは私めではなく、私めがここにおります理由にございます。」
武士はなかなか折れない女を面白く思ったのか、半笑いで
「その理由とはなんだ、話してみろ」
と言った。女が話した身の上とはこのようなものであった。
女の名前は柊。とある豪商の軒先に捨てられていたところを先代の主人に拾われ、現在の主人になっても仕え続けた下女である。先代の主人には随分と酷く扱われ、時に妻を抱き飽きた主人の慰みものとなりながらそれでも行く末がなく耐えていたところ、先代の主人が酒の食らいすぎで死に、若い現在の主人に変わった。現在の主人は親を厭い、主人に阿るばかりで仕事のできないものを次々と解雇していき、有能な者を揃えていった。自分も処分されるのだと身構えた柊だったが、罪滅ぼしの意味もあるのだろう。現在の主人は柊に優しかった。下女筆頭として雇い続けてくれただけでなく、何かと目をかけてくれていた。先代からいる頭が固く柊をなにかと虐める下女も皆解雇され、よく働く下女を沢山柊の元に付けてくれた。そんなある日、柊は主人に呼ばれたのだ。
「なんで御座いましょう、旦那様」
そう頭を下げ主人の前に出る柊には以前のような卑屈さもほとんど見られず、今幸せであると言うことをよく示していた。しかし、その日の主人はいつものようににこにことはせず、厳しい顔をしていた。今、主人は長男も生まれ、幸せの絶頂であるはずであったのだが。
「柊、お前には本当にお世話になっている。先代の時は非常に迷惑をかけた…特にお前とお絹は先代のうちから勤めているのに性格も歪まず、ご近所にも良い評判だ…」
急に主人がこう語り始めるので柊は困惑した。しかし、使用人の側から質問を押し挟むのは失礼に当たるので柊は黙っていた。そうしているうちに主人はぽつりぽつりと話し始めた。
「先日、お絹が私の子を取り上げたろう。その際お前も手伝いをしていたね。」
「はい、旦那様。」
「その子が男だったので私達が大いに沸いたことは記憶に新しいと思うが、私はその子に安兵衛と名前をつけたのだ。何事も三代目が重要だ。安兵衛には商売を安定させて欲しかったからね。」
そのことは柊もよく覚えていた。子供が男だと判明し、お祭り騒ぎになったこともその子供に安兵衛と名付け、暫くは主人の妻とお絹、その他出来るだけ少ない人数で育てていたことも。
「お前が知っているか分からないが、稚児はね、我々が食べるような固いものは食えぬのだ。だから乳以外に物を食べさせる時は煮すぎるほど煮て潰してから食べさせるのだ。それを我々は煮潰しと呼んでいるのだが、この煮潰しをいつものように安兵衛に食べさせていたというのだが、ここで世にも奇妙なことが起こったというのだ。」
これはなにか一筋縄ではいかない話が始まると思い、柊は膝を正した。
「稚児の時は意外に多くの食べ物を必要とするのは確かだ。しかし、いくら食わせても泣き止まぬという。襁褓が良くないのかと取り替えてみても、母恋しくなったかと妻に抱かせてみるも、泣き止まぬのだ。困り果てたお絹が取り敢えずひと休憩しようと簡単な握り飯を作って食べようとしたところ、急に安兵衛が泣き止んだというではないか。驚いて安兵衛の方を見ると自分の方を見ているのだという。それも稚児のものとは思えぬ目線で睨むように握り飯を見ているという。そのまま手を伸ばすので流石のお絹も驚いてつい握り飯を渡してしまったのだそうだ。稚児が食らうには多すぎる量を軽々と平らげた後に漸く眠ったらしい。」
徐々に話の雲行きが怪しくなり、逃げ出したい気分の柊であったが、そういう訳にもいかず、膝を握り耐えていた。主人の話は続く。
「それからというもの我らが食うような通常の物のみ受け付けるようになったというのだが、それだけではなく見た目は稚児なのに重さだけ段々と有り得ぬ程に増えていくのだという。そして、ある日。その日私は幸せに溺れていたこともあり、また、酒を珍しく飲みすぎていたこともあり、全体的に浮かれていたのだ。最近また飯を食らっても泣き止まぬようになったと聞き、男子なのだ、肉が足りぬのだ肉が!とその時食らっていた肉をな、」
と言って主人はバツが悪そうに、四足を食う訳にもいかなかったのだろう、
「そう、兎の肉を与えてしまったのだ。」
と、ぽつりと言った。顔面蒼白になりかけの柊を気の毒そうに見やり、主人は続ける。
「またも安兵衛は一塊を軽く平らげた。そしてその日からはまた肉の要求量が増えていき、ついには兎肉だけでは我慢が出来なくなり、魚にまで手を出し始めたというのだ。そして要求する肉の量と種類は日に日に増えていき、」
そのあとが何故か予想出来た柊はたまらず叫んだ。
「まさか、旦那様。この柊には耐えようもないお話にございます。どうかそのような恐ろしいお話をこのしがない下女めに聞かせてくださいますな。」
主人は悲しげな目をして柊を見る。
「なぜその先がわかったのであろうな。やはり長く勤めた者には何か分かるところがあるのか。」
と言い、柊が止める間も無く後ろの襖を開ける。そこには畳の上に夥しい量の血と臓物が広がっていた。中心に倒れているのは先代の時から優しくしてくれていた老年の見慣れた下女。そしてその凄惨な現場の中央でなにか蠢くものがある。柊の言葉を失った様子を見て主人はすぐさま襖を閉め、こう言ったそうだ
「すまない。二代に渡りこの家を支えてくれたお前にこんなことを頼むのは気が引けるのだが最後の願いだ。安兵衛を山へ捨ててきてはくれないか。私にとっても親として腹を切るような決断なのだ。分かってくれ。お絹の亡き今お前にしか頼めぬのだ。」
柊はそれを呆然としたまま引き受け、背中にお絹の腕をしゃぶったままなのか棒とずしりと質量のある物を抱え、山へ向かい、ひた走ったのだという。そして、山に着き、下ろそうとした所……
「恐ろしいことが起きたのでございます。安兵衛様は夢中になって我を忘れていたのかと思いきやそんなことは無く私を離さぬのです。」
柊は訴える。武士の表情は暗くて良く見えない。
「終いには私は半狂乱になり安兵衛様を自分の背中ごと岩にたたきつけてしまったのです。だというのに肩から手をお離しにならない。お侍様。助けてください……助けてく」
女の言葉はそこで途切れた。武士がいつの間にか刀を抜き、女を切り捨てていたからだ。武士は血を噴き出し、倒れる女を見て
「すまぬな。お主の主に命じられたことなのだ」
と呟き、女とその背中に付いた"からくり"を後に山を去った。一連の報告を受け、新しい主人はこう言って笑ったという。
「漸く先代の主人の残り香をすべて掃除できたなあ。」
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