沈む太陽の10倍の速さで走れメロス

 メロスは立ち上る事が出来ない。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、沈む太陽の2倍の濁流を泳ぎ切り、3倍と言っておきながら4倍で走った山賊を三人も撃ち倒し、韋駄天、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。

 愛する友は、おまえの速さを信じたばかりに、沈む太陽の3倍の速さで殺されなければならぬ。人間の力を疑う王、太陽の10倍の速さで走る人間などおらぬと断ずる王の思う壺つぼだぞ、と自分を叱ってみるのだが、もはや全身萎えて、太陽の0.01倍の速さも出ない。


身体疲労すれば、精神も共にやられる。やはり無謀だったのか。沈む太陽の10倍も出せないまま、人類は引力の底で朽ち果てていくのだろうか。

 私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。覚醒に覚醒を重ね、常人の限界、太陽の5倍速にまで至った。

 けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから止まっていたのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私たちホモサピエンスの定った運命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。


 私が沈む太陽の10倍の速さで帰ってくると誓った時、君は私を笑いもしなかった。数千年にわたって破られなかった限界、シラクサの市の城壁ができる前から存在していた壁を破るといった私を信じたのだ。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。

 セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。沈む太陽の2倍の濁流を突破した。3倍と言っておきながら4倍だった山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。


 王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。

 けれども、今になってみると、あれは王の期待の表れではなかったか。絶対に守れない約束だったのだ。ちょっと遅れてこい、などという必要はなかった。地球からシラクサまで3日で往復するなど、子供にも不可能とわかる。王はいつもそれを思い知らされ、失望し続けてきた。

 それでも、それでもちょっと遅れるくらいの速さで走ってきたなら、と、王は淡い、どうせまた裏切られるに決まっている夢を抱いたのではないか。まだ我々には隠された力があると信じたかったのでは。


 いや、それも私の、ひとりよがりか?

 私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、少し寂しそうな顔をして、そうして事も無く私を放免するだろう。

 ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。沈む太陽の0.8倍の速さの羊も居る。0.9倍と1.2倍の妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。

 正義だの、愛だの、人間の可能性だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬるかな。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。


 ふと耳に、せんせん、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、そこには何もない。

 いや、あるのだ。確かに聞いた。流れてくる力の奔流を、自分に、人間に、世界に、さらに進めと命じる声を。


 夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労回復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。

 斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。

 それは独りだけではない。二人か?十人か?いや、もっとだ。シラクスの民が、村の皆が、地球の命が、私を望んでいる。私は、信じられている。

 私の命なぞは、問題ではない。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。


走れ! メロス。


 私は信頼されている。私は信頼されている。

 メロスは走った。

 ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。

 メロスは走った。黒い風のように走った。少しずつ沈んでゆく太陽の、10倍も早く走った。いや、11倍、12倍、まだまだ加速する。科学が人類に与えた超越の歩法すら超えて、メロスの脚はいま、宇宙の深淵に挑戦しようとしていた。


 大気圏を抜ける直前、一団の旅人と颯さっとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。

「いまごろは、あの男も、はりつけにかかっているよ。」

 ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、先へと征く意思を、いまこそ知らせてやるがよい。

 風態なんかは、どうでもいい。服はとうに燃え尽き、メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。


「ああ、メロス様。」

うめくような声が、風と共に聞えた。

「誰だ。」

メロスは走りながら尋ねた。

「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の、沈む太陽の1.3倍の速さの弟子でございます。」

その若い石工は、追加加速用のロケットをつけ、どうにかメロスの後について走りながら叫んだ。


「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」

「いや、まだ陽は沈まぬ。」

「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」


「いや、まだ陽は沈まぬ。」

 メロスは胸の張り裂ける思いで、もはや赤さを失った大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。

「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。太陽の7倍の速さで走る王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」


 互いの距離が縮まっていく。メロスが速い。まだ加速している。太陽の15倍、20倍。

「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」

 フィロストラトスはついていけない。もはやメロスは流星であった。膨大な光を噴射するロケットをちぎり、シラクスの城壁を焼き尽くしながら走る。


「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」

 後から続いてくる、畏れるようなフィロストラトスの声は、もう届かなかった。

 まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。


「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれてしわがれた声がかすかに出たばかり。

 しかし彼の到着に、群衆みな気づいていた。当たり前だ。燃える火の玉が突っ込んできたのだから。


 はりつけの柱の形をした射出装置が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆくところだった。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように沈む太陽の3倍の速さで群衆を掻きわけ、掻きわけ、「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。

 

 群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。

「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。沈む太陽の3倍の速さで頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若もし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」


 セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯ずき、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、「メロス、私を殴れ。同じくらいの速さで私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」

 メロスは腕にうなりをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。


「ありがとう、友よ。」

 二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

 暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて沈む太陽の4倍の速さで静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。

「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に、わしの速さに勝ったのだ。人の可能性とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

 どっと群衆の間に、歓声が起った。

「万歳、王様万歳。」


 ひとりの少女が、沈む太陽の0.5倍の速さで緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。


「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」


 勇者は、沈む太陽の150倍の速さで、ひどく赤面した。

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沈む太陽の十倍の速さで走れメロス @aiba_todome

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