10 余生の魔女
雫と芳乃の晩年は、穏やかなものだった。
真鍋製菓飛躍の立役者として、二人は定年後も相談役を務めた。魔女の名にふさわしい齢になった雫は飽くことなく研究を続け、芳乃はお茶とおしゃべりが仕事になった。二人とも独身のままだった。
そんな二人の日常に、最後の波乱が訪れたのは、冬のことである。
あの先輩が、ひとり身になったのだ。死別だった。
芳乃は先輩の身辺を調べ続けている。妻と子供に恵まれた幸せな人生。
だからこそ雫は待ち続けた。その機会が、ついに訪れたのだ。
「今でも告白したいと思ってる?」
「もちろんよ。でも、チョコがまだ……」
「ウソでしょ?!」
「想いを伝えるチョコは、とっくに完成したわ。
でも、時間が経つにつれ、想いは変わると知った。
そのたびにチョコを作り直して来たの。
今の私を伝えるには、新しいチョコが必要なのよ」
芳乃は驚いた。雫の想いは盤石だと、どこかで信じていたのだ。
「でも、きっとこれが最後のチャンスだよ」
雫はうなずいた。
「わかってる。今度こそ完成させるわ。
チョコレートに──」
「不可能なんてない、よね?
大丈夫、段取りはわたしに任せといて」
請け負った芳乃だが、事態は思わぬ方向に転がった。
妻に先立たれたショックから、先輩が認知症を患ったのだ。
記憶が曖昧になり、家族の顔すら忘れてしまった。
徘徊癖があらわれ、子供たちは仕方なく、父を老人ホームに預けた。
今や日本を代表する企業となった、真鍋製菓の経営する施設だった。
今の先輩は真っ白な状態だ。
先輩には不運だが、雫には幸運かもしれない。
芳乃はそう思った。
《魔女》がホームを訪れたのは、二月にしては暖かな冬日和の午後だった。
芳乃の案内で施設の裏庭に向かう。人気のないその場所が、最近の先輩のお気に入りだという。
ほどなく二人は先輩を見つけた。老いてはいるが面影がある。建物の壁にもたれ、杖を手にぼんやりと立ち尽くしている。
「こんにちは。何をしてるんですか?」
「人を待ってるんだ。呼び出されてさ」
老人の口調は、奇妙に若い。二人は顔を見合わせた。
「誰に呼び出されたんですか?」
「後輩の芳乃だよ。今日はバレンタインだから。
誰が来るかは聞いてないけど、何となくわかる」
嬉しそうな老人の笑顔に、芳乃は声を詰まらせた。
「先輩……お待たせしました」
雫は魔女帽子を取り、頭を下げた。
「食べてください……これが私の気持ちです」
差し出されたチョコを、老人は不思議そうに受け取る。
相手が誰か、わかっていない顔だ。たとえ認知症でなくとも、今の雫に半世紀前の面影を見出すのは不可能だろう。
「食べてもいい?」
雫がうなずくと、老人は箱を開け、チョコをつまむ。
「うん、美味しいよ。ありがとう」
凍り付いたような雫の顔に、熱いものが伝った。
変化が起きたのは、その後だった。
ぼんやりしていた老人の焦点が定まり、改めて二人を見つめ直す。
「ここは……いや、あなたたちは……?」
芳乃は気がついた。
雫の魔法だ。これが雫の今の想いなのだ。
「《チョコレートの魔女》ですよ、先輩」
帽子をかぶり直す雫の横で、芳乃は茶化すように言った。
「そろそろ家に帰りましょう。お子さんが待ってますよ」
「あれっ。まだ研究するの?」
研究室に戻った芳乃は目を丸くした。
恋が終わった以上、チョコ作りはやめるのかと思ったのだ。
「来世のためにね」
「来世? あるの、来世?」
「科学的には証明されていないけれど。
先輩に会った時、運命を感じたわ。チョコレートを作った時にも。
前世の土台があるからここまで来れた。来世も必ずある。
今から備えれば、次こそ間に合うはずよ」
突拍子もない話だが、外ならぬ雫の言うことである。
チョコに魔法があるならば、来世だってあるかもしれない。
それに運命なら、芳乃だって感じなくもない。
「……わたしは?」
ティーセットを運んでくる雫を、見つめる。
「わたしには、感じなかった?」
魔女は帽子のつばを上げ、微笑した。
「来世でもお願いね、芳乃」
「えー、どうしよっかなーっ」
二人は楽しそうにカップを掲げる。
芳乃は紅茶、雫はカフェオレ。おやつはもちろんチョコレート。
「──わたしたちの、来世に」
チョコレートの魔女 梶野カメムシ @kamemushi_kazino
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